(34)二人の女神
甘い香りに奈那子は包まれていた。
随分久しぶりに、広いベッドとふかふかの布団で眠った気がする。もちろん、今の生活に不満はない。人の優しさを知り、太一郎もいて心は満たされている。
だが、代議士令嬢として育った奈那子だ。気付かぬうちに生活の苦労はストレスとなり、彼女の体は疲労困憊であった。しかも、妊娠による負担も大きい。
ドクターからお腹の赤ん坊に問題はないと言われ、奈那子の緊張は一気に緩んだ。少し横になるつもりが……あまりの寝心地の良さに、グッスリと眠り込んでしまったらしい。カーテンの隙間から見える外も真っ暗であった。
奈那子は常夜灯だけの薄暗い室内を見回す。
すると、リビングのテーブル付近に動く影を見つけた。
「あの……太一郎さん?」
奈那子が声を掛けると、その人影は体を起こして振り返る。
「あ、ごめんなさい。起こしてしまって。わたしは藤原卓巳の家内で万里子と言います」
女性の声を聞いた瞬間、奈那子の胸にチクリと痛みが走った。
その名前には聞き覚えがある。悠里に言われた、『あなたって万里子様に似てるわ。だからあの男も興味が湧いたのかもね』その中に出て来た名前だ。太一郎の口から、聞いた記憶はない。だが……。
「起きていらしたらお腹が空いたんじゃないかと思って……ココアとホットケーキを焼いてきたんです。具合は如何ですか? 電気点けましょうか?」
「あ、はい。お願い致します」
奈那子がそう答えた直後、天井の灯りが数回瞬き〝万里子様〟の上に降り注いだ。
ソファの近く、電灯用のリモコンを手に立つ女性がいた。落ち着いた笑みを奈那子に向け、楚々として佇む。漆黒より茶色に近い豊かな髪は、蛍光灯の灯りで一層艶めいて見える。彼女の姿はまるで、砂漠のオアシスのようだ。そこでは誰も争わず、傷ついた体を癒してくれる。
万里子は不思議なエネルギーに満ち溢れた女性だった。
そして奈那子の視線は、万里子の大きなお腹にも注がれる。
「予定日は十月なの。今九ヶ月目で、もう大変。奈那子さんは?」
奈那子の視線に気付いたらしい。万里子はお腹を下から支える仕草をして、「ヨイショ」と付け足した。
「わたしは十一月半ばと言われています。八ヶ月です」
九ヶ月目が一番大きく見える時期だという。臨月に入ると子供の位置が下がり、頭の向きも固定される為、膨らみも下に移動する。赤ん坊にとってもお腹の中が窮屈になるのか、あまり動けなくなるらしい。
出産に関することは、最初は考えたくなかった。太一郎の子供を中絶した罪悪感から、次は産もうと心に決めたものの……子供の父親は清二である。それを考えるだけで奈那子は気が重く、逃げ出しそうになる自分を懸命に励ました。
だが今は……夢が叶って、太一郎の妻となった。
この子は太一郎の実子として生まれてくる。それを考えるだけで、奈那子の心は浮き立った。
「合崎悠里さんに会ったんですってね」
万里子の言葉に頷き、奈那子は質問で返した。
「はい。あの、こちらでメイドをされていらした方ですよね?」
「ええ。わたしが嫁ぐ前から、今年の一月までだけれど……」
奈那子は、万里子の困ったような眼差しを見つけた。彼女が言葉を濁したのは、どうやら太一郎の過去に関係することらしい。
太一郎自身が言っていた。そして悠里も口にした、太一郎の犯した罪。
「太一郎さんが合崎さんを傷つけたことは聞きました。他にも……たくさんの方を傷つけてきた、と。でも、今のあの人は違うんです! 太一郎さんは、わたしも騙したって仰いましたけど……。わたしには、騙された覚えはありません! ですから……すみません。わたしが謝ります。だから」
必死になって太一郎を庇おうとする奈那子の目に、驚く万里子の顔が映った。
