(3)偽りのヒーロー
「……部屋を訪ねたのか?」
「あたしが社長の家内だって言ったら家に上げてくれたわ。夜中に家を出たまま丸一日帰って来ない。事故に遭ったんじゃないかって。――ダメじゃない、身重の奥さんに心配掛けちゃ」
クスクス笑う郁美を、太一郎は苦々しい思いで見ていた。
一体、何を何処まで話したのか……問い詰めたいが、夜中に声を荒げて、それこそ警察でも呼ばれたら堪らない。だが、一言も言い返さない太一郎を見て、御し易い相手と踏んだようだ。郁美はキッと目を細めると、頭ごなしに命令し始めた。
「亭主が煩いから会社は辞めてもいいわ。その代わり、等さんの会社で働いてもらいますから。ああ、彼や他の社員はあなたが藤原の人間だって知らないのよ。そのつもりでね」
「等……さんがそんなことを引き受けるとは思えない。俺なんか放り出せって言うに決まってる」
「密告られない為にも見張って置かないと――そう言ったら息子は私の言いなりよ。浮気がバレさえしなきゃ、父親のほうもね。今は……あなたにレイプされたって信じてるから、とっても優しいし」
思わせぶりに言いながら、郁美は背を向ける。
彼女の後姿を、刺すような視線で見送る太一郎だった。
六畳の和室と三畳のキッチン、風呂・トイレ付きで家賃三万五千円。それが、今の太一郎に出来る精一杯であった。大家が高齢のため、いつ代替りして取り壊されるか判らない。だがそのおかげで、敷金礼金なしで借りられたのだから文句は言えない。
錆びた鉄製の階段を太一郎は重い足取りで上がる。二階の廊下は電球が切れており、薄い月明かりでどうにか足下が見える程度だ。そこをゆっくり歩きながら、太一郎は考えていた。
郁美と等の件は、宗にも話してはいない。
今回の冤罪事件を宗はどう思っただろうか? 卓巳が太一郎の立場なら、振られた女の腹いせとも考えられる。だが、無愛想で威圧感のある太一郎だ。藤原の名前と金がなければ、およそ女にもてる男ではない。彼の言葉遣いや態度が悪くて社長夫人を怒らせた――くらいに思ってくれることを願っていた。
四つ目の扉の前で彼は立ち止まる。
ドアには掠れた文字で『二〇五』と書かれたプレートが下がっていた。大家の方針か、このアパートには四号室がない。そしてナンバープレートの上に『伊勢崎』の名前が――。白い紙にサインペンで書かれ、無造作に貼ってあった。
(次の仕事……か)
理由はどうあれ、次の仕事があるのはありがたい。これ以上、宗の世話にならずに済む。
太一郎はポケットから取り出した鍵でドアを開ける。
時刻は〇時近く、携帯は警察に取り上げられていた間に充電が切れていた。確認は出来ないが、おそらく何度も電話したであろう。眠っているかも知れない、と太一郎はなるべく静かに玄関に入り、ドアを閉めた。
「お帰りなさいませ、太一郎さん」
小柄な女性が両手を胸の辺りで組み、大きめの瞳を潤ませて太一郎を見上げていた。一八〇を超える太一郎とは、三十センチ近く差があるだろう。髪はようやく出逢った頃の長さ……背中の真ん中辺りまで伸びている。だが、昔に比べると艶がなく、生活の苦しさを思わせた。
そんな彼女の身体で一番変わった部分は……やはり、丸みを帯びた腹部であろう。
「起きてたのか? 悪かったな、連絡出来なくて……人に頼むわけにもいかなかったから」
「いいえ。さっき、社長の奥様と仰る方がいらして……太一郎さんが誤解で警察に連れて行かれた、と。でも、すぐに戻って来るから、と教えて下さいました。太一郎さんにお怪我がなくて本当に良かった。社長の奥様も、親切な方ですね」
遠慮がちに彼女は微笑んだ。
郁美に対する評価は、太一郎としては言及を避けたい。
「そうか……他には? 何も言わなかったか……奈那子」
チェーンを掛け、スニーカーを脱ぎながら、太一郎は笑顔らしきものを作った。
~*~*~*~*~
桐生奈那子――彼女は太一郎と出逢ったことで、最も人生を狂わされた女性かも知れない。
奈那子の父親・桐生源次は代議士だ。彼は一人娘の奈那子を真綿に包み、ガラスケースに入れるほど大切に育てた。奈那子の祖父は大臣を務めたこともあり、引退後も政界の重鎮と呼ばれる存在だった。その地盤を受け継ぐためにも、桐生は何としても後継者を得る必要があったのである。
奈那子は高校生の時に有力代議士の次男坊と婚約。大学卒業後はすぐに結婚する予定となっていた。
二人が出逢ったのは去年の二月、太一郎がW大で二度目の留年が決まった頃である。彼女はF女学院大学音楽学部の二回生であった。
太一郎はいつもの合コンに顔を出し、初参加の奈那子をお持ち帰りの目標に定める。
方法は簡単だ。友人に金を掴ませ、ターゲットをトイレにでも連れ込み襲わせる。そこを助けに入り、店から連れ出すのだ。服を引き裂かれ、ショックを受けている女性は「休んで行こう」という英雄の言葉に素直に頷く。しかも、それが場末のラブホテルではなく、一流ホテルのスイートであるなら尚のことだろう。
太一郎はその手で奈那子をホテルに連れ込み、ほんの一口二口シャンパンを飲ませ……。翌朝、彼女が目を覚ました時には、太一郎は望みのモノを手に入れ、欲望を満たした後であった。
普段ならそこでお終いである。
中には、太一郎を訴えると騒ぐ女もいるが……。自らの意思でホテルまで付いて来て、服を脱ぎ、シャワーを浴びた、と言われたら反論出来ない。そのことを太一郎に恫喝され、泣く泣く諦める女性がほとんどであった。
だが、奈那子は違った。
彼女は、「本来は自分が藤原の後継者であったのに、祖父が亡くなったばかりに、従兄に乗っ取られたんだ」そんな太一郎の言葉を信じたのだ。
彼女は罠に嵌められたことも知らず、自分の危機を救ってくれた太一郎を運命の人だと言う。更には、身体の関係が出来たことで“相思相愛”だと思い込んだ。
そして、太一郎は彼女の誤解を利用し、その身体を弄び続けたのだった。
その関係に終止符が打たれたのは半年後のこと。奈那子が妊娠し、それが親にばれたのだ。
桐生にすれば、たった一人の後継者である。疵物にされて、黙っているわけにはいかない。当然、桐生の交渉相手は太一郎ではなく、藤原卓巳であった。
そんな中、奈那子は親元を抜け出し、太一郎に逢いに来る。「愛している。結婚したい。子供を産みたい」と言って聞かない。だが、卓巳にこっ酷く叱られた太一郎は、耳触りの良い台詞で奈那子を追い払ったのだ。
「俺のために、今回は諦めてくれ。君が大学を卒業する前に、必ず迎えに行くから」
奈那子に再会したのは四月末――ちょうど藤原本社が宗の事件で揺れていた頃のこと。
夜の繁華街で男に手を掴まれ、ラブホテルに引き摺り込まれそうな女性を太一郎は助けた。その、小柄でやせ細った女性は太一郎を見るなり、泣きそうな声を上げたのだ。
「……太一郎さま……」
偽りの将来を約束し、子供まで堕ろさせながら……。
目の前にいる女性の名前を、すぐには思い出せない太一郎だった。