(31)父親の資格
「テメェじゃねぇよ。子供の父親はこの俺だ。間違えんな」
腕にしがみ付く奈那子を背後に押しやりながら、太一郎は答えた。それは嘘偽りのない、心からの言葉だ。
だが、そんな太一郎を見て、清二は鼻で笑った。
「そんな見え透いた嘘を……。馬鹿な男だな。調べたら判ると」
「馬鹿は貴様だ」
そう言いながら玄関から入って来たのは卓巳である。
「お前は……確か、藤原の。クソッ! 誰も入れるなと言ったのに……役立たずな連中だ!」
清二は卓巳の顔に見覚えがあるらしい。太一郎だけでなく、卓巳まで通した父親の部下を口汚く罵った。
そんな清二を無視して卓巳は言葉を続けた。
「夫婦の間の子供として届け出れば、当然、奈那子さんが産む子供は太一郎の子となる」
「事実は違うんだ! 検査をすればすぐに」
「その検査を許可するのは戸籍上の両親だ。拒否すればお終いだな。百歩譲って検査を受けたとしよう。貴様と子供に親子関係が認められたとしても、それだけだ。親子関係を否認する権利は、太一郎にしかない。――クズは失せろっ!」
卓巳の恫喝に清二は震え上がった。
後ずさりしながら、それでも清二は父親の名を口にする。
「ぼ、ぼくをコケにして……。父が黙ってないからな。藤原グループなんか……」
「同じ理屈が通用するか、下で待っている警察に試してみるんだな」
その言葉に清二は慌てふためき飛び出して行った。
だが実際のところ、清二を逮捕させるのは難しいという。『有印私文書偽造』も、調べれば奈那子の直筆とすぐに判る。太一郎の件で脅してはいるが、脅迫罪が成立するかどうかは微妙なところらしい。卓巳の判断としては『不起訴』だが、奈那子の軟禁場所を調べる意味で警察を利用したのだった。
「太一郎さん……どうしてここが? それに、入籍って」
「婚姻届にちゃんとサインしてたろ? それを提出しただけだよ。卓巳がすぐにやれって。そうしたら、誰も手は出せなくなるって言うから……」
「でも、そんなことをしたら桐生の父が黙ってはいないでしょう? それに、泉沢先生も怒らせてしまって。藤原の家に、ご迷惑をお掛けすることになったら」
「いや、それは」
確かにそれは、太一郎が最も避けたかった事だ。
藤原の名前には頼らない。二度と卓巳に迷惑は掛けない。それを心に決めて、太一郎は家を出たのである。奈那子の父に知られたら、藤原家に類が及ぶことは避けられない。本当なら何とか子供が産まれるまで逃げ切って、桐生や泉沢の件が片付いてから結婚すればいいと考えていた。
だが、子供を処分させようとする桐生だけでなく、清二が子供の存在を知ったとなれば話は別だ。先に入籍という手を使われたら、それこそ太一郎の出番は永久になくなる。そう思った瞬間、太一郎の中にたとえ様のない喪失感が生まれた。
太一郎は卓巳から「すぐに決断しろ」と迫られ、入籍を決めたのである。
「奈那子さんですね。はじめまして、藤原卓巳です。太一郎がお世話になっています。どこも、具合の悪い所はありませんか?」
卓巳にしては穏やかな声と表情で、奈那子に一歩近づいた。
「はい、大丈夫です。その……この度は大変なご迷惑をお掛けすることになってしまい、本当に申し訳ございません。なんと詫びしたらいいのか……」
身の置き場がないように頭を下げる奈那子に、卓巳はあっさりと答えた。
「いや、太一郎の面倒は今に始まったことじゃありません。あなたが気にされる必要はないですよ」
「は、はあ……」
卓巳の言うことは間違ってはいない。だが、もっと言い様があるだろう、と太一郎は独りごちる。
「だが、去年までに比べれば面倒の質が違う。今のコイツなら、手を貸してやっても無駄じゃない。そうは思わないか? 合崎くん」
