(28)従兄弟
「宗は何処に行ったんだ!?」
今日の正午近く、藤原グループ本社ビル社長室内での会話である。卓巳は、配属されたばかりの新人秘書に宗の所在を尋ねた。
「はっ、はい! 急用で出社が遅れると、連絡があったみたいです」
「急用とはどんな用だ? いつ連絡があった? なぜ携帯にも出ないんだ?」
「……それは……私には」
新人とはいえ卓巳とそう歳は変わらない。これまで地方支社で重役秘書を務めて来た男だ。本社に呼ばれた以上、使えない人間であるはずがなかった。
しかし、ほとんどの人間が卓巳の前に立つなり、身を竦め口が回らなくなる。その態度が余計に社長を苛立たせ、冷たい視線を浴びる羽目になるのだが……。
無論、卓巳に悪意はない。ただ無意識のうちに、辛辣な口調と厳しい視線を向けてしまうようだ。
(そのために宗が必要で、奴の引継ぎが重要なんじゃないか!)
「もういい。仕事に戻れ。ああ、宗から連絡があったら私に回せ」
「はいっ!」
新人秘書は最敬礼して部屋を出て行った。
宗の秘密主義はいつものことだ。以前はそのほとんどが女絡みだったが、今回は違うらしい。
加えて、万里子の様子もおかしかった。昨日もベビー服やおもちゃ・マタニティ服を買い込んで来て、卓巳を驚かせたくらいだ。可愛いものが目に付けばすぐに買って来る卓巳のせいで、増え過ぎて困ると怒られたのは今月のはじめだった。それもピンクが中心だったので、万里子から「せめて白にして」と言われて今は気をつけている。
無論、万里子の趣味もあるだろう。だが、子供のおもちゃ箱になりそうなプラスティックケースに入れ、卓巳の目からサッと隠そうとする仕草がどうも気になる。
――万里子は男の子用を購入しているのだろうか?
仮にそうであっても、一人くらいは男の子も欲しいので将来役に立つではないか。たとえ、今回は無駄になったとしても……。
卓巳が意識を万里子から仕事に戻し、書類に目を落とした瞬間だった。ドアがノックされ、先ほどの新人秘書が血相を変えて飛び込んで来る。
「あ、あの……社長……一階の受付に、随分慌てた様子だと」
「熊谷、慌てているのは君だ。来客か? そうでないなら警備員に対処させろ。危険人物なら警察に通報するんだ」
「あの、奥様が……社長の奥様が受付に。真っ青になっておられて……」
その言葉を聞いた瞬間、社長室に突風が起こった。一瞬で、卓巳は部屋を飛び出したのである。
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「万里子から聞いた。お前に身重の女がいて、随分厳しい暮らしをしているようだ、とな」
万里子が購入していたベビー用品は、太一郎と奈那子に渡す為のものだった。
藤原邸には贈り物を合わせて、ベビーショップが出来そうなほど揃っている。だが、お腹の子供の為に頂いた品物を、そのまま人に上げてしまうのは失礼だから、という万里子の気遣いだ。
この日、万里子はそれを持って、太一郎から聞いた住所を探した。ようやくアパートを見つけて訪ねるが、当然のようにそこには誰も居なかったのである。
万里子は同じアパートの住人から、奈那子が連れて行かれそうになったことや、太一郎が殴られたことを聞き……。二人の周囲でとんでもないことが起こっていることを察し、後悔したのだ。
「ごめんなさい。太一郎さんが頑張っているから、わたしも応援しようと思ったんです。でも、こんなことになるなら、最初に卓巳さんに相談していたら良かった。太一郎さんや奈那子さんにもしものことがあったら……」
万里子はすぐに卓巳に助けを求めた。
太一郎の行方を捜し、二人を助けて欲しい、と。本社ビルを訪れたのだった。
「そ、それで……何で俺がここにいるって判ったんだ?」
