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(26)彼女の選択


 時間は少し遡る。

 太一郎は始発で戻ると言い、出て行ってから半日。奈那子は太一郎の身を案じ続けていた。

 彼女は何度も、太一郎から渡された婚姻届を見つめ、嬉しさを噛み締める。その反面、ひょっとしたら茜という女性に会って気が変わったのかも知れない、と思い……。はたまた、奈那子の父・桐生に見つかり、先日のような酷い目に遭わされているのでは、と不安を覚えていた。


「ねえナナちゃん。じっと待ってないで、買い物にでも行こうか? 太一ちゃんが帰るまでに、美味しいもんを拵えといてやろう」

「――はい」

 ときに促され、奈那子は気持ちを切り替えてにっこりと頷いた。


 

 一度太一郎と離れた時、奈那子は二度と逢えないことを覚悟した。

 迎えに行く、という約束が果たされる日はないのだと、彼女にも判っていたのだ。それでも、信じたかった。夢を見続けたかった。最初に太一郎に感じた想いを捨て去るほうが、奈那子には苦痛だったのである。

 しかし、再会した太一郎は、悪い魔女の魔法が解けたかのようで……。


 着ているものが、ボロボロのジーンズとTシャツだったとしても。見た目と人格が比例しないことは、奈那子自身の経験でよく知っている。高価な衣装を身に纏い、高い教養を身に付け――その心の内で考えることは、如何に人を陥れて自分が得をするか、それだけだ。

 奈那子とて、それが楽な生き方だと信じていた時もあった。親に逆らう力は自分にはないのだ、と。

 だが、今は違う。笑い方すら忘れた生き方が、本当に楽な筈がない。楽しく生きるのは決して簡単ではないけれど……太一郎と一緒なら心から笑えるのだ。

 そして今の太一郎は、一年前の彼より百万倍素敵であった。



「ねえ、おばあちゃん。今日は魚にしましょうか? サバのみそ煮が太一郎さん大好きだし……」

「じゃあ、生サバを一匹買って帰ろうかね。ナナちゃん、目玉が怖いって泣くんじゃないよ」

「いやだ、もう、おばあちゃんたら……太一郎さんには内緒ですよ」


 二人が笑ったその時、一台の車が奈那子の横に停まった。白石が乗って来たのと同じタイプのベンツで、奈那子は一瞬ドキッとする。だが、後部座席が開き、出て来た男は白石ではなかった。

 その男は奈那子の前に立つと、眼鏡を押し上げながら言ったのだ。

「やあ、奈那子さん。僕の子供も随分大きくなったようだ。こんなになるまで言わないなんて、君も君のお父さんもひどいなぁ。さあ、君の祖父上、桐生先生に結婚のお許しを貰いに行こうじゃないか」 


 奈那子は、幸福な時間に幕が下りるのを感じていた。



~*~*~*~*~



「じゃあ……奈那子はソイツに付いて行ったのか?」


 太一郎は家に戻るなり、待ち構えていたときからその話を聞いて拳を握り締めた。


「あたしにゃよく判らなかったんだけど……」

 そう前置きして、ときは話し始める。


 奈那子はその男を『清二さん』と呼んだという。

 最初、奈那子は同行を断わり、通り過ぎようとしたのだ。だが、清二が降りたのとは反対側のドアが開き、一人の女性が降り立った。


「まさか、三十くらいに見える、きつい化粧の女か?」

 太一郎の脳裏に過ったのは郁美だ。

 しかし、「いやぁ、もっと若く見えたよ。ナナちゃんと同じくらいじゃないかね?」と、ときは答えた。更に、その女と奈那子は面識がなさそうだった、という。



 清二は車から一冊の雑誌を取り出し、奈那子に見せた。すると、見る見るうちに奈那子の表情が変わったのである。

「伊勢崎太一郎くんの正体はこの男だろう? 〝贖罪の日々〟と題して、特集を組んでくれるそうだよ。探せば、彼を法的に訴えたいという女性も出てくるだろうね。彼女は協力してくれるそうだ」

