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(42)命の灯


 産声を耳にした瞬間、太一郎は卓巳と手を取り合っていた。


 卓巳の存在を知った時、太一郎の胸に嫉妬と羨望を纏った悪魔が棲み付いた。万里子を欲しいと思った後は、彼自身が悪魔と化していたように思う。

 そして藤原家から離れ、太一郎の中に自尊心が芽生えたのだ。今度はその為に、素直に頼ることが出来なくなっていた。

 

 だが、太一郎の窮地に卓巳は駆けつけてくれた。そして今も……あまりの感動に声も出ない太一郎の肩を抱き、卓巳は一緒に喜んでくれている。

 いつか――もし、いつの日か、卓巳や彼の息子が困った時は、何をおいても必ず駆けつけよう。太一郎はそんな想いを胸に刻み込む。



 そして手術室の扉が開いた時、喜びと安堵は脆くも崩れ去る。

 


~*~*~*~*~



「それは……一体、どういうことか……よく」

 

 産まれたのは女の子と教えてもらい、おめでとうございます、と言われた直後のこと。太一郎が口を挟む間もなく、医者は緊迫した表情で言葉を繋げた。


「母子ともに危険な状態が続いています。お子さんはどうにか取り出しましたが……新生児仮死状態でした」


 奈那子の症状は非常に重いものであった。

 子宮はカチカチになり、胎盤の剥離面は三割以上に及んでいたという。もしこれが自宅で起こり、救急車で運ばれて来たなら……おそらく子供はすでに死亡していただろう、と医者は告げた。

 子供は三十五週目で二千グラムに少し足りない。取り出した直後は自発呼吸が出来ず、気道を吸引して呼吸を補助した。それで産声を上げることが出来たのだ。しかし、その後も弱く不規則な呼吸が続き……。娘は保育器に入れられ、すぐさまNICU――新生児特定集中治療室――に運ばれたのだった。

 

 一方、奈那子は……。

「現在経過をみている段階です。このまま出血が止まればよいのですが……。止まらない場合は、奥様の安全を第一に考え、子宮の全摘出という可能性もあります」

 その言葉に、太一郎は愕然とするだけだった。

 


 ガラス越しに横たわる小さな娘の姿を確認した後、太一郎はICU――集中治療室――に移された奈那子の傍に行く。

 卓巳は万里子に事情を話してくると言っていた。

「万里子には母子ともに無事だと伝える。私は嘘つきになる気はない。二人とも必ず助かる。たとえ何があっても、お前だけは絶対に諦めるな!」


 卓巳の言葉を何度も思い出すが……。

 医者は、今回のケースだと子供の二人に一人は亡くなる、と言った。まだまだ予断を許さない。容態が急変したら連絡します、と院内で使える携帯電話を持たされた。

 

 ICUには専用のガウンとキャップを着用しなければ入れない。指の一本一本まで丁寧に洗い、履物も替えて入室する。

 そしてベッドに横たわる奈那子は、今にも消えそうな顔色をしていた。

 

 太一郎の胸に、喜びより後悔が湧き上がる。何もかもが、桐生の愚行すら自分の責任に思えてならない。

 そもそもの始まりは、奈那子に対する愛情ではなかった。――その想いが、何より太一郎をさいなんだ。


 