不意に、かつての主人に名前を呼ばれ、悠里はビクッとした。
太一郎憎しとはいえ、週刊誌に藤原家の内情を暴露したのだ。まともには顔を合わせづらいだろう。
「泉沢清二に金で雇われたのは数日前らしいな。だが、沈み掛けた船に乗るのは利口じゃない。いくら金に困ったのだとしても」
「え……なんで金に困るんだ? 合崎は両親が戻って来たからって、メイドを辞めて実家に帰ったんだろ?」
太一郎は卓巳の台詞に疑問の声を上げたのだった。
悠里が高校を出てすぐに藤原邸に勤めたのは、両親が借金をしたまま蒸発したからだ、と聞いている。無論、悠里に支払いの義務はない。だが、性質の悪い金融会社から借りていた為、一人娘である悠里の周囲にも、人相の悪い男が付き纏っていた。
そして、その借金を清算出来たのは太一郎の母・尚子から貰った慰謝料のおかげである。悠里にすれば、不本意なことだっただろう。
ともかく、それで彼女も彼女の両親にも、執拗な取立てはなくなった。今年の初め、姿を消していた両親から連絡があり、悠里は両親の家に戻ったという話だ。
だが卓巳の調査によると――。
悠里の両親は娘の身に起こったことより、彼らにとって都合の良い部分のみを受け入れた。両親の借金は悠里の知るだけではなかったのだ。更なる金額を藤原家で都合して貰う為に、彼らは娘に連絡を取ったのである。
しかし、悠里にそんなことが判るはずがない。彼女はメイドを辞めて自宅に戻るが……。
「三流紙から現金を見せられ、目が眩んだらしいな。だがもう、どこもそのネタを買うことはない。先に私のもとに来るべきだったな。少なくとも、もう少し高値はついただろう。――君まで逮捕させるつもりはない。さっさと着替えてどこにでも行け」
真っ青になる悠里を卓巳は簡単に切り捨てた。
太一郎も何度か口を開きかけ……だが、言葉で卓巳に敵うはずがないと諦める。
そんな太一郎の横から奈那子が声を上げた。
「お待ち下さいませ、藤原様。わたしは、この合崎さんに助けて頂きました。清二さんに殴られそうになった時、庇って下さったのです。ここに連れて来られた時も、とても親切にして頂きました。もし可能でしたら、彼女の生活が立ち行くようにしてあげて頂けませんか? お願い致します」
「人の心配より、自分の心配が先じゃないのか? 私の勘違いでなければ、君たちの生活も立ち行かない状態だと聞いているが」
卓巳の返事に奈那子も言葉を失う。
確かに、人の助けを借りて生活している状況だ。万里子の実家・千早社長にも借金がある。奈那子を取り戻す為に卓巳の力も借り……この先も、桐生との決着には藤原の力が必須だろう。
「卓巳の言う通りだ。でも……俺のお袋が金を払ったことで、合崎の両親が味をしめたってんなら、無関係じゃないだろ? 何とか、ならねぇか? もう一回、藤原邸で雇うとか……」
「大きなお世話よ! 私が何でお邸を辞めたか判る? 万里子様の影響で、土下座一つで皆があんたを許そうとか言い出したからよ。何が結婚よ……あんたが父親ですって? 幸せになんて出来る訳がないじゃないっ!」
太一郎の同情だけは、悠里には受け容れがたいことだったらしい。興奮を露に言い返すと、悠里は奈那子に向き直った。
「あの泉沢って男も相当のロクデナシだと思うけど、コイツだって大差ないわ! あなたには悪いけど……お幸せに、とは言えない。太一郎なんて地獄に堕ちればいい、今でもそう思ってるわ!」
悠里は奈那子を庇ってくれたという。おそらくは心優しい女性なのだろう。だが、彼女の怒りは本物だ。呪いの言葉を吐かれるほど、怨まれているのだと思うと……。
太一郎は固く目を閉じ、唇を噛み締めたのだった。