(30)入籍
大きな物音に奈那子はハッとして目を開けた。
気付かないうちにソファにもたれ掛かり、うつらうつらしていたらしい。動いた瞬間、ピンクのタオルケットが奈那子の膝までずり落ちる。悠里が掛けてくれたようだ。
太一郎を庇った奈那子の言葉に、悠里は怒ったように背中を向けた。
「綺麗事ばっかり! あなたって万里子様に似てるわ。だからあの男も興味が湧いたのかもね」
そんな台詞を奈那子にぶつけ、彼女は寝室に戻った。
だがあの後、一度は様子を見に来てくれたのだろう。悠里は傷ついているだけで、本当は優しい人なのかも知れない。奈那子はそう思うと、悠里の気遣いに感謝した。
カーテンの隙間からは、朝の光が射し込んでいる。壁に掛けてある時計を見ると、もう九時になっていた。
奈那子はゆっくりと立ち上がろうとしたが、両足が浮腫んで股関節も痛い。彼女は今、普通の体ではないのだ。座ったままの夜明かしは、奈那子にとってかなりの負担だった。
「ん、もう……朝方やっと寝たのに……誰よ」
悠里が眠そうに目を擦りながら、寝室から姿を見せた。
奈那子は慌てて、
「あの、タオルケットありがとうございます」
そのタオルケットを折り畳みながら、お礼を言う。悠里は「……別に」と答えて、そのまま玄関に向かった。
一分後、部屋に飛び込んで来たのは泉沢清二だ。眼鏡の奥の目は血走り、奈那子を睨んでいる。
「貴様……よくもこの僕を罠に嵌めてくれたなっ!?」
清二はワナワナと震える指をきつく握り締め、その赤い目は次第に吊り上がって行く。
奈那子には彼がなぜ怒っているのか判らない。言われるままにこの部屋に来て、彼との婚姻届に署名捺印した。本来なら食って掛かり、文句を言うのは奈那子の方であろう。
「父の部下がいきなり捕まった。僕が役所に行ってたら、僕も捕まるところだったんだぞ。お前のせいでっ!」
そう言うと清二は奈那子を指さした。
「どういうことですか? 役所って……婚姻届が受理されなかったんですか?」
「とぼけるなっ! お前はもう藤原太一郎と入籍してるじゃないかっ!? 偽造だか行使だか……現行犯逮捕されたんだぞっ!」
奈那子は予想外のことを言われ、声も出ないほど驚いたのである。
~*~*~*~
それは卓巳の発案だ。
卓巳は直ちに連絡し、奈那子の戸籍が移動されてないことを確認した。そして深夜にも関わらず、奈那子の本籍がある役所に飛び込み、書類を揃えて太一郎と奈那子の婚姻を正式に受理させたのだ。
二十四時間・年中無休で提出可能な婚姻届ならではの手段である。
勝利を確信して、呑気に朝を待った清二の負けとも言えよう。
同時に、太一郎は夫の権限で、妻である奈那子が連れ去られたと訴え出た。奈那子を脅して婚姻届を書かせ、提出する可能性がある、と言って警察を動かしたのだ。
泉沢事務所に所属し清二に従っている社員は、『有印私文書偽造、同行使』の容疑で現行犯逮捕されたのだった。
この連絡を受け、慌てたのが清二である。
彼はその時、卓巳が調べた通り南青山のマンションにいた。愛人を住まわせているが、物件の所有者は清二ではなく、父親である。
奈那子と結婚するとはいえ、とくに彼女に対する感情はない。妊娠中の奈那子とセックスする気にはならず……。かといって、体のラインが少年ぽく、色気のない悠里は清二の好みではなかった。彼の好みは性技に長けた年上の女性だ。太一郎とはある意味、対照的と言えよう。
だが、政界で生き残る為なら好み云々は関係ない。
清二は奈那子の祖父、桐生老の庇護をなんとしても必要としていた。それさえ受けられれば、父のほとぼりが冷めた頃に、清二は泉沢の地盤で出馬可能となる。
