(20)切ない事情
伊丹の話を聞き、太一郎は横になったまま目を閉じた。
さすがに忍耐強くなった彼だが、次に郁美の顔を見た時、我慢出来るかどうか自信がない。
「なんか、困ってるみたいだな」
奈那子が席を立ったのを見計らい、伊丹は声を潜めて言う。
「お前……ヤバイ男の娘にでも手ェ出したのか?」
どうやら伊丹は、奈那子の父親を暴力団関係者と勘違いしているようだ。
だが、このやり口を見ると大差ないと言わざるを得ない。しかも公的機関に影響力がある分、始末に負えない。
今日は助かった。だが、必ずまたやって来るだろう。伊丹もそれを心配して、逃げた方がいいんじゃないか、と言う。
「悪いな……俺が寮住まいでなきゃ、うちに来いって言うんだが」
当座の足しに、と伊丹は財布からあるだけの金を引き抜こうとする。太一郎はそれを慌てて止め……。伊丹の思いやりに、心から感謝したのだった。
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奈那子が太一郎の子供を妊娠して、中絶を余儀なくされたのは昨年夏。奈那子の父・桐生代議士はそれをひた隠しにしようとした。
元々が、桐生は政治とは無縁の家に生まれた。
その為、彼の後援・支持者は全てが桐生……妻・美代子の父親に繋がった。齢八十を越えながら、引退後も政界に影響力を持つ義父。桐生代議士は娘を利用して、義父を越えるルートを開拓することに躍起になっていた。
その足がかりが、現職大臣を父親に持つ泉沢清二と奈那子の結婚である。
内々での婚約が整ったのは奈那子が高校を卒業する前だった。当時は清二もまだ二十代半ば、どちらかと言えば、桐生が積極的に泉沢との縁を欲しがっていた。奈那子の大学卒業後、と言われ、渋々承諾したのである。
その後、奈那子と太一郎の一件は、当然のように泉沢の耳にも入る。
婚約解消を覚悟した桐生であったが……。今年に入り、急遽、卒業後の結婚予定を早めたいと言われたのだ。『必要なのは家同士の結びつき』――疵物となった娘の処遇に困っていた桐生は、すぐに了承した。
ところが、肝心の奈那子が清二との結婚を断固拒否する。彼女は太一郎の「必ず迎えに行くから」という言葉を信じていた。
しかし、桐生はそんな娘の寝室に、強引に清二を送り込んだのだった。
奈那子は抵抗したが…………。
その二日後のことである。
なんと、清二の父・泉沢大臣の汚職疑惑が一気に浮上したのだ。
贈賄側の企業責任者が逮捕され、数日中に泉沢の私設秘書である長男も逮捕された。そして、泉沢本人にも捜査の手が及んで来て……。
予てから、泉沢と非常に深い繋がりを言われてきたのが桐生代議士だった。しかも桐生自身、その汚職問題に一枚絡んでいたのだ。だが、桐生は検察関係に強力なコネがあり、既に逃げ切る算段が出来ていた。
泉沢の起訴は時間の問題――そんな報道が出始めた時、泉沢は桐生に救済を求めて来る。だが、桐生は泉沢との親密な関係を一切否定。その時に、奈那子と泉沢の次男・清二との婚約も否定したのだった。
婚約発表前で良かったと安堵する桐生の耳に、妻が囁いたのが〝奈那子の妊娠〟である。
奈那子と清二の関係はたった一度だ。まさか、そんな事態になるとは思いもせず……。妊娠を知れば、泉沢は嬉々として結婚を進めるだろう。婚約の証拠が奈那子の中に存在するのだから当然である。
実のところ、泉沢は桐生そのものより、桐生の義父の力を期待していた。
縁戚となり、匿って欲しいと望んでいる。仮に泉沢自身が第一線から退いたとしても、息子に地盤を継がせ、まだまだ金の傍に居たいと思っているのは明らかだった。
そしてそれは、桐生にとっても同じこと。