 どれくらい、無言で見つめていただろう。


「た、いちろう、さん」


 奈那子の瞼が微かに動き、掠れた声で夫の名を呼んだ。


「奈那子……目が覚めたか? 気分は悪くないか?」

「わたしの……赤ちゃん……」

 全身麻酔で産声も聞けなかったのだろう。奈那子は真っ先に子供の心配をする。

「女の子だよ。小さいけど、ちゃんと産声を上げたんだ! きっと、すっげぇ美人になる」

 太一郎は懸命に明るい声を出した。

「……抱っこ、出来ない?」

「それは……」


「早産だったでしょう? 小さめの赤ちゃんは保育器に入れて、様子を見ることになってるのよ。お母さんが早く元気になって、母乳を飲ませに行かないとね」

 口籠もる太一郎の横から、看護師が答えてくれた。


 すぐに数人の医者がやって来る。彼らは奈那子の体に繋がれた、たくさんのモニターをチェックした。極めて機械的ではあるものの、その表情から緊張が消えることはない。

 そして、

「藤原さん。先ほど申し上げました通り、経過が思わしくありません。手遅れにならないうちに、子宮の全摘出が望ましいと思われます。奥さんも、よろしいですね?」

 そう告げたのだった。


 奈那子の命には替えられない。太一郎が頷こうとした時、

「なんとか……残せませんか? わたし、どうしてももう一人産みたいんです……お願いします」

 奈那子は、思いのほかしっかりした声でそう言った。


「奈那子! お前、そんなこと言ってる場合じゃ」

「だって……太一郎さんの子供、産みたいの。この子も大事よ……でも、あなたの子供を産めないなら、妻ではいられない……」

 

 それは、後継者が必要な家に生まれた者の習性かも知れない。後継ぎが、と言われ続けた太一郎にもよく判る。太一郎の妻でいる為には、彼の子供を産まなくてはならない。奈那子がそう思い込んでも無理はない。

 そして彼女は、父親の言葉にも深く傷ついていた。

 

『他の男の子供を亭主の実子にする……母親に良く似た恥知らずな女だ』


 理屈ではなく。太一郎の子供を産んでこそ、自分たちは本当の家族になれる。……奈那子は切々とした眼差しで太一郎を見つめた。


 

 太一郎はグッと息を飲み込んだ。そして奈那子の手を優しく握り、ニカッと笑ってみせる。


「子供の名前だけど……うちのばあさんから一字貰って〝美月みつき〟ってどうかな? 藤原家の曾孫だし、名前貰ったって言ったら、喜んでくれると思うんだ」

「太一郎……さん?」

「俺には姉妹もいないから……女の子のことはよく判んねぇ。それに、本当にちっこいんだぜ。触ったら壊しそうだし……俺には母乳なんてやれないし……」


 笑っているつもりが……太一郎の開いた瞳から、ハラハラと涙が流れ落ちる。

 それは止め処なく溢れ出て、彼女の手を濡らして行く。


「頼む。頼むから、俺たちのために……諦めてくれよ。三人で生きようぜ。俺はお前の親父とは違う。お前だって、お袋さんとは違うだろ? 俺と……美月のために」


 奈那子の頬がふわっと綻び、こめかみに一筋の涙が伝った。

 彼女はゆっくりと頷き、そのまま静かに目を閉じた――



 ――刹那。


 容態の急変を告げる警告音がICUに鳴り響いた。



~*~*~*~*~



 廊下にいたのは奈那子の祖父、桐生久義だ。

「話は聞いた。あの源次め……ただでは済まさんぞ」

 腹の底から唸るような声を出す。

 だが、今の太一郎には呪いの言葉すら苦痛であった。


 ただ、やり直したかっただけなのだ。

 自分の犯してきた罪を悔い改め、償いの道を選んだつもりだった。

 もしこれが太一郎の悪行に下された罰であるなら、神様は間違っている。太一郎自身の腕や足を持って行けばいい。諸悪の根源である男性自身を切り落しても構わない。なのに、奈那子を苦しませ、絶望に追い込み、尚且つ命まで奪おうなんて……無情にもほどがある。


 太一郎は真剣に願っていた。可能なら、自分に残された命全てを、奈那子に差し出したい。娘の……美月のためにも。

 名前を付けることに遠慮と躊躇いを感じていた。だが、そんな太一郎の思いが、奈那子に疑惑を抱かせたのかも知れない。そう思った太一郎は、あえて皐月から名前を貰ったのだ。自分の子供だ、と思いを籠めた〝美月なまえ〟であった。


 

 その時、彼が手にした携帯から着信音が流れた――。


 


御堂です。

ご覧頂きありがとうございました。


次回で最終話となります。


よろしくお願い致しますm(__)m

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