(32)責任の所在
「ごめんなさい。本当に……ごめんなさい。どうか、太一郎さんを許して下さい。お願いします」
黙り込む太一郎の横で、奈那子が悠里に頭を下げる。
それを見て、太一郎は胸が引き絞られる感覚を味わった。
「奈那子、お前が謝ることじゃない」
その声は上ずり、微かに震えている。だがこれ以上、奈那子に頭を下げさせる訳にはいかない。太一郎は奈那子を後ろに下がらせ、自ら悠里と向き合った。
「本当に申し訳なかった。心から反省してる。一度で足りないなら、何度でも頭を下げる。どうしても許せないなら、訴えてくれていい。俺はそれだけの罪を犯してきてるから……。その時は、奈那子には申し訳ないけど、服役する覚悟でいる。だから……」
太一郎はゆっくりと、体を二つに折るほど頭を下げ、悠里に謝罪する。それ以上のことも、それ以外のことも、今の太一郎には出来なかった。何度同じように詫びて回ればいいのか、赦される日は来るのか……それを思うと、太一郎の心は萎えそうになる。
いっそ殺してくれと言いたいが、それで太一郎が犯した罪が消えるわけではないのだ。寧ろ、罪は深くなる。
太一郎が自責の念に駆られていると、そこにタイミングよく制服警官が飛び込んできた。
だが警官が迎えに来たのは、太一郎ではなく悠里。清二は奈那子を連れ出した罪を、太一郎に怨みを持つ悠里に擦り付けたようだ。彼女からも話を聞きたいと、二人の警官は言う。
「あの……合崎さんはわたしを助けて下さいました。ですから、この方は……」
奈那子は悠里が逮捕されると思ったのか、青褪めながら説明を始める。
「藤原奈那子さんですね。あなたにも事情を伺わないといけないんですが、その」
警官は卓巳をチラチラ見ながら、言葉を濁した。ここに来るまでの経緯で、如何に卓巳が警官を嚇しつけたか判ろうものだ。
「見たら判るだろう? 医者が先だ」
わずか二言で警官を一蹴すると、卓巳は太一郎に向かって言った。
「下の車で彼女を藤原の邸まで連れて行け」
「いや、俺たちは小平の家に……」
「桐生との決着がついてないんだぞ。彼女を連れ戻され、婚姻無効の申し立てでもされてみろ。藤原邸なら警備は万全だ。それに、邸内には医者も看護師もいる。それだけじゃない……彼女を一刻も早く横にさせてやれ」
「わ、わりぃ」
卓巳に言われ、太一郎は初めて奈那子の疲れた表情に気付いたのだ。
自分の鈍さに嫌気が差しながら、太一郎は卓巳に謝った。だが「謝る相手が違う」と卓巳は小さく耳打ちし、太一郎と奈那子を残して、先に部屋を出たのである。
~*~*~*~*~
マンションのエレベーターが一階に着き、卓巳と悠里、そして二人の警官が降りた。
外はかなり大きな事になっている。それもそのはず、マンションの出入り口付近にはパトカーが四台も停まり、警官の数も二桁に届く。付近住民や通行人は、何事かと覗き込んでいた。
「合崎……太一郎を許してやれとは言わない。だが、ほどほどにしておけ」
パトカーに乗せられた悠里に、卓巳は声を掛けた。
彼女が邸に勤め始めたのは十八歳……今の佐伯茜と同じ歳の頃だ。
悠里の父親は小さな町工場を経営していた。会社が傾く前は、悠里も社長の一人娘として大切に育てられたはずである。年齢より幼い感じの、礼儀正しい少女だった。
卓巳が彼女を最初に見かけた時、太一郎が馬鹿をやるであろうと薄々察した。だが、大会社のご令嬢と問題を起こされるより、金で片が付く娘のほうがありがたい、とすら考えたのは事実だ。
当時の卓巳にとって、女性問題は地雷であった。踏み込むことはおろか、言葉にも出来ない。太一郎がどんな罪を重ねようと、卓巳は顔を背けるだけだった。
