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(22)涙のプロポーズ

「な……んだ、奈那子か。ビックリさせんなよ。携帯で起こしちまったか?」

「茜さんって仰るんですね。何か困っておいでなんでしょう? どうぞ、行ってあげて下さい。わたしのことなら、気になさらないで」


 まるで浮気がバレた気分だった。太一郎の胸は早鐘を打ち始める。言葉もしどろもどろだ。   

 逆に奈那子は静かな微笑みを浮かべたまま、悟りきったような声で太一郎に話す。


「い、や、だから……」

「ずっと考えていました、太一郎さんには好きな方がいらっしゃるんじゃないか、と。ごめんなさい……わたしがあなたに甘えてしまったせいで、茜さんに辛い思いをさせていたのでしょうね。一年前の約束を気になさっているなら、もうお忘れ下さい。元々は、わたしが一人でどうにかしなければいけないことです。これ以上、あなたを」

「いい加減にしろよっ!」


 茜に惹かれる気持ちはあった。

 理由は判っているのだ。茜は太一郎の過去の悪行込みで笑い飛ばしてくれる。後ろめたい思いをせずに、茜とは笑い合えるのだ。

 だが奈那子は……。

 太一郎は、奈那子の視線が怖かった。真正面から見つめることが出来ないほど……怯えていたのだ。太一郎さえ関わらなければ、奈那子は深窓の令嬢として、幸福でいられたのである。もしそうなら、桐生が結婚を急ぐことはなかっただろう。泉沢に強行突破されることもなく、その前に不正が明らかになったはずだ。彼女は泉沢との内々の婚約を解消し、何れ周囲に祝福された結婚をして……。

 出逢った頃の奈那子は、黒い絹糸のような髪をして、しなやかな指先で鍵盤を叩いていた。将来は、子供たちにピアノを教えるのが夢だ、と語った。

 それが今は、長い髪を無造作に束ね、慣れない家事で指先はボロボロだ。こんな場所で……大きなお腹を抱え、苦労するような運命に引きずり込んだのは太一郎であった。


 その二人の出逢いが、太一郎の悪意だと知った時、奈那子は何と言うだろう。奈那子を抱きながら、他の女とも寝ていたことを知れば……。奈那子から巻き上げた小遣いを、女と遊ぶ資金にしていたのだ。あの時、奈那子が妊娠しなければ、きっと他の男に襲わせていただろう。

 一年前の約束など、太一郎は口にした三日後には忘れていた。彼女の顔と共に……。



 太一郎は深く息を吐き、一気に吸った。そして息を止め、口を開いたのである。


「茜は……藤原でメイドをしてた。その時、俺は……茜を殴って犯そうとした」


 奈那子は小さな悲鳴をあげ、口元を押さえる。

 その時、彼の中で声が聞こえた――余計なことは言うな、と。ただ一度の過ちで、それを償う為に茜と関わっている。そんな嘘を言えと心の声がする。


「俺は去年までそんな生き方をして来たんだ。無理矢理……犯した女は何人もいる。子供を堕ろさせた女も……お前だけじゃない。最初の出逢いも……俺が仕組んで……お前を襲わせて……」


 言葉にすることは、拷問にも等しかった。

 飲み込んだ時は小石だったように思う。だが吐き出そうとする今は、胸が破れそうなほど罪の石は大きく育っている。それは喉に痞え、太一郎は息も絶え絶えであった。


「俺に……謝らないでくれ。頼むから、もっと責めてくれ。殴ってもいい……お前の気の済むように……どうか、どうか」


 太一郎は頭を下げ続けた。次第に体ごと前に倒れそうになる。

 だがその瞬間――太一郎はフワリと包み込まれた。


 何が起きたのかよく判らない。それほど、奈那子の行動は予想外のもので……彼女は太一郎をしっかりと抱き締めてくれたのである。


「いいえ……わたしにとって、太一郎さまはヒーローでした」

「違うんだ! だからそれは全部嘘で……お前を抱く為の」

「あなたに出逢えて、わたしは人を愛することを知ったんです。わたしは幼い頃からずっと、両親や祖父母の意思で動く人形でした。そのわたしを救い出してくれたのは……太一郎さまです」

「だから、それは」

「愛している、と言ってくださったでしょう? 〝わたし〟を必要としてくれたのは、太一郎さまだけでした」

「違うんだよ……俺はそんな男じゃない……金の力で罪から逃れて来ただけで」



「わたしは一生信じます! 太一郎さま、どうか自信を持って下さい。あなたはわたしに愛をくれて、救って下さいました。それは……わたしの中で生涯変わらぬ真実です! ですから、どうか……あなたも心のままに」



 太一郎は奈那子を、世間知らずのお嬢様だとばかり考えていた。

 だが、何も知らなかったのは太一郎のほうだったのだ。

 

 愛は人を脆くする……弱くも情けなくもするだろう。だが、信じられないほど強い力も与えてくれる。奈那子は愛を糧に強くなれる女だった。信じることも、待つことも、耐えることも、赦すことも出来るほど。そして……別れることも出来るほどに。

 

「……判った。茜のとこに行って来る」


 それは心を決めた声だった。

 太一郎は奈那子からパッと離れ、背中を見せる。この上、涙まで見られるのはあまりに無様だろう。


 だが、奈那子は太一郎の決断を違う意味で捉えたようだ。


「……はい……」

 小さく震えた声で、それでもしっかりと頷いて見せる。

「太一郎さま……今まで本当にありが」

「勘違いすんじゃねぇよ。戻って来るまでに、これ……書いといてくれ」


 太一郎がそう言って渡したのは、ズボンのポケットに入れたまま、ずっと持ち歩いていた〝婚姻届〟だった。本名の藤原太一郎で全部記入してあり、後は奈那子の署名捺印を残すのみである。


「た、いちろう……さま?」

「さま、は止めろって」

「でも、茜さんは?」

「アイツは危なっかしいんだ。家庭環境もちょっと複雑で……それに、アイツはまだ十八だよ」

 太一郎は一旦言葉を切ると、再び口を開いた。

「俺の罪は多分一生消えないと思う。やり直したり、幸せになろうなんてこと自体、間違ってるのかも知れない。でも、お前の子供の父親になりたい。叶うなら、償うチャンスが欲しい。お前とやり直したい。一年前の約束を守るとこから始めさせてくれ。でも……無理にとは」


 次の瞬間、奈那子の瞳に涙が浮かんだ。

 そして大粒の真珠が煌きながら頬を伝い始める。

 

「太一郎……さんが罪を犯したなら、わたしも一緒に償います。だから……あなたの妻にして下さい」


 泣きながら微笑む奈那子を、太一郎はソッと抱き寄せた。

 雲が月を横切り、重なる二人の影が消え――。

 


 数分後、太一郎は駅に向かって走っていた。

 茜の言葉はおそらく嘘だろう。だが、彼女の誘惑に乗るわけにはいかないのだ。今度こそきっちり茜と話し、太一郎に奈那子の許を離れる気がないことを判ってもらう。


 この時の太一郎に偽りは欠片もなく……。 




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