贈収賄疑惑に巻き込まれる危険も然る事ながら、一番恐ろしいのは義父の怒りであろう。
今度の件で、泉沢との金に塗れた関係を義父に知られてしまったのだ。挙げ句、ろくでもない相手を娘婿に選んだと叱られることになった。
その結果、奈那子の妊娠を知らぬ義父は、可愛い孫娘の婿は自分が選ぶと宣言したのである。
義父の言葉に逆らえない桐生は、大慌てで奈那子に中絶を命令した。しかし……。
「中絶はもう嫌です! その為なら、太一郎さまのことは諦めます。わたし……泉沢さまに嫁ぎます」
父の思惑を知らない奈那子はそんなことを言い始めたのである。それが清二の耳に入れば、二人の結婚を阻止する術は桐生にはない。
もしそうなれば、義父は失態を犯した娘婿より、血の繋がった孫娘を選ぶであろう。更には、奈那子が男の子を産んだ時……桐生はこの家を追い出されるに違いない。清二を婿にして、最終的には曾孫に全てを残す。義父がそう考えてもおかしくはないのだ。
奈那子が家を出たのはそんな時だった。
義父にはその事実を伝えず、「騒動が収まるまで、奈那子を海外に行かせた」と釈明した。そして、私設秘書を使い、極秘裏に奈那子の行方を捜させたのである。
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「太一郎さん……わたし、泉沢さまの許へ行くほうがいいのでしょうか? この子にとって、実の父になる訳ですから……」
太一郎が動けるようになり、伊丹も引き上げた。
二人きりになった途端、奈那子がそんなことを言い出したのである。
「お前がそうしたいなら……俺に止める資格なんてねぇけど」
「わたしは……わたしは……」
親に言われてか、それとも保身の為か……どちらにせよ、太一郎には清二が奈那子を愛しているとは思えなかった。婚約していたとはいえ、強引に奈那子を奪い、それきりだと言う。
政治の世界は複雑で、太一郎には何が常識だか計り知れない。だが、もし桐生代議士と泉沢が再び手を組んだら……。或いは、清二側も桐生との関係を断ちたいと思ったら……。奈那子の子供は誰にも望まれず、闇に葬られる可能性だってある。
同じように奈那子を傷つけた太一郎に、清二を責める資格はない。だが奈那子が望むなら、彼女と子供を守る資格は得られるはずだ。
「あの男、お前の親父さんの秘書だったよな?」
「はい。白石さんはいつも地元の事務所に詰めている方です。それと……部屋に来られた時、何処の馬の骨とも判らない男と一緒に暮らすなんて……そんな風に仰ってました」
もし、藤原太一郎だと知っていれば、「またあの男と」そう言われるはずだ。
どうやら郁美はその件は言わなかったらしい。だが、太一郎が白石を覚えていたように、すぐに白石も気付くだろう。そうなれば、卓巳に連絡が行くのは目に見えている。
(折角、千早で働ける目処がついたのに……諦めなきゃなんねぇのか?)
太一郎は思わず悪態を吐きそうになった。だが、そんな様子を奈那子がジッと見つめている。ここで苛立ちを見せれば、奈那子は清二を選ぶかも知れない。
グッと歯を食い縛り、太一郎は泣き言を腹の中に飲み込んだ。
「心配すんな。俺が何とかするから」
「わたし、太一郎さんの傍に居てもいいんですか? わたしのせいで殴られたって……怒ってないんですか?」
涙ぐむ奈那子の髪を撫で、太一郎は必死で笑顔を作った。
「怒ってねぇよ。とりあえず、この家から離れようぜ。落ち着いたら、今度はこっちから動く。――奈那子、お前は清二って野郎のこと、好きでも何でもないんだろ? だったら行くな」
「……わたしが好きなのは太一郎さんだけです」
懸命に微笑む奈那子の姿に、知らず知らず、自分を変えた女神の笑顔と重ねる太一郎だった。