(29)運命の行方
真っ赤なロードスターはフル・オープンの状態だった。郁美は車に乗り、エンジンを掛けるなりルーフのスイッチを押そうとする。しかし、その手を卓巳が掴んだ。
卓巳は身を乗り出し、もう片方の手でエンジンを切る。
「調べはついてる。随分、太一郎が世話になったらしいな」
「そ、そ、そうよ。あたしが……あたしが仕事だって……世話してやって。なのに、メスブタなんて言って……そうよ! あなたの従弟はあたしをこの車で襲ったのよっ!」
「テメェ、その前に自分が何をしたか……」
怒鳴り返そうとした太一郎を、卓巳は目で制した。
それを見て、太一郎は横を向き黙り込む。卓巳に考えがあることは明らかだった。
「それは済まなかったな。では、その仕返しに、先ほどの少年たちを雇い、太一郎を襲わせたわけか?」
「そ、それは……さあ、知らないわ。あたしじゃないもの。たまたま見掛けて……仕返しになるかもって思っただけよ」
郁美は視線を彷徨わせながら、そんな見え透いた言い訳を重ねる。
「君も先ほどの話を聞いていたと思うが、桐生代議士や泉沢大臣も絡んだ問題だ。それに、路地裏での一件が表沙汰になるのは、私にとっても非常に不味い……」
太一郎には卓巳のやろうとすることが判らない。
相手は郁美である。彼女に桐生や泉沢の名前を聞いただけで、すぐに政治家を思い浮かべる教養があるとは思えない。それをわざわざ知らせてやるなど……。
混乱する太一郎の前で、卓巳は小切手帳を取り出し、さらさらと金額を書いた。直筆だと判るサインをし、一枚破って郁美に渡す。
「換金は三ヶ月後だ。それ以前に、銀行には持ち込まないように。君の誠意を信じて日付は入れないでおこう。そして、マスコミに持ち込むこともなし、だ。たった三ヶ月――それで、君は生涯遊んで暮らせる金が手に入る」
そんな言葉と共に、卓巳はアルカイックスマイルを浮かべた。
そのわずか数分後、喜び勇んで走り去るロードスターを見送りつつ……太一郎は忌々しそうな声を上げた。
「なあ卓巳……お前って、あの手の女が大っ嫌いじゃなかったか?」
「ああ、反吐が出る」
「じゃあなんであんな金をやるんだ? しかも桐生や泉沢の正体まで教えて……」
そこまで言った時、太一郎の表情が変わった。
「お前……名村郁美を罠に嵌めたのか?」
「人聞きの悪いことを言うな。善良で勤勉な老人を、魔女の手から救うだけだ。それも、あの女が悔い改めるチャンスは残してある。後は宗がやるだろう」
――悔い改めるとは微塵も思っていないくせに。
そんな言葉を太一郎は飲み込んだ。
卓巳は、「通りに車を待たせてある。お前も来い」そう言ってさっさと歩き始める。だが、不意に立ち止まり白い紙切れを拾い上げた。
太一郎はハッとしてポケットを探るが、ときから手渡された婚姻届がどこにもない。
「太一郎、これは桐生奈那子のサインか?」
「え? ああ……言ったろう。奈那子は俺と結婚するつもりだったって」
「そうか――。一つ確認しておく。お前も本気なんだな? 過去の贖罪や子供のための結婚ではなく、真剣に、桐生奈那子を生涯の伴侶としたいんだな?」
卓巳の声は厳しく、重々しい。
一瞬、ほんの一瞬だが、太一郎の胸に茜の姿が浮かんだ。違う生き方をして、違う出逢いであったなら……始まったかも知れない〝恋〟だった。
「沈黙が答えか? 太一郎、迷ってるなら止めろ。後で過ちと気付いたら、周囲を不幸にする。立ち止まるのも勇気だ」
「そうじゃ……ねぇよ」
奈那子は「一生信じる」と言ってくれた。
それに応えたいと思う気持ちも真実なのだ。
「俺は、奈那子と結婚したい」
「佐伯茜はいいのか?」
卓巳の口から茜の名が零れたのは不意打ちだった。だが、この期に及んで驚くことは何もない。寧ろ、目白署の一件を知っているなら、卓巳が宗から茜とのことを聞いていて当然だろう。
「茜とは偶然出会って、俺と関わったから妙なことに巻き込んじまって……」
言い訳を始めた太一郎の耳に、卓巳の溜息が聞こえてくる。
太一郎はそれを振り払うように、声を荒げた。
「とにかく! 俺は奈那子と結婚する。たとえ認めて貰えなくても俺は」
「認めないとは言ってない。――いいだろう。お前に勝たせてやる」
卓巳は不敵な笑みを浮かべ、太一郎を見たのだった。
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間もなく、朝が来る。
奈那子は一睡もせず、ソファに座ったまま夜を明かした。てっきり、五反田の泉沢邸の向かうのだと思ったが……。奈那子が連れて来られたのは小平市よりさらに西、立川市内のマンションだった。
一LDKでそれほど広い部屋ではない。事務机が一つに合皮製の黒いソファ、その横にガラステーブルが置かれ、上にホカホカ弁当と書かれた袋が置いてあった。奈那子に夕食として出されたものだが、とても食べる気にはならない。
おそらく、泉沢家で事務所代わりに使っているマンションの一つだろう。
清二はこの部屋に奈那子を連れて来るなり、婚姻届に署名捺印させたのである。
「朝一番に提出してから、桐生先生にご挨拶だな。おい、奈那子、男の子を産んでくれよ。そうしたら、僕が桐生の後継者だ」
そんな風に笑いながら、清二は出て行った。
「いい加減諦めて寝てくれません? あなたが起きてると、私も眠れないんですけど……」
「あ、ごめんなさい」
見張りとして清二が残して行ったのは、ベンツに同乗していた女性だ。
週刊誌ではAさんと書かれてあったが、奈那子には合崎悠里と名乗った。今年の一月まで藤原邸でメイドをしていた女性である。
彼女は約二年間、太一郎と愛人関係にあった。それも、太一郎にセックスを強要され……親の借金があった彼女は、泣く泣く受け入れたという。
悠里は藤原邸を辞職した直後、その一部始終を三流週刊誌に告白した。それにより、太一郎は卓巳に当主の座を奪われた『悲劇の貴公子』ではなく、藤原を潰しかねない『放蕩息子』であったと世間に知らしめたのである。
奈那子ははじめ、悠里と清二は特別な関係にあるのだと考えた。だが、二人の様子を見る限り、悠里は清二に金で雇われただけのようだ。
「あの……私は何処にも行きませんから。どうぞ、遠慮なくお休みになって下さい」
「そうはいかないでしょ。ねえ、何が不満なんですか? あの泉沢だっていずれ議員になるんだし。第一、子供の父親で、婚約もしてたって。それが、なんでよりにもよってあんな男の許に行こうとするの? だって、藤原太一郎なんてただの狂犬ですよ」
悠里は腹立たしげに言う。
今の太一郎は違うのだ、と。そのことを告げても、彼女は信じてはくれないだろう。奈那子はそう思うと少し切なかった。
だが、奈那子は太一郎に言ったのだ。自分も一緒に償う、と。太一郎の妻にはなれなかったが、せめて、その誓いだけは最後まで守りたい。
「太一郎さんがあなたを傷つけたのなら、本当に申し訳ありませんでした。あなたが幸せになれるよう、わたしに出来る精一杯の償いを致します。ですからどうか……太一郎さんを赦してあげて下さい。お願いします」
奈那子は自分の窮地も忘れ、太一郎が新しい人生を歩めるように……それだけを祈っていた。