奈那子は、太一郎はこの女性も傷つけたのだ、と思ったのだ。だから従兄である卓巳も、太一郎にあれほど厳しいのだろう、と。
「違うの、奈那子さん。そうじゃないのよ。太一郎さんはわたしを傷つけてはいないし、今、この邸内には太一郎さんと――そういった関係になった女性はいないから、安心してね」
万里子はベッドに腰掛け、奈那子の手を握って言った。
その言葉に奈那子はホッと息を吐く。覚悟はしていても、やはりそういった女性と顔を合わせるのは辛い。申し訳なさと同時に、愛人関係などと言われたら……奈那子の胸にも黒いものが渦巻いてくる。
「卓巳さんがきついことを言ったんでしょう? 気にしないでね。冷たいのは言葉だけだから。本当は、太一郎さんのことが心配で仕方なかったはずなの。でも、わたしも秘書の宗さんも、太一郎さんの独立心を優先して黙っていたから……」
奈那子はこの時初めて、彼女が入院していた病院で太一郎と万里子が会ったことを聞いた。太一郎が来月から勤める予定になっている千早物産が、万里子の実家であることも。
万里子はお祝いだと言って、奈那子にマタニティワンピースを持って来てくれたのだ。下着まで揃っているところを見ると、万里子の気遣いは一目瞭然である。
奈那子は恐縮して、
「すみません。何から何まで、お世話になってしまって」
「卓巳さんと太一郎さんは従兄弟同士だけれど、二人とも一人っ子でしょう? 実際には兄弟のようなものじゃないかしら。わたしも一人っ子なの。だから、妹が出来たみたいで嬉しくって!」
万里子の親しみ深い笑顔は、奈那子には馴染みのないものであった。
(合崎さんは似てるって言ったけど……この人はわたしとは全然違う)
万里子はきっと愛情豊かな家庭で育った女性だろう。国内最大と言われる藤原コンツェルンの次期総帥に見初められ、花嫁になった。
〝聖マリアのシンデレラ〟そんな文字が、昨年末の週刊誌を賑わせていたことを思い出す。
自分に自信がなく、ぎこちない笑顔しか作れず、太一郎の優しさに縋ることしか出来ない。そんな奈那子に、万里子の微笑みは眩しく……ただ、頷くだけだった。
この時の奈那子は何も知らず、そして気付けなかった。
万里子の笑顔が、たくさんの苦悩を乗り越えた証だということに。
そして太一郎にとって、奈那子の精一杯の笑顔が癒しとなり、彼が生まれ変わる為の原動力であることにも……。
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――今朝の奈那子は元気がなかった。
太一郎は奈那子のことを考え、ため息を吐いた。
邸宅に気後れしたのかと思ったが、彼女とて使用人のいるお屋敷で暮らしていた身だ。ボロアパートに比べれば、より馴染みやすいはずである。
「どうした? 今からビビってたんじゃ話にならんぞ」
リムジンの中で卓巳に話しかけられた。
今、太一郎は卓巳と一緒に藤原家のリムジンに乗っている。車が向かっているのは横浜。それも奈那子の両親が住む家ではなく、同じ山手にある奈那子の祖父の家――桐生老と呼ばれる桐生久義の屋敷であった。
古い鉄製の門を運転手が下りて行き、手で押し開ける。石畳の道を少し行くと、駐車スペースがあった。数台の、どれも運転手付きの車が停まっている。玄関前まで車で行くわけにはいかないようだ。
「ここで降りよう。竹川、駐車場に車を停めて待っていてくれ」
卓巳の指示に運転手の竹川は「承知致しました」と頷いた。
卓巳はとくに代わり映えのないスーツ姿である。
しかし太一郎は違った。彼が持っているスーツは、今年の正月に取締役会で着た一着のみだ。それを着て行こうとして卓巳に叱られたのである。
「誰に会いに行くと思ってるんだ? リクルートスーツなんぞ着込んだ小僧じゃ、門前払いを食うだけだ」
そして卓巳に連れて行かれたのが――。