(39)我が子
特別室から、赤ん坊の泣き声が廊下に響く。
予定日当日、万里子は超スピード安産で男の子を出産した。太一郎と奈那子がお祝いに駆けつけたのは、その翌日だった。
「本当に可愛いですね! 王子様の誕生に、卓巳さんはなんて仰いました?」
奈那子も、卓巳が女の子と信じていたのはよく知っている。まさか文句は言うまいが、がっかりしているのではないかと心配になった。
「ええ、産まれる前はね、色々言ってたけれど……今は嬉しくて仕方がないみたい。母子ともに問題ないって言われて、引き摺られるように仕事に行ったわ。とっても忙しい時期だから」
さすがの万里子も少しやつれていた。それでも待望の息子を抱き、満面の笑顔を見せる。
「万里子さんは……本当に大丈夫ですか?」
「ええ。平気よ」
「あの……痛かったですか?」
「すっごく! 呼吸法なんてどこかに飛んで行っちゃうくらい」
奈那子の隣で太一郎が「マ、マジか?」と青くなっている。
「でも……泣き声が聞こえた瞬間、世界の色が変わったわ。辛いことはたくさんあったけれど……生きていて本当に良かった。この子がわたしに、生きる意味を教えてくれたのよ」
化粧もしておらず、髪も無造作に束ねただけだが、万里子は輝いていた。
(わたしも……万里子さんのようになれるかしら?)
その日が近づくごとに、奈那子の不安はどんどん大きくなる。太一郎を愛すれば愛するほど……。幸せなら幸せなだけ、幸福に不慣れな奈那子は怖くて堪らない。それでいて、父が家を出て離婚間近だという両親や、一人暮らしの祖父のことも気に掛かるのだ。
そんな奈那子の、心細そうな微笑に気付いたのだろう。
「奈那子さんも、もうすぐよ。男の子だったら友達になれると思う。女の子だったら……この子のお嫁さん!」
万里子の楽しげな言葉に、奈那子も笑いが零れる。
一方、太一郎は「笑えねぇ。ちっとも笑えねぇ」とブツブツ呟いていた。
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そろそろ授乳の時間と言われ、太一郎は雪音に追い出された。奈那子は後学の為、その様子を見ていたいと言うので、太一郎は独りで病院内をうろつくことになる。
「〝パパ〟って柄じゃねぇよな。〝お父さん〟か。息子なら〝親父〟って言い出すかもな。でも……女の子なら〝パパ〟って呼ばれてみてぇかも……」
周囲から笑いが零れ、太一郎は我に返った。
そこはエレベーターの中である。見舞い客らしい人たちが乗り合わせていた。どうやら、太一郎は思ったことを声にしていたようだ。
その中の中年女性に「頑張ってね、新米パパさん」そう声を掛けられ……。
「はぁ……どうも」
エレベーターが開いた瞬間、階も見ずに飛び出した太一郎だった。
今日の万里子を見て、改めて女は凄いと思った。
男では陣痛の痛みに耐えられない――何かの本にそう書いてあった気がする。万里子も凄く痛かったと言いながら、次は女の子が欲しい、と笑っていた。昨日の今日だ。普通なら「痛い思いはもういい」「しばらくはごめんだ」と考えるだろう。
だが、母親にとって出産は別らしい。
(男には永遠に判りそうもねぇな)
とはいえ、さっきの万里子は、ひと月後の奈那子の姿だ。
ああやって子供を腕に抱き、母乳を飲ませ、頬擦りして喜ぶのだろう。そう言えば、風呂に入れるのは太一郎の役目だと同僚に聞いた。だが、あんな小さな物体を湯に浸けるなんて、とても出来そうにない。
(ダメだ、絶対に壊す! 不器用だし……馬鹿力だし……)
三十分程ぶらついて、特別室に戻る約束である。
最初は一階の売店に行き、コーヒーでも飲もうと思っていた。しかし、途中でエレベーターを降りてしまい……。やたらにうろついていては、不審者に間違われるかも知れない。
