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(40)愛から生まれぬ命


 いつの頃からだろう、父の奈那子を見る目が変わったのは……。

 荒んだ目を娘に向ける桐生源次を見ながら、奈那子は考えていた。



 母は、小さい頃から奈那子には冷たい眼差しを向けていた。そもそも、娘に関心がなかったのかも知れない。外に出て注目を浴びることが生きがいのような女性であった。

 選挙の時だけ、一家は仲の良い家族になる。母は『内助の功』『良妻賢母』の呼び名欲しさに、人前ではことさら夫を立て、奈那子を可愛がってくれた。

 その裏事情を知ったのは、奈那子が成長してからのこと。幼い頃は何も知らず、ピアノやバレエ・絵画と習い、コンクールがあるたびに出場していた。マスコミの視線を引くような場所に立つと、必ず両親が来てくれるからだ。そんな時、両親――とくに優しい母の存在を感じ奈那子は幸せだった。

 

 父と距離を感じ始めたのは……おそらく小学校に上がった頃だろう。

 それまでも、男の子ならもっと祖父に喜んでもらえたのに、そんな言葉を耳にしたことはあった。だが、それでも父が奈那子に向けてくれる笑顔は本物だったと思う。

 しかし、ある日を境にパッタリと無くなった。

 だからこそ、小学生の奈那子は自分を責め、両親にとって自慢の娘であろうと懸命だった。余計なことは言わず、いつも笑顔を浮かべ、両親の命令には全て「はい」と答え続け――。


 そんな奈那子にとって、人生で唯一、羽目を外したのは太一郎との交際だろう。

 最初、太一郎の激しさと乱暴さが、奈那子の目には力強く映ったのである。臆病で弱虫な自分を変えて、〝桐生〟というしがらみから彼女を連れ出してくれるような、頼もしい男性。

 もちろん今は、太一郎が見た目と違って繊細なことは承知の上だ。それでもあの祖父と掛け合い、奈那子との結婚にお許しを貰ってくれたのは凄いと思っている。


 父は祖父、桐生久義の顔色ばかり窺っていた。

 奈那子にはよく判らないが、祖父は政治家としての影響力をいまだに持っているらしい。三年前に亡くなった祖母は……母と同じ冷たい瞳をしていた。奈那子は祖母の視線を感じるだけで、背中が冷たくなるほど汗を掻いたものである。

 それに引き替え、祖父は奈那子に優しかった。でも母が祖父とは疎遠だった為、頻繁には会いに行けなかったのだ。

 

 母は自分に似ていない奈那子を、父にそっくりだと責めた。些細な失敗や、人と劣る点はすべて、父の血だと言い続けてきたのに……。


(わたしは……いったい、誰なの?)

 

 自分の中に流れる血は、一体誰から受け継いだものなのか。自分はこの世の中に、産まれてきて良かった命なのか。そして、命のバトンを繋ぐ資格が、果たして自分にはあるのだろうか。


 ふいに足元が砂のように崩れ始め……奈那子は眩暈を覚えていた。



~*~*~*~*~



「この私を無一文で叩き出そうとしたから、お前のことをバラすと言ってやったんだ! さすがの美代子も、自分の不始末は親に黙ってたからな。それが、あのクソ爺め!」

 

 美代子は極端に、桐生老に知られることを嫌がった。父娘おやこの確執というものだろう。それには彼も都合が良かった。種無しだと知られたら〝桐生〟を放り出される。それでは出世の道が断たれてしまうからだ。

 その為、二人は長年仮面夫婦を演じてきた。

 だが桐生老は夫婦の秘密すら知っていたのである。奈那子の出生を口にしない、という条件で桐生老は源次に金額を提示してきた。


「これ以上マスコミに桐生の名前が出るのは好ましくない、だと? 刑務所にブチ込まれたくなければ、はした金で政界から去れと言いやがった! 秘書の頃から、三十年以上も桐生に尽くしたこの私を、お前の祖父さんは虚仮こけにしたんだ! それも、四十にもならん甥っ子に、桐生の地盤を継がせるとぬかしやがって!」


 

 太一郎は奈那子の前に立った。少しでも彼女を庇いたかったからだ。しかし、彼女は太一郎の横をすり抜け、桐生の横にしゃがみ込む。


「お……とうさま。もう、止めて下さい。わたしからお祖父様にお願いして参ります。ですから」


 奈那子は蚊の鳴くような声で囁き、父の手を取った。

 だが、そんな娘の思いやりを桐生は振り払う。


「いらん! 刑務所なんぞ真っ平御免だ。貰えるだけ貰って来たが……。お前にだけは教えてやろうと思ってな。お上品な仮面を被ったお前の母親は、ただのメス豚だ! お前の父親が誰かも判らんそうだ。いいか、腹のガキに、間違っても私が祖父だなんて言うんじゃないぞ!」


 警備員たちは、桐生の名前と太一郎たちの様子に、追い払うかどうか態度を決めかねている。だが太一郎は、小刻みに震える奈那子をこれ以上見ていられなかった。

 無言のまま桐生の襟首を掴み、馬鹿力を発揮してエレベーターまで引き摺って行く。

 

「娘じゃないと……産まれる前に判ってたら……お前なんか殺してたんだ!」


 エレベーターが開く寸前、桐生はそう叫んだ。

 太一郎はそんな桐生をエレベーターの中に叩き込む!


「俺は貴様の首を絞めてやりてぇ……奈那子と子供がいなけりゃ、絶対にってる」

 

 操作盤の横を拳で殴りながら、太一郎はうなった。

 そんな太一郎の背後から、二人の警備員が走り寄る。彼らは慌ててエレベーターに乗り込み、桐生を両側から挟むように押さえ込んだ。

 

「こいつを外に叩き出せ! 病院内立ち入り禁止だ。卓巳が出したブラックリストのトップに、この男の名前を載せるんだ!」


 太一郎は警備員を怒鳴りつけた。どうにも、怒りのやり場がない。

 

 閉まりかける扉の隙間から、狂ったような笑い声が聞こえた。誰に言いたいのか、「ざまぁみろ!」と叫び続ける桐生だった。




 最上階フロアに静寂が戻る。

 太一郎は息を吐きつつ、奈那子を振り返った。思った通り、彼女は壁にもたれ掛かるように、座り込んだままだ。


(やっと……ここまで来たのに)


 間もなく二十五歳になる太一郎と二十二歳になったばかりの奈那子。

 決して子供ではないが、まだまだ一人前の大人とも言えないだろう。しかも、太一郎は人を気遣う仕草や優しい言葉が苦手で、奈那子は人に甘えたりねだったりすることが難しい。

 そんな二人が、自分たちの力で生きる糧を得て、ようやく新しい人生を歩き始めたのである。

 

 奈那子が〝良い娘〟になろうとした努力は、桐生の言葉で粉々に砕かれた。深く傷ついたであろう妻に、どんな言葉を掛けてやればいいのか。

 

 奈那子を見つめたまま、太一郎はゆっくりと歩きながら考える。


 その時――太一郎は微妙な違和感を覚えた。何かがおかしい。トクン、と心臓が高鳴る。


「……奈那子……?」


 奈那子は今日、淡いブルーのマタニティワンピースを着ていたはずだ。それが――


(なんで……スカートが赤いんだよ)


 太一郎の心臓は、みるみるうちに早鐘を打ち始めた。最悪の予感に膝が震える。口の中で「奈那子、奈那子」と繰り返すが……。

 

 次の瞬間、奈那子の体がグラッと傾いた!


「ななこーーーっ!!」


 

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