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(21)愛と、迷いと


「ほらほら、そんな強火で煮たら駄目だよ。弱火でじっくり、と。……ジャガイモが煮崩れるからね」

「あ、はい。すみません」

 奈那子は慌てて頭を下げる。

「急いで動かないの。台所は狭いんだからね。お腹に包丁やお鍋の取っ手が当たったら大変だよ」

「あ、はい。す……すみません」


 太一郎は真剣に謝る奈那子の横顔を見つつ、苦笑いを浮かべた。


「ばあちゃん。風呂場の掃除が終わったぜ。天井のカビも取ったからな」

「ああ、済まないねぇ。じゃ、お茶でも淹れるかね。さあ、ナナちゃんもおいで」

 

 〝岩井のばあちゃん〟太一郎がそう呼んでいた女性である。

 太一郎が名村産業で汲み取り業務に従事していた時、周回担当になっていたのが、この岩井ときの家だった。腕を骨折していた彼女に代わり、太一郎がバケツで水を運んでやったのが始まりだ。それ以外にも、休日に出向いて買い物を手伝ったり、タンスの置き場を変えたり、大工仕事までした。かつての太一郎からは考えられない働きぶりである。

 その代わりに、ときは太一郎に何度もご飯を食べさせてくれた。そして何より太一郎が欲しかった、「ありがとう」の言葉をたくさんくれた人だった。



 ときの家は平屋建てだ。玄関を入るとすぐ右にトイレがある。そのまま三畳程度の台所があり、正面奥のドアが風呂場だ。台所のガラス戸を開けると四畳半の和室、ガラス戸の向こうの開き戸は六畳の和室となる。二つの和室は襖を隔てて繋がっていた。

 四畳半の部屋の真ん中に、昔ながらのちゃぶ台があった。手前には小さな食器棚、ガラス戸を挟んで置かれたカラーボックスは電話台である。反対の隅には仏壇があり、二十年前に亡くなったときの夫と、五十年前に五歳で亡くなった息子の位牌が祀られていた。



「見た目がでっかいだけで、怖がりだよねぇ、太一ちゃんは。こーんな小さいアブラムシを見ただけで、飛んで逃げたんだよ」

  

 ちゃぶ台を囲んで太一郎が座ると、奈那子がお茶を出してくれた。

 ときもそれを啜りながら、八ヶ月前に会った太一郎のことを、奈那子に面白おかしく話して聞かせる。

  

「タンスを抱えりゃへっぴり腰だし、釘を打たずに手を打っちまうしねぇ~」

「いい加減にしろよ、ばあちゃん。奈那子に余計なこと言うんじゃねぇよ」

「はいはい。こんな可愛い嫁さんがいて、困ってんならさっさとうちに来りゃ良かったんだ。ねぇ、ナナちゃん」



 奈那子が退院した日、彼女の父・桐生に居所を知られた。

 二人は夜のうちに荷物を纏め、アパートを出たのだ。しかし、当然のように行く当てはなく……。その夜は近隣のビジネスホテルに泊まった。

 翌朝、商店街を通り抜け、駅に向かう太一郎にときが声を掛けたのである。

 

 ときは二人を、親の反対に遭い、駆け落ちしたのだと誤解したようだ。

「子供が産まれたら、きっと嫁さんのご両親も許してくれるよ。それまでうちにおいで。狭いけど、雨露は凌げるさ、ねぇ」

 太一郎はときの言葉に甘えたのだった。


 ときに世話になってちょうど一週間が経つ。

 月末には千早物産の家族寮に移るつもりだ。名村の会社には新しい職場のことは言っておらず、さすがの郁美も気付いてはいないだろう。

 桐生の秘書・白石も、奈那子と太一郎が姿を消したことを知れば、遠くに行ったと思うはずだ。

 だが、千早に世話になる前に、卓巳と会う必要がある。桐生経由で知られる前に、太一郎から話したほうが無難であろう。卓巳なら先手が打てる。そして卑怯かも知れないが……太一郎は万里子に泣きつくつもりだった。万里子の口添えがあれば、卓巳も奈那子を桐生に返せとは言わないはずだ。