そんな自分がどれほど無様であったか、誰にも言われない分だけ卓巳自身がよく判っている。
悠里は怯えた瞳で卓巳を見上げ、口を開いた。
「私、逮捕されるの? 週刊誌には本当にことを話しただけよ! それで何で捕まらなきゃならないのよっ」
「泉沢に加担したことはどうだ? 奈那子さんを連れ出すのに、奴は太一郎の醜聞を利用した。君はその場にいて、それでも自分が正当であったと言えるか?」
「それはっ! それは……」
クッと唇を噛み締め、悠里は再び卓巳に視線をやった。今度は怒りの炎が彼女の瞳に揺らめいている。
「ハッキリ言ったらどうですか? 二度と太一郎に関わるなって。約束するなら逮捕はさせない――とか。どうせ、そのつもりなんでしょう?」
卓巳は小さく息を吐くと身を屈めて悠里に答えた。
「今回の件は立件されない。悪意のない事実誤認として、事件そのものがなくなる。だから、君が逮捕されることはない」
悠里はハッとした様子で表情を変えた。
そんな彼女に卓巳は言葉を続ける。
「太一郎を恨んでも憎んでもいい。奴のせいで人生が狂ったというなら、軌道を修正するために私も協力しよう。だが、人生を投げるような真似はしないでくれ」
「嘘よ、そんな協力なんて……。だって、永瀬さんは追い出されたって聞いたわ。あの男の更生に邪魔だから、関係のあったメイドは全部理由をつけてクビにされるって」
この悠里の言葉に、卓巳も驚いた。
御し易い太一郎を利用し、万里子を傷つけ、卓巳夫婦の仲を裂こうと企んだのがメイドの永瀬あずさである。その証拠を宗が調べ上げ、一筆書かせて追い出したのだが……。どうやら、裏で他のメイドたちを煽っていたらしい。
――万里子は卓巳だけでなく、太一郎も、もう一人の従弟・孝司のことも手玉に取っている。自分も万里子に嫌われたから追い出されたのだ。無実の罪を着せられ、退職金すら貰えなかった、と。
クビになった後、そんな連絡を悠里らに寄越したらしい。道理で、若いメイドが次々に辞めて行くはずである。
「永瀬を解雇した理由は、太一郎と和解した皐月様を彼女が恐喝したからだ。奴の過去をマスコミに売ると脅して……まさかとは思うが、君が週刊誌に持ち込んだのはあの女の提案か!?」
首を縦に振る悠里に、卓巳は開いた口が塞がらない思いだった。
おそらくあずさのことだ、仲介料の名目で金をせしめたに決まっている。引っ張り出して思い知らせてやりたいところだ。しかし宗の話では、地方で介護の職につき、金持ちの老人を誑し込むのに必死だという。わざわざ藪をつつき、毒蛇を呼び戻すような真似も愚かだ。
「とにかく、君が藤原に戻りたいなら手配しよう。だが、太一郎夫婦と顔を合わすのが嫌なら、別の仕事を紹介する。どうだ?」
「でも……両親が」
「人間という奴は楽な方に流れたくなるものだ。だが、君の両親は懸命に働くことを知っている。我が子を〝打ち出の小槌〟だと勘違いする前に、離れたほうがお互いの為だろう」
卓巳の母は、藤原から金を引き出す為だけに彼を産んだ。金にもならない愛欲の結晶は、人の姿を成す前に、闇に葬り去られたのである。卓巳がこの世に生きているのは、まさに奇跡としか言えない。
後日、悠里は卓巳の紹介により、住み込みの家政婦をすることになる。老夫婦の住まいで、彼女を傷つける人間はいないと卓巳が受け合った。
悠里は、
「太一郎のことは許せないけど、地獄に堕ちろって言ったのは取り消します。奈那子さんは悪い人じゃないし、子供に罪はないんだし……。でも、ちょっと万里子様に似てますよね?」
少しだけ吹っ切れたような笑顔を見せる。
卓巳は複雑な想いを抱きつつ……最後の部分を除き、悠里の言葉を太一郎に伝えたのだった。