 清二はそう言うと、車の向こう側に立つ女性を指差した。そして、奈那子に言ったのだ。

「君の我侭で、彼の人生を縛るのはどうかな? 彼は人生をやり直そうとしてるんだろう? 交際中の彼女と別れてまで、君に尽くそうとしてるそうじゃないか? それに……子供は実の父親の許で育つほうが幸せだ」



「そう言われたらナナちゃん黙り込んじまって……」


 奈那子はポケットから折り畳んだ紙を取り出し、ときに渡したという。

 ときの手をしっかり握り、「短い間でしたがお世話になりました。太一郎さんにこれを渡して、一生に一度の夢をありがとうございました、とお伝えください」

 ――奈那子はそう言い残し、清二の車に乗り込んだ。

  

 それは、太一郎が渡した婚姻届だ。ちゃんと奈那子の名前も書いてあり、捺印もしてあった。

 奈那子は、太一郎と結婚するつもりだったのだ。清二さえ現れなければ……。


 太一郎のことを書かれた雑誌といえば見当はつく。今年の一月に発売された、低俗な写真週刊誌だ。三流誌の為、藤原のチェックから漏れ、市場に出回ったのである。しかも間の悪いことに、藤原の会長である皐月が倒れた時期とも重なった。

 あの情報を提供したのは、ちょうどその直前に辞めたというメイドの……。



「悪いな、ばあちゃん。俺、奈那子を迎えに行って来るよ」

「場所は判るのかい? 金持ちそうな男だったよ」

「ああ、判る。それと……」

 ときは清二の言葉で、奈那子の子供の父親が太一郎でないことを知ったはずだ。きっと訝しんでいると思い、何か言い訳をしようとした。

 だが、

「人間の子は、馬や牛の種付けとは違うんだ。あんたは立派に父親になる資格がある! がんばれ、太一郎!」

 ときはそう言うと太一郎の背中をバンと叩いた。

 太一郎は思い切り頭を下げ、ときの家を飛び出したのだった。



~*~*~*~*~



 奈那子の実家は横浜だ。

 一方、泉沢大臣の家は五反田方面と聞いた記憶があるが……うろ覚えだ。

 とりあえず、都心に向かって戻りながら、再び宗に連絡を取ろう。場合によっては卓巳の手も借りるしかない。



「なあ、伊勢崎太一郎ってお前?」


 駅に着く直前、乱暴な口調で後ろから声を掛けられた。

 太一郎が足を止めると、四人の男が周囲を取り囲む。一瞬、清二が手を回したのか? と思い、太一郎に緊張が走った。だが、それにしては白石が連れていたボディガードとは違い、単なるチンピラの態だ。

 どう見ても二十歳前、下手すれば十五~六かも知れない。色んな意味で怖いものを知らない、一番傍迷惑な年頃だろう。


「かつあげなら相手を選べよ。俺は金は持ってねぇし、悪いが先を急ぐんだ」


 そう言って軽くすり抜けようとした時、一人の少年が太一郎の足を引っ掛けた。

 太一郎は前のめりになり、危うく倒れそうになる。


「おい、いい加減にしねぇか! このクソガキ!」

「聞いてんだよ。お前が伊勢崎太一郎なんだよなっ!」

「だったら何だよ。俺はお前らなんかに用はねぇんだよ」

 

 太一郎が答えた瞬間、先ほど足を掛けた少年がいきなり右足で蹴りを入れてきたのだ。咄嗟に避けたが、スニーカーの先が太一郎の腕を掠めた。


「お前をぶちのめして、骨の二~三本折ってやれってさ。俺らもバイトだからさ。勘弁してくれよな、おにーさん」


 白石か、それともやはり清二が……考えをめぐらせた瞬間、少年らの背後に女の足が見えた。

 太一郎は唇を噛み締め、唸るように呟く。


「やっぱりお前か……」


 そこに立っていたのは郁美であった。


 

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