奈那子が出て来るまで、特別室前の廊下で待っていよう。太一郎はそう考え、最上階に戻ることにしたのだった。
そして彼は、予想外の人物と顔を合わせることになる。
何処かで見たことのある中年男がそこに居た。
最上階は特別室のみだ。案の定、警備員が飛んできて中年男を階下に追い払おうとする。
「私は桐生源次だぞ! ここに娘が入って行ったから、会いに来ただけだ!」
その言葉に太一郎も男の正体がようやく判った。奈那子の父だ。
昨年、太一郎が会ったのは私設秘書の白石だけである。桐生は卓巳とは会って話をしたはずだが、太一郎のことは相手にもしなかった。
〝娘を疵物にした血統書つきの駄犬〟――桐生が太一郎を指して言った言葉だと聞く。
太一郎は一歩踏み出し、何と声を掛けるか悩む。奈那子は両親の離婚が秒読みだと、悲しそうに言っていた。
とりあえず、
「桐生さん。あの、藤原太一郎です。どうして、あなたがここへ?」
そして、真正面から桐生代議士――いや、元代議士の顔を見て驚いたのだ。
無精ひげを伸ばしたまま、頬はこけ、目は窪んでいた。収賄罪が疑惑で済まず、桐生老のバックアップが無くなった途端、議員辞職を余儀なくされたという。
無論、泉沢のほうもズタボロで、清二は残った資産をかき集めて海外に逃げたらしい。出来れば二度と戻って来なければいい。奈那子と子供に関係のない場所で、好きにやって欲しいと思っている。
「貴様か……私の計画をボロボロにしおって! 私の完璧な人生が……貴様と馬鹿な奈那子のせいでお終いだ!」
その言葉に太一郎はカチンと来る。
娘を誑かしたと罵られるのは構わない。だが、清二のような男を婚約者に決め、奈那子にあてがったのはこの桐生である。
「言うことはそれだけか? 奈那子はもうすぐ臨月なんだぜ。いたわる言葉もないのかよ!」
「臨月? だからなんだ。お前の時のように、とっとと堕ろせば良かったものを。そうすれば、知られることはなかったんだ! それが……お前のようなクズと結婚するとは」
太一郎は、こいつは奈那子の父親なんだ、と懸命に自分を抑える。
「俺がクズなのは言われなくても判ってる。でも、奈那子はあんたの娘だろ? 孫が産まれるんだぞ。あの妖怪祖父さんでも、曾孫がどうとか言ってたぜ。それをあんたは……」
次の瞬間、桐生は頬を歪ませ太一郎を馬鹿にするように嗤ったのだ。
「あんな女、娘でも何でもない。何年経っても、奈那子の下が産まれず……。病院に行ったら、私に子供は作れないと言われたさ。あのクソ女、何年も私を騙し続けたんだ! 浮気して作った子を堂々と産みやがって……」
桐生の目に浮かぶのは憎しみだけだった。
この病院はどうも藤原家とは相性が微妙だ。太一郎は万一に備えて、桐生を特別室の方向にだけは行かせまいと警戒する。
「その文句なら、テメェの女房に言え。奈那子には関係のないことだ」
「言ってやったさ。母親が母親なら娘も娘だ。簡単に貴様のようなろくでなしに脚を開いて、すぐに孕む。泉沢の次男坊に与えてやったのは一晩だけだぞ。それを」
次の瞬間、太一郎は桐生を殴り倒していた。
理屈じゃない。腹の底から、煮えたぎるような感情が突き上げてくる。太一郎の握り締めた拳が小刻みに震えていた。
「それを奈那子に言ったら……殺してやる」
掠れた声で太一郎は言う。
しかし……桐生は口元を拭うとニヤッと笑い、一際大きな声を出した。
「他の男の子供を亭主の実子にするなんざ、中々出来ることじゃない。母親に良く似た恥知らずな女だ。恩を仇で返しやがって! 判ったか、奈那子! お前はこの私の娘なんかじゃない! どこの馬の骨か判らん男のガキなんだ!」
桐生の目は太一郎を素通りし、背後の人物を見ていた。
そこには、変わり果てた父の姿に目を潤ませ、立ち尽くす奈那子がいたのである。