(25)別れ道
「藤原太一郎さん。ご苦労様でした。もうお帰りになって結構ですよ」
そんな風に言われたのは、任意同行を求められてから丸一日も経ってはいなかった。
さすがに警察相手に偽名は使えない。太一郎は小平署の時と同様に、本名の藤原を名乗る。事情を説明すると言ったものの、太一郎には詳しい事情は何も判らないのだ。ただ、茜から聞いた通りのことを答えた。
しかし、それは新田の供述とはかなりずれており……。太一郎は、長期戦になるなら宗に奈那子のことも頼まなければならない、と考え始めた時だった。
「お疲れ様でした」
目白署の玄関口で宗が迎えてくれる。だが、茜の姿がないことに、太一郎は若干の不安を覚えた。
「ああ……悪い。なんか迷惑ばっかり掛けて。それで、あの……あか……佐伯は?」
「佐伯さんはお母様が迎えに来られました。お母様の落ち込みが酷く……佐伯さんが傍についてご実家の方に戻られました」
宗から聞いた事情は、太一郎の想像を遥かに上回るものであった。
先ず、警察は最初から新田を怪しんでいたという。理由は簡単である。
「義理の娘の身を案じる男が、股間をその娘に噛まれる訳がありませんからね」
宗は笑いを堪えながら話す。
新田は頭の傷もさることながら、茜に噛まれた傷からの出血に慌てふためいたらしい。悪態を吐きながらビルの廊下をうろついていた所を、警備員が見つけて救急車を呼んだと言う。同時に、警察にも通報された。
当初、顔も知らない女との情事の結果で、女は逃げたと言ったらしい。しかし、警察は数時間前の茜の通報を引き合いに出し、新田は返答に窮する。直後、新田は太一郎の顔を見つけ、短絡的にも罪を押し付けようとしたのだ。しかし、それがそもそもの間違いとなる。
太一郎や茜は一滴も酒を飲んではおらず、二人の話のほうが信憑性は高い。その場合、新田の強姦未遂は明らかだ。しかも警察からは「どうしてそんな場所を噛まれたのか」と質問され……。
朝になり、酔いの醒めた新田は「昨夜は酔っていた。実は茜に誘惑されて……」「いや、本当は僕と茜は深い交際があって、単なる痴話喧嘩……」など、供述を二転三転させたのだった。
「それだけでも充分怪しいんですが……。実は、警察の身元確認で新田が偽名を名乗っていることが判ったんです」
あの男の本名は渡瀬祐作と言い、なんと結婚詐欺容疑で取調べを受けた過去が判明したのだ。起訴には至らなかったものの、現在でも複数の女性から慰謝料を請求されており、裁判中であった。
駆けつけた茜の母・雅美は新田の正体を聞き……茜の支えなしでは立っていられなかったという。
「どうやら結婚の話が出ていたようです。店の名義を新田にする予定だったとか……。あの男が自分の娘に何をしたかを知り、泣き崩れてしまわれて。佐伯さんは、元々親孝行なお嬢さんですからね。太一郎様のことは気にされてましたが……」
茜もつくづく苦労人だ。
思えば茜が太一郎に関わり始めたのも、母親や弟妹の手が離れたからであった。周囲の面倒を見ることで自分に存在価値を見出してきた茜なら、今度も頑張るだろう。寧ろ、こういった事態のほうが茜自身が落ち込まずに済むかも知れない。
警察署を出てしばらく歩くと自動販売機があった。宗はそこで缶コーヒーを二本買う。その横の、ベンチ代わりとも単なるブロックとも言える場所に腰を下ろし……。太一郎は礼を言い、一本受け取った。
「俺にはよく判んねぇけど。もし法律的にどうにかしなきゃならないなら、力になってやってくれよ」
「はい、判っています。ところで……太一郎様に奥様がいると聞いたんですが?」
いきなり話を振られ、太一郎はコーヒーを吹き出した。
「戸籍上の変化はないようですが。お子さんも産まれる予定だとか……事情を説明願えますか?」
その質問に、奈那子の名前が上がらなかったことに太一郎は驚いた。
どうやら、桐生の私設秘書はそれほど優秀な男ではないらしい。太一郎ですら思い出したのに、向こうは覚えていなかったのだ。そうでなければ一週間以上が過ぎて、卓巳の元に連絡が行かない訳がない。桐生より先に話さなければ、と思いつつ……。再び奈那子に関わったことを知られるのが怖くて、卓巳に連絡の取れない太一郎であった。
「これは良い機会ではないでしょうか? その女性を伴い、藤原に戻られませんか?」
太一郎は宗の言葉に驚き、顔を上げる。すると、宗は随分穏やかな表情で微笑んでいた。
「まだ半年だ。何にもしてねぇのに……藤原に戻ったって」
「実は、九月一杯で私は社長秘書を辞することになりました」
「辞するって……こないだの事件は終わったんだろう? 今月、仕事に復帰したばっかりじゃねぇか」
「日頃の行いの悪さでしょうね。些か仕事の遣り辛い状況でして……。会社にもご迷惑を掛けてしまいそうなので、社長の采配でしばらく本社から離れることになったんです」
宗は二年を目処に北海道で働くことになるという。
その瞬間、太一郎は酷く心細い思いに駆られた。自分でも気付かぬうちに、宗を頼り切っていたようだ。一人では仕事も探せなかった太一郎に、名村産業を紹介してくれたのは宗だった。卓巳にはプライドが邪魔して頼れない所を、宗になら頭を下げることが出来た。
一見、軟派でいい加減な男に思える。だが、その柔軟さと機転はさすが藤原グループの社長秘書と言うべきだろう。
「社長には確実な味方となるべき親族がおられません。やはり、太一郎様が藤原に戻り、本社に入るべきではないでしょうか? 少なくとも社会人としての常識は、半年前からは想像も出来ないほど立派になられておられますし……」
宗の言うことは判る。いつかは藤原に戻り、卓巳の役に立ちたいと思う。
だが……。
「卓巳……さんに会いたいんだ。その……結婚したい女のことで、話がある。明日か、明後日か、俺が出向くから時間と場所を指定して貰えないか? それから……我侭言って悪いんだけど、万里子さんにも同席して欲しいんだ」
覚悟を決めて太一郎は口にした。
宗は僅かに驚いた表情を作ったが、すぐに上着の内ポケットから手帳を取り出し、捲り始めた。
「万里子様も同席と言うことでしたら、藤原邸が望ましいと思われます。……明日の夜九時以降で如何でしょう?」
「ああ、それでいい」
「では、太一郎様も奥様をご同伴下さい」
「それは……」
一瞬、宗の態度は芝居で、奈那子をおびき寄せる罠かも知れないと考える。
「明日は俺ひとりで行く。な……彼女は体調が今ひとつなんだ」
「判りました。では、社長には明日、約束の時間直前にお話することに致します」
「わ、悪りぃ」
どうやら宗は、太一郎の不信と躊躇を感じ取ったらしい。
宗は、茜と連絡が取れるように、と母親の実家を太一郎にも教えようとした。しかし、太一郎はそれを聞かずに断わる。茜との間に友情を築き上げる自信はない。
太一郎は宗にもう一度頭を下げ、茜のことを頼んだ。そして、二度と彼女に会わない決意を固めたのである。
奈那子は太一郎の帰りを待っている。一刻も早く帰って安心させてやりたい。
宗と別れてすぐ、奈那子に電話を掛けるが……。携帯電話は『電源が切れている……』と虚しく繰り返すだけだった。