(33)あいしてる
「奈那子、大丈夫か? 具合が悪いなら横になってたほうがいい」
「いえ。あまり眠ってなくて。それだけですから」
リムジンの中で、太一郎は隣に座る奈那子に話しかけた。
卓巳は宗と合流すると言って、あの場に残ったのだ。広い車内に運転手の他は二人きりである。
このメルセデスのリムジンは卓巳専用の社用車だ。卓巳はドイツ車が好きなのか、私用で乗り回しているのもBMWであった。
太一郎は十八歳で免許を取ってすぐ、ポルシェを購入した。だが、一ヶ月後には事故を起こし廃車。以来、運転はほとんどしなくなる。
だが、今年に入って名村産業で働き始め、仕事でどうしても汲み取り用の車両を運転しなければならなくなった。今ではだいぶ、運転にも慣れてきたように思う。
「ごめんな。俺、気が利かなくて」
卓巳に言われたことが気になり、太一郎は後部座席に体を小さくして座っていた。
そんな太一郎に奈那子は微笑み、
「謝らなければならないのは、わたしの方です。勝手に判断して、泉沢さんについて行ってしまって」
そして小さな声で、清二に言われた『交際中の彼女と別れてまで、君に尽くそうとしてる』という言葉を口にした。奈那子はそれが事実なら、どんなことをしても太一郎を自由にしなくては、と思ったという。
「プロポーズまでしたのに、信じてもらえなかったわけか?」
「それは……再会してから、太一郎さんは一度も仰ってくれないから」
「何を?」
「……愛してる……って」
「そっ、それは、そんなっ」
奈那子の不意打ちに、太一郎は焦った。その拍子に唾まで気管に入ってしまい、太一郎はケホケホと咳き込む。
愛してる――以前は気楽に口にしていた言葉だ。奈那子にもしょっちゅう言っていた。頼みごとがある時は、特に多用していたような気がする。だが今は、想いが深く、真剣になればなるほど、容易には口に出来ない言葉であった。
「だから、それは……だな」
「あ、ごめんなさい。いいんです。愛してるなんて、ねだって無理に言って貰う言葉じゃありませんもの。いつか……もし、いつか、太一郎さんが本当にわたしのことを想って下さる日が来たら。その時、聞かせて頂けますか?」
そう言うと、奈那子は太一郎を見上げてニコッと笑った。
小柄で細くて儚げで、なのに笑顔は向日葵のように明るく眩しい。そしていつも太一郎を見ていてくれる。奈那子の傍にいることで、太一郎は自分の中の太陽を信じられるようになった。
「あ……あぃ……あいしてる。……愛してるよ、奈那子。――棒読みになって悪ぃ。でも、素面で言うのはすっげぇ恥ずかしい」
太一郎の顔と耳は火照っていた。おそらく真っ赤になっていることだろう。〝愛している〟この言葉にこれほど強い力があると、太一郎はようやく気が付いた。
「太一郎さん、嬉しい!」
奈那子から抱きついてきたのは初めてだ。ずっと我慢させていたのだと思うと、太一郎は申し訳なさで一杯になる。女の扱いには慣れているつもりだった。少なくとも、卓巳よりはましだと内心思っていたのだ。だが、どうやら五十歩百歩らしい。
「あなたが好きです。心から、愛しています」
「お……おう」
他に気の利いた返事は出来ないのか、と自分で自分の尻を蹴りたい気分だ。
そして太一郎が視線を下ろすと、同じタイミングで奈那子が見上げていた。目の前に女性の……最愛の妻の唇があれば、やるべきことは一つだろう。
だが、二人の唇が重なる瞬間、奈那子が太一郎の腕を強く掴み、押し退ける仕草をしたのだ。それはどこか一年前の二人の関係を思わせる、微妙な行動で……。
「いや……待って」
奈那子の口元から微かに零れたその言葉は、かなり強く太一郎の欲求を擽った。髪から仄かに漂う奈那子の香りが、独りで慰めた夜を思い出す。妊婦の奈那子に無茶は言えない……言えないが、少しくらい、という思いが頭を擡げてくる。
逃げる仕草にそそられる辺りが、自分自身に不安を覚えないでもない。
だが、それ以上に……。
「奈那子、お前が欲しい」
太一郎は、自分で思うより切羽詰っているようだ。声にすると同時に奈那子の返事を待たず、その唇を捉えた。
情欲を煽るようなキスに、太一郎が理性を飛ばしかけたその時。
――コンコン、コンコン。
背後で何かが叩かれる音がして、太一郎が振り向いたそこには……。
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「呆れた奴だな。私は別に、そういった方向に気を遣ったわけじゃないぞ」
卓巳は心底呆れた口調で太一郎を叱った。だが、苦笑いを浮かべているので、本当に怒っている訳じゃなさそうだ。
あの後、宗が立川警察署まで卓巳と悠里を迎えに行ってくれた。そして悠里を自宅に送り届け、卓巳と共に大田区の藤原邸まで帰って来たのだった。
ここ数日、宗は太一郎の件で都内の警察を走り回っている。
「まあまあ、突然の入籍でしたのでどうなることかと思いましたが……。ご夫婦の仲がよろしいなら、結構なことじゃありませんか」
台詞の内容だけなら非常に真面目ぶって聞こえるが、宗も笑いを堪えるのに必死だ。
「俺だって別にそんなつもりじゃねぇよ。ただ……何となく、そういう雰囲気になって……別に」
太一郎は先刻から、懸命に言い訳をしていた。だが、元々頭も口も軽快に回る方ではない。青くなったり、赤くなったりしつつ……どう考えても、卓巳と宗に遊ばれている感のある太一郎だった。
ここは藤原本邸のリビングである。アンティークの調度品が揃えられ、部屋全体がクラシカルに纏められていた。太一郎がこの邸に住んでいた頃は、あまり用の無い部屋であった。
奈那子は太一郎の部屋に通され、専門医の診察を受ける。医者から異常なしと言われホッとしたのだろう、横になった途端、彼女は眠ってしまった。医者からは、タップリの睡眠と休養を取るように、と言われ、今はそっとしている。
キスを中断させられ、苛立ちを覚えつつ太一郎が振り返った時――。
車はすでに、藤原邸のエントランスホールに到着していた。卓巳からの連絡で、太一郎が戻ってくる、と万里子をはじめ全員が迎えに出ていたらしい。
だが、当の太一郎は、車が停まったことすら気付かず、キスを止める気配もない。仕方なく、和田雪音が後部座席の窓をノックしたのだという。
雪音は万里子付きのメイドで、宗の恋人だ。宗曰く「意地っ張りな所が堪らなく可愛らしい」というが、太一郎にはよく判らない。口調も表情もきつく、まともな笑顔も見たことがなかった。
おまけに、
「お帰りなさいませ、太一郎様。でも、続きは部屋でやってくれますか?」
赤面する万里子と違い、雪音は平然と言ってのけたのである。
「だから……いや、って言ったのに……」
腕の中の奈那子は涙ぐんでいる。
下半身に凝縮された熱が、一気に冷めて行く太一郎であった。