(4)彼女に宿る命
「嫌です、お父様。お願い……太一郎さまはわたしを迎えに来ると仰ったの。だから……」
奈那子は太一郎のことを信じていた。
いや、何があっても信じるつもりでいた――が正しいかも知れない。だからこそ、父・桐生に婚約者・泉沢清二との結婚を早めることにした、と告げられた時、泣いて嫌がったのだ。
だが、父も母も祖父も、誰も奈那子の味方はしてはくれない。母は特に、婚約者がいながら太一郎と関係し、妊娠した奈那子に蔑みの視線を向けたのである。
「桐生家の一人娘として、慎み深い女性になるようにと育てたのに……なんということかしら。お父様が源次のような男を婿に選ばれるから。わたくしに似ていたら、こんな恥知らずな娘にはならなかったはずです」
母・美代子も一人娘であった。祖父が地盤を継がせるべく、有能な男だから、と自分の秘書を婿養子にした。それが源次だ。源次は有能ではあったが出世欲が強く、祖父は敬うくせに、妻は顧みない男であった。ただ、愛人を作るわけでもなく、一人娘の奈那子は大事にする。何より、政治家としての職務を一心に果たすので世間の評判は上々だ。その結果、美代子は行き場のない不満を溜め続け……それはひたすら奈那子へと向かう。
奈那子にとって、幼い頃から良い子であることが使命だった。
良い子であれば祖父も父も可愛がってくれる。良い子であれば、母は父に文句を言わず、両親の喧嘩を見なくて済む。そのためなら、父の望む通りの男性と結婚することも黙って受け入れた。
だが、そんな彼女も夢見ることはあったのだ。いつか……親の期待や様々な柵から、自分を連れ去ってくれる男性が現れるかも知れない。圧倒的な力で、しかも“愛”という動機を持って。
そして、彼女を危機から救い出してくれたのが太一郎であった。
「あなたのような経験の少ない女子大生を罠に嵌めて、それで楽しんでいるような下種な男よ。あなたは騙されてるのよ」
太一郎と付き合い始めた奈那子に、友人は口を揃えて言う。
「わたしは違うの。本当に助けて下さったのよ。時折、乱暴な口調にはなるけれど、本心ではないの。ご家庭で辛い思いをされてるから……」
心が潰れそうになるほどの過大な期待――その重圧の苦しさを奈那子は知っている。かといって、重圧から解放されても決して楽にはなれない。自分の至らなさに苛まれ続けるのだ。
奈那子の目に太一郎は孤独に映った。どれほど多くの友人に囲まれていても、いつも独りで寂しそうにしている。自分なら、太一郎を癒して本来の彼に戻して上げられるかも知れない。
太一郎を庇い続ける奈那子の姿に、友人は一人ずつ離れて行った。
献身的に尽くす奈那子に、太一郎の要求は身体だけに止まらなくなる。「従兄に奪われて、小遣いすらままならない」と言い始め……。自分名義の預金まで崩すようになった奈那子を、周囲の誰もが冷たく嗤っていた。
それでも信じると決めたのだ。夢にまで見たヒーローが、マッチポンプを仕組んだ偽物であるはずがない。
父に逆らい、家を出て、どれほど苦しい思いをしたとしても……奈那子にとって太一郎は、この世界で唯ひとりの英雄だった。
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六畳間の小さなテーブルに並ぶ、炊き立ての白いご飯と豆腐の味噌汁、味付け海苔、目玉焼き――。
これだけの朝食が無事に用意出来るようになるまで、丸一ヶ月を要した。奈那子は家を出るまで食事の用意などしたことがなく、太一郎にしても似たようなものである。それは食事に限ったことではなく、掃除も洗濯も全てが手探りでママゴトにも似た生活だ。
奈那子はご飯の用意をして座ると、太一郎が先に食べ始めるまでジッと待っている。
「ああ、美味いよ」
口をつけた太一郎がそう言うと、「良かった」と微笑み食べ始めるのだ。
一緒に暮し始めた当初は、「太一郎さま」と呼ばれて困った。「さん」にしてくれと何度か訂正して、最近ようやく「太一郎さん」に馴染んできたところだ。
再会したとき、彼女は様々な都合で親元を飛び出していた。
だが、太一郎を訪ねることも出来ず……。手持ちのお金が底をつき、「仕事を世話してやる」と言われ、そのままラブホテルに連れ込まれる所だった。確かに“仕事の世話”には違いない。とんでもない野郎ではあるが、それを責める資格は太一郎にはなかった。
太一郎は奈那子の事情を知り、会社の独身寮を出た。
桐生は一人娘を簡単には諦めないだろう。永遠に逃げ切れないのは判っている。だが、せめて子供が産まれるまで時間を稼げれば……。
ほんの数ヶ月前まで、太一郎は人間の屑だった。そんな男を、本気で愛してくれたのは奈那子ひとりかも知れない。
卓巳を想う万里子の姿はすぐに認めることが出来たのに、自らに向けられる想いに何故気付けなかったのか。太一郎の子供を産みたいと言ったのも、この奈那子だけだったのに。
「太一郎さんの子供を殺したから、罰が当たったんです。でも、もう二度と中絶は嫌です。たとえ、父親が誰であっても……」
それは奈那子の抱える様々な問題の一つであった。彼女は大きな瞳に涙を一杯溜めて、ひとりで子供を産むつもりだ、と言う。
今度こそ……その願いだけは、どんなことをしてでも叶えてやりたい。
それが奈那子に対する“愛”にせよ、“贖罪”にせよ、太一郎の決意に変わりはなかった。
「奈那子、大したことじゃないんだけど……今日から仕事が変わると思う。多分、都心まで出るから、帰りは少し遅くなる。体に悪いから、起きて俺のこと待ってるなよ」
まず、『名村産業』に行って荷物を整理し、挨拶を済ませる。郁美の様子を窺って、昨夜と変わってないようなら、等が社長を務める『名村クリーンサービス』に行けばいい。会社は、電車で二十分程度の練馬区にあったはずだ。清掃が夜間になるならそれでも構わない。多少なりとも給料はいいはずだ。
だが、奈那子にはよく言っておかないと、一晩中でも起きて待っている女だ。
「あの……わたしも働こうと思います。この先、出産費用だって掛かりますし」
「俺が何とかする」
「でも、これ以上、太一郎さんにご迷惑ばかり」
「何でも俺の言う通りにするんだろっ。言ったはずだ、一年前は俺も学生で……色々藤原の面倒があって諦めたんだって。だから……今、お前の腹にいるのは俺の子なんだよ。迷惑とか二度と言うなっ!」
「太一郎さん……ありがとうございます」
奈那子は心からの感謝を籠めて、太一郎を見つめて言う。
その言葉に胸を締め付けられる太一郎であった。