「宗の居所を調べたら目白署に行き着いた。お前も一緒だと踏んだんだが、すれ違いだったな。警察に残した現住所も万里子に伝えたアパートだったろう? 仕方なく、携帯のGPS機能を使わせてもらった」
太一郎は卓巳の説明を聞き唖然とする。だが、驚いたのはこれだけではなかった。
「悪い……どうしても行かなきゃならない所があるんだ。話はその後で」
「何処に行けばいいのか。お前は判ってるのか?」
「それは……」
「山手の桐生家にも、桐生老の家にも彼女はいないぞ」
「!」
「それから、五反田の泉沢家に戻った形跡もない。おそらくは、清二が女を囲ってるマンションの一つだろう。港区内との情報は得ている」
万里子に奈那子の姓が桐生だとは言わなかった。だが卓巳は、泉沢清二のことまで知っているのだ。太一郎には何を質問したらいいのかも判らず、呆然と立ち尽くす。
「太一郎、私を誰だと思っている? この程度の情報なら、半日あれば造作ない」
卓巳は上着を叩きつつ、事も無げに答えた。
「怒ってないのか?」
「怒ってないように見えるか?」
「……いや」
少年たちに蹴られた傷より、卓巳に殴られた頬が痛い。卓巳の怒りを察するに、このまま見過ごしては貰えないだろう。
太一郎は思い切ってそのまま座り込み、頭を下げた。ここ数ヶ月の土下座三昧を考えると……今さら頭の一つや二つ、地面に擦り付けることくらい訳無いことだ。
「頼む! 俺は何としても奈那子に子供を産ませてやりたいんだ。奈那子を守りたい。いや、守らなきゃならないんだよ。藤原には金輪際迷惑は掛けません。だから……頼みます。奈那子を取り戻す、力を貸して下さい」
「彼女が、お前より泉沢の次男を選んだ可能性はないのか? この分なら、子供の父親は奴だろう?」
「それは絶対にない! 岩井のばあちゃんが聞いてたんだ。俺の……週刊誌の記事を持ち出して、訴える女がいると言って奈那子を連れて行った。プロポーズしたら、あいつは……俺と結婚するって答えたんだ。嬉しそうにしてた、それなのに……」
喉の奥が詰まるような感覚に、太一郎は唇を噛んだ。地面に正座し、膝の上で拳を握り締める。自分の不甲斐なさに、涙がこぼれそうだ。
そんな太一郎の横に卓巳はしゃがみ込んだ。そして、太一郎の頭をポンポンと叩き、
「――坊主頭が随分伸びたな。なあ、太一郎……一年前まで私たちは、川を挟んで向こう岸に居た。だが、万里子が橋を掛けてくれたんだ。いい加減、様子見は止めよう。少しは従兄を信用しろ」
この時、太一郎はようやく知った。
卓巳の中で太一郎は、卓巳自身と同じ岸に立つ人間なったのだ、と。
卓巳が差し出した手を、太一郎は素直に握る。それは、ぎこちなく車の窓越しに交わした握手とは違った。その力強さと安心感に、太一郎は子供のように甘えたくなる。
だが、弱気になる従弟の気配を察したのか、卓巳の言葉は厳しくなった。
「バックアップはしてやる。だが、戦うのはお前だ。惚れた女を守るのに、選手交代じゃ洒落にならん」
「わ、わかってるさ。代わってくれなんて言ってねぇだろ」
「だったらいい。だが……あの女はどうにかしてやろう」
そう言って卓巳が指し示したのは郁美であった。
様子を窺うようにこちらを見つめていた彼女だが、卓巳の視線を受け、慌てて車に乗ろうとする。
一方太一郎は、郁美の存在をすっかり忘れていた。だが、今の話を全て聞かれたとしたら……この女のことだ。きっとまた、ろくでもないことを思いつくに決まっている。
とはいえ、太一郎には具体的な対抗手段が思いつかない。今回の件もそうだ。警察に訴えたくても証拠がない。逆に、ロードスターの中で太一郎に襲われたと言われたら面倒なことになる。
逃げようとする郁美に、臍を噛む思いの太一郎であったが……。
その時、卓巳が動いた。