 ときと奈那子は、祖母と孫娘のように楽しそうに話している。

 太一郎と同じく、奈那子も冷たい家庭で育った人間だ。奈那子は太一郎と再会して初めて、人の優しさと温かさを知ったと言う。今、声を立てて笑う彼女は、一年前の寂しい笑顔とは比べ物にならないほど幸せそうだった。


 太一郎はズボンのポケットから小さく畳んだ紙をコソッと取り出す。そして、誰にも聞こえないように、ため息をついた。


(こっちが先だよなぁ……)


 踏み切ろうとしては、正体不明の迷いが頭に過る。

 〝愛〟を知る難しさに、逃げたくなる太一郎だった。



~*~*~*~*~



 夜十一時頃、太一郎が着替えようとした時、携帯が鳴った。

 ときは眠るのが早い。自然に太一郎らも早めに布団に入るようになったが……。


 太一郎は慌てて携帯を掴み、奈那子に目をやった。最近は上向きで眠るのは苦しいらしい。彼女は襖の方を向き……既に寝息を立てているようだ。

 ときと奈那子を起こさないように、太一郎は素早く外に出たのだった。

 


『太一郎……太一郎? お願い……すぐに来て!』


 ――茜である。

 太一郎は深く息を吐き、苛々した様子で地面を蹴った。


「……お前なぁ。掛けてくんなって言っただろう」

『判ってる、でも』

「切るぞ」

『待って、お願い待って。いるの、あの男が。家の中にいるの。いま、私ひとりなの。どうしたらいいのか判らない……』


 茜の話によると――。

 彼女の母親は、例の菓子職人・新田と旅行に出たらしい。茜自身は、例のろくでもない計画を思いつき、自宅に残った。彼女の弟妹は、母親が途中で実家に預ける予定だったという。

 ところが、中学一年の妹が急に熱を出し、母親も実家に泊まることになったのだ。母親は「友人と旅行に行く」と実家の両親に話したが、まさか相手が男とは言えない。その結果、新田は独りで家に戻って来た。母親は「自宅に戻って連絡を待つ」という新田を引き止めるはずもなく。

 しかし新田は、自分の部屋には戻らなかった。茜が独りでいるのを承知で、母親から預かっていた合鍵を使い、部屋に上がり込んで来たと言うのだ。


「だったらお前が家を出て、友達のとこでも行けよ。それか母親に連絡して、出て行くように言ってもらえ」

『あいつ酔ってるのっ! なんか凄い酔ってて……リビングで飲んでるのよ。リビング通らないと外に出られない。母さんの携帯にかけるんだけど、電源切ってるのか、田舎だから通じないのか……』


 耳元で羽音が聞こえる。熱帯夜の不快感も重なり、太一郎は大袈裟な仕草で虫を払った。


「で、俺が駆けつけたら……今度はお前のヌードでも拝めるわけか?」

『そんな……私、そんなこと』

「茜……ホントにヤバけりゃ俺じゃなくて警察にかけるだろ? こっからお前の家まで一時間近く掛かるんだぞ。俺が行くまで、そいつは襲わずに待っててくれる訳か?」

『しんじて……くれないの?』


 太一郎の心は揺れた。

 女子高生の割にしっかりしていて、生意気な口ばかり聞く。怖いもの知らずで、突拍子もないことばかりして……。茜を〝ガキ〟と呼んだが、太一郎もまだ充分に〝ガキ〟であった。


『太一郎……お願い、見捨てないで』

「もう、勘弁してくれ」

『……たい』

 

 吐き捨てるように言うと、太一郎は電話を切る。

 そして振り返った時、そこに奈那子が立っていたのだった。


 

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