奈那子のお腹に清二の子供がいるなら、まず百パーセント反対はされまい。彼は愚かにも、それだけで安心していたのだった。
~*~*~*~
「と、とにかく。桐生先生のお宅に伺うぞ! そいつは僕の子なんだ。僕と結婚できるようにして貰う。先生なら出来るはずだ。お前もそう言うんだ。僕と結婚したいって……でなきゃ、そのガキだけ取り上げるぞ!」
清二は苛立った様子で奈那子の手首を掴んだ。
その乱暴さが怖くなり、奈那子は清二の手を振り解く。
「離して下さい! お祖父様の所には参ります。でも、乱暴な真似はなさらないで下さい」
「なんだとぉ……貴様、誰に向かって言ってるんだ? お前は僕の妻になるんだ! 逆らうならただじゃ済まないぞっ!」
清二は手を振り上げた。
身を縮め、奈那子は必死でお腹を庇う。その前に飛び出したのが悠里だった。彼女は小柄な奈那子と違い、振り下ろされた清二の手を思い切り払い落とした。
「妊婦に……しかも、自分の子供を妊娠してる女性になんてことするのっ!? それじゃ、あの太一郎と変わらないじゃない!」
「う、うるさい! 逆らうならお前にも金を払わないぞ」
「いいわよ! だったら週刊誌に持ち込んでやる! 奈那子さんを脅して連れ去って、暴力を振るったって――泉沢大臣の名前を出したら、どこも喜んで買ってくれるわ」
権力を笠に着ているだけで、本質的には口喧嘩すら出来ない男だ。強気の悠里に押され気味である。
しかし、
「そ、そ、そんなことしてみろ。父に言って……お前なんかどうとでも出来るんだぞ」
「何? それって脅迫? だったら警察に行ってやる! 文書偽造とか……目の前で見てたって、脅して書かせたって証言してやる!」
その言葉を聞いた瞬間、清二の中で何かが切れたようだった。
清二は悠里に飛び掛り、なんと首を絞めたのだ。
「止めて下さいっ! お願い、清二さん、やめて」
奈那子は清二の腕を掴み、悠里から引き離そうとした。
「うるさいっ! 次はお前だ。逆らうなら殺してやる!」
「きゃっ」
正気を失った清二は、縋りつく奈那子を思い切り振り払った。
今の奈那子は体のバランスを上手く取ることが出来ない。彼女がソファにお腹から激突しそうになった瞬間――力強い男の腕が、彼女を抱きとめたのだった。
「奈那子っ! 大丈夫か? 怪我は無いか?」
「……太一郎さん……どうして、ここが」
「それは卓巳が……てめぇ、よくも!」
太一郎の後半部分の台詞は清二に向けられたものだ。
清二は太一郎の存在に全く気付いていないらしい。悠里の首を掴んだまま、馬乗りになろうとする。直後、太一郎に首根っこを掴まれ、清二は背後に放り投げられた。二人の体格差は歴然だ。清二は床の上をゴロンゴロンと転がり、キッチンとの境でようやく止まったのだった。
「おい! 合崎、合崎、大丈夫か?」
「合崎さん、しっかりして下さい。すぐに救急車を……」
「だ、いじょうぶ。バカじゃない、の……あの、男。でも、あんたみたいな男に、助けられるなんて」
悠里の険を含んだ視線に、彼女を助け起こしていた太一郎はすぐに手を離した。彼女の首周りは薄っすらと赤くなっている。だが、酷いことにはならずに済み、奈那子は胸を撫で下ろした。
だが、ホッとしたのも束の間、奈那子らの背後で清二が喚き始めたのだ。彼は腕や足を擦りつつ、キッチンカウンターの椅子に手を置き、立ち上がっている。
「僕を出し抜いたつもりだろうが……ガキの父親は、この僕だ! 嘘を吐いても無駄だぞ。調べたらすぐに判るんだ。お前らの結婚なんて無効だ。桐生先生が上手くやってくれるさ」
奈那子は太一郎の腕をギュッと掴んだ。それは嵐に巻き込まれ、子供だけでも守ろうと、懸命に一枚の板に抱きつく母親の姿だった。