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(41)産声


 奈那子の上半身が床に倒れ込む寸前、太一郎は彼女を抱き留めた。


「奈那子!? 奈那子っ!」


 馬鹿の一つ覚えと言われても、それ以外の言葉が出て来ないのだ。

 奈那子は眉根を寄せ、歯を食い縛っている。額にはびっしりと汗が浮かび……。まるっきり意識がないのではなく、とても返事が出来る状態ではないようだ。

 すぐに医者を呼んで来なくては――太一郎が床に手をついた瞬間、ヌルッとした物が指先に触れた。

 生温かい、真紅の液体が奈那子から流れ出ている。陣痛より先に破水が起こるケースは太一郎も勉強した。だが、これほどの出血が起こることは想定外だ。尋常ではない事態に、太一郎の指は震えていた。


「……奈那子……誰か、助けてくれ……だれか」


 立ち上がりたいのに、腰から砕け落ちそうになる。大声を出すつもりが、喉から空気が漏れるような声しか出てくれないのだ。

 その時、太一郎の耳にガラスをつんざくような悲鳴が聞こえた。

 


 声の主は雪音だった。

 廊下の異変に、最初は奈那子のことも引き止めたのだ。しかし、奈那子は桐生の声を聞き、病室から飛び出してしまった。だが雪音には、万里子と産まれたばかりの赤ん坊を危険から遠ざける義務がある。彼女はドアを硬く閉め、侵入者から守るつもりで身構えていたのだった。

 


「奈那子さんっ! 太一郎様、どうしてこんなっ!?」

「……医者を……頼む、早く医者を」


 奥から万里子がナースコールをして医者を呼ぶ声が聞こえ……。

 


~*~*~*~*~



 卓巳がその連絡を受けたのは会議中であった。

 前日にとんぼ返りした北海道での案件について、報告を聞いていた時に、秘書の中澤朝美が病院からの電話を告げたのだ。

 

(やはり、病院を離れるべきではなかった!)

 

 瞬時に、万里子か息子に何かあったのだと思い、卓巳は後悔した。しかし、電話の相手が万里子だと知り、少しホッとする。

 ところが……半ばパニックの万里子から聞き出した言葉に、卓巳は戦慄を覚えた。



 わずか三十分後、病院の入り口で卓巳を出迎えてたのは雪音だった。彼女を万里子の元に戻らせ、卓巳は一人で手術室に向かう。

 手術室――分娩室でないことが最悪の事態を意味する。忙しなく動き回る医療関係者の中にあって、太一郎は廊下のベンチに放心状態で座っていた。

 その姿は……まるで人を殺して逃亡中の犯人さながら、血塗れだ。


「太一郎――。桐生老はすぐに来るそうだ。母親は、マスコミを避けて海外にいる。連絡はついたが……」

 葬儀なら予定を繰り上げて戻るけど……。

 そんな言葉を、卓巳はとても太一郎に伝えることは出来なかった。

 


 〝常位胎盤早期剥離じょういたいばんそうきはくり


 卓巳が病院側と連絡を取り、確認した診断名だ。

 当初、出血量から前置胎盤が予想された。だが、つい先日の診察で胎盤の位置は正常と確認されたはずなのだ。精査の結果、胎盤の剥離が確認される。外出血の多さは剥離が子宮口に近い場所だったことが原因と判った。

 倒れた場所が病院であったこと。それも、救急体制が整ったICUのある大学病院であったのが不幸中の幸いとなる。奈那子は緊急帝王切開が決まり、つい先ほど手術室に運ばれたのだ。



「太一郎、とにかく着替えて来い。その格好じゃ、女房子供と対面出来んぞ」


 卓巳はそう言うと、病院の売店に用意されているジャージを差し出した。

 だが、太一郎は力なく首を振る。


「太一郎っ!」

「奈那子が……奈那子が言ったんだ」

 卓巳に襟首を掴まれた途端、太一郎が掠れる声で話し始めた。

「帝王切開って言われて、ストレッチャーに乗せられて……奈那子は言った。……もし自分が死んでも、この子を恨まないで欲しい。この子にだけは産まれて来なければ良かったとは、言わないで……って」


