(19)危険な使者
電車の揺れに身を任せながら……太一郎は窓の外を眺めた。
外はもう真っ暗だ。こんなに遅くなる予定ではなかったのに、久しぶりに酒を飲んだせいで、酔いを醒ますのに思った以上の時間が掛かってしまった。
北脇のやり方は卑劣で、どうにも怒りが納まらない。迂闊にもそれに乗った茜は……馬鹿にもほどがあるだろう。十八歳の女子高生が、太一郎のような男を捉まえる為に、簡単に差し出すようなものじゃない。一連の騒動が芝居だと聞き、太一郎は心底安堵したのである。
だが一瞬、太一郎の胸にも欲情の火が点いた。……北脇のような男に奪われるくらいなら、と。
ほんの僅かに