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(2)悪魔の微笑


「おかえりなさぁい。伊勢崎……ううん、藤原太一郎くぅん」

 甘ったるい、そして人を小馬鹿にしたような声が太一郎に耳に届いた。


 築何十年か定かでない二階建てアパートの前に、一人の女が立つ。

 緩くウェーブした茶髪、水商売の女を思わせる濃い目のメイク、マキシ丈の黒のノースリーブワンピースの上に、軽くカーディガンを羽織り、腰をくねらせている。三十過ぎて若作りにも程がある、というのが太一郎が同僚から聞いた噂だ。

 名村郁美なむらいくみ、宗の紹介で勤め始めた名村産業の社長夫人である。



 名村産業は小平市内にある廃棄物収集業者だ。一般廃棄物……いわゆる生ごみの収集から、資源ごみ、粗大ごみ、産業廃棄物、特定家電の収集、し尿汲み取り業務に浄化槽の清掃まで、市や都の指定業者の一つでもあった。

 会社の規模は――従業員は臨時採用を合わせて二十人程度の有限会社である。社長は名村源太なむらげんた、還暦を迎えた二年前、半分の年齢のホステスを後妻にしたという人物だ。社長には先妻との間に子供が二人いる。二十代の息子と娘だが、どちらも太一郎に目には『相当なタマ』に映った。

 とくに息子のひとしは酷い。肩書きは『名村クリーンサービス』という主に官公庁や学校の掃除を請け負う会社の社長である。太一郎より二つ上の二十六歳――自分で起業したなら大したものだが……。父親のコネと金で作った会社だ。おまけに等自身は、給料を受け取る以外の仕事は何もしていないという。



 つい先日まで、太一郎は入ったばかりの平社員に過ぎず、彼らの眼中にはなかった。

 それが……六日前、太一郎がある光景を目撃したことで状況が変わってしまう。


「びっくりしたわぁ。あなたがまさか、あの藤原のお坊ちゃんだなんて、ね」

「話がそれだけなら……俺はこれで」


 軽くを頭を下げ、郁美の横をすり抜けようとした時、彼女は太一郎の腕を取って言った。

「あたしと等さんのこと、言わなかったんだ。ねぇ、どうして?」


 六日前、太一郎は社長夫人と義理の息子の情事を目撃した。だが、見なくても気付いてはいたのだ。腐った男女の関係は汚臭を放つ。それは仕事の時に嗅ぐ匂いより強烈だった。


「誰にも言わないと約束したのに……なんで、俺を嵌めたんだ?」

「だって、亭主に知れたら終わりだもの。上手くやったつもりだったのに。レイプされた、ってだけにしとけば良かったのよねぇ。お金も脅し取られたなんて言っちゃったから……ボロが出ちゃった」



 郁美は太一郎を罠に嵌めるため、夜の会社に呼び出した。

「あなた、独り暮らしのお年寄りの家に上がり込んだでしょう? その家からお金が無くなったってクレームが入ったのよ! すぐに来なさい!」

 社長夫人からそんな呼び出しを受けたら、仮に〇時近くであっても行かないわけにいかない。


 汲み取り式のトイレがある家は古い家が建ち並ぶ地域だ。自然とお年寄りも多く、しかも独り暮らしである。作業中はバケツで数杯の水を流して貰う。しかし、それすら出来ないお年寄りもいた。

 トイレ掃除などしたことがない。トイレの仕組みがどうなっているのかさえ知らなかった太一郎である。最初はそういった器具に触れることに躊躇いを覚えたが……。

 ある家で、骨が折れてから右手の自由が利かなくなったというおばあさんがいた。洗面器で少しずつ水を運ぶ姿が、祖母の皐月と重なる。気付いたら、太一郎はバケツを手にしていた。

「ありがと。本当にありがとね」

 おばあさんのお礼は心からの言葉だ。こんなことで、たったこれだけのことで、自分はこんなにも幸福になれたのに。なぜ、これだけのことが出来なかったのか。苦い思いが太一郎の良心を責め立てた。

 いつの間にか、時間があれば力仕事も手伝うようになり……。お礼にと渡された梅干入りのおむすびは、三ツ星レストランのフルコースより美味しかった。


(何かの誤解に決まってる)

 そして、駆け付けた太一郎を待ち構えていたのは……。



「この男です! あたしをレイプした挙げ句、夫にばらすって脅迫したのよ! また、お金を受け取りに来たんだろうけど、残念だったわね。警察に通報しましたから! 泣き寝入りするような女じゃないのよ!」

 いきなり郁美に叫ばれ、次々に私服・制服警官が姿を見せる。

「伊勢崎太一郎さんですね。小平警察署の者ですが、少しお聞きしたいことが」

 後から思えば冷静に対処するべきだった。だが小心者の太一郎は、警察に囲まれた瞬間パニックになってしまう。なんと警察の拘束を振り解き、その場から逃げ出してしまったのだ。結果、すぐに追いつかれ……逃走の恐れありということで緊急逮捕されたのだった。



「いいじゃない。レイプの件は告訴を取り下げたし、恐喝は勘違い。公務執行妨害も罪にはならなかったんでしょ?」

 裁判所は逮捕状を出さず、太一郎はすぐに釈放された。

 それらは全て宗の手配だ。都庁に勤める宗の知人を通じ、名村夫妻に藤原の名前を教えたのである。名村は大急ぎで告訴を取り下げ、郁美にも証言を撤回させた。


 だが、名村の本心は太一郎への疑いを消したわけではなかった。

 すぐに揉み消されたが、『元メイドが告白、私は太一郎にレイプされた』という藤原グループの記事スキャンダルが今年に入ってすぐ三流週刊誌を騒がせたことがある。名村はそれを覚えていて――太一郎は素行が悪く家を追い出された男だ。いよいよ真面目に働くのに飽きて、郁美に目をつけたのかも知れない――そんな風に考えたのだった。


「とにかく。俺はもう名村産業をクビになったんだ。あんたとは何の関係もない。あんたが誰を咥え込もうが、知ったこっちゃない。帰ってくれ」

「あーら、いいのかしら、そんなこと言って。会社の寮を出たこと、あの弁護士先生はご存知なかったみたいね」

 太一郎はドキッとした。

 その件があったから余計に卓巳には知られたくなかった。宗は気付きながらとぼけてくれたのか、と思っていたが……。

「どういう、意味だよ」

「何か事情があるみたいだから、黙っていてあげたのよ。優しいでしょ?」

 

 この手の女の魂胆など丸見えだ。

 太一郎はアパートの二階を見上げ、苛々した様子で吐き捨てるように言った。


「あんたの誤解だ。俺はもう藤原になんの権利も持ってない。俺を取り込んでも金にはなんねぇよ。今の亭主を大事にするんだな」

「誤解かどうか、藤原を直接訪ねてもいいのよ。従兄の社長さんは聞いてくれるかも知れないわ。大会社とはいえ、スキャンダルが続けばどうなるか判らない世の中だもの。マスコミも興味を持ってくれるかも」


 狡猾な女狐は舌なめずりをして太一郎を見ている。

 年寄りの名村とこの先何十年も夫婦で過ごし手に入る遺産など、藤原にすれば端金はしたがねだ。太一郎を上手く利用すれば、すぐにも彼女のモノとなる。そうすれば名村と別れてもっと若い男と遊び暮せるのだ。

 そんな打算を顔に浮かべながら、


「あなたも、例のメイドさんの話とか……蒸し返されたくはないんじゃない? 部屋で待つ、可愛い奥さんの為にも……ね」


 郁美は悪魔のように微笑んだのだった。

  


     

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