 そう言うと、太一郎は力なく床に崩れ落ちた。

 自分より大柄な従弟が、小さな子供のように床に突っ伏して泣き始める。この一日前、無事父親になった卓巳には、これ以上今の太一郎に掛ける言葉が見つからない。


 

 常位胎盤早期剥離の原因は不明とされている。幾つかの可能性はあるらしいが、前置胎盤と違うのは定期検診では判らない点だろう。

 万里子の母は前置胎盤で母子とも亡くなっている。今から二十年近く前は、まだ超音波でそこまでの判断が出来なかった。現在なら、定期検診で防げたかも知れないアクシデントだ。

 だが現在においても、胎盤の早期剥離は突発的に起こる。事前の予測がつかず、転倒など外的要因でも起こるという。

 今回の場合、父親の言葉による心理的な要因が大きいと思えるが……。それを証明する手段はなかった。


 

「俺の……せいだ。あんな野郎に好き放題言わせて、黙らせることの出来なかった、俺の」

「太一郎、それは違う」

「全部俺のせいなんだ! 奈那子は俺の本性を知ってるから……あの男と同じように、俺が子供を傷つけると思って……」

「しっかりしろっ! 誰もそんなことは言ってない!」

「金がなくて、ちゃんと病院に行かせてやれなかったから。いや、俺が中絶させたことが原因なのかも知れない。俺のせいで……俺が奈那子を死な」


 その不吉な言葉を、卓巳は力尽くで黙らせる。



 次の瞬間――手術室から小さな声が聞こえた。

 初めは聞き違いかと思うほど、あまりに微かで……。二人はそのままの姿勢で息を止め、聴覚に全神経を集中させる。卓巳は心の中で手を合わせ、滅多に祈ることのない神に二日連続で祈りを捧げた。


 約一分、男たちの緊張の糸が切れそうなほど張り詰めた、その時――。


 そこに確かな命が誕生したのだ。


 人々の鼓膜を震わせ、産声が響き渡ったのである。



~*~*~*~*~



「産まれた? 本当に……無事に産まれたんですね?」


 万里子は病室前の血だまりを見た時、倒れそうなほどショックを覚えた。

 医者が駆けつけ、奈那子を運んで行く所だったのだが……。彼女自身の母親の例もある。万里子はすぐさま卓巳に連絡を取ったのだった。


「ああ、大丈夫だ。太一郎なら絶対に息子だと思ったんだが……。まあ、娘だとしても、母親に似れば美人になるだろう」


 卓巳は少し機嫌悪そうに、それでいて憮然としている。

 その理由が、太一郎に娘が産まれたことであるならいいのだが……。


「あの……奈那子さんは? 母子ともに問題ないんですよね?」

「心配は要らない。緊急帝王切開になり、出血が多くて輸血した為にすぐには動けないが……。太一郎も彼女を案じて、ずっと傍にいる。君の体調が安定して、向こうも落ち着いたら見舞ってやるといい」


 卓巳はそう言うと、何もなかったかのように息子に歩み寄った。


結人ゆうと、パパだよ。今日は逢えないかと思ったが、ラッキーだったな」

 ニコニコ笑いながら息子の頬に触れる。

「ゆうと?」

「人は独りでも生きていけるが、幸福になれない。同じだけ苦しみや悲しみ、別れも経験するかも知れない。だが、人には人が必要なんだ。この子には人と人を結ぶ架け橋になって欲しい。だから……結人と名付けた。駄目かな?」


 お姫様を唱えながら、おそらく、数ヶ月は悩んで決めた名前だろう。万里子はそれを口にせず「駄目じゃないわ。とっても素敵」そう小さく呟いた。


「皆を幸福の糸で結んでくれる。わたしはそう信じています」


 卓巳の嘘に気付きながら、精一杯の微笑みを返す万里子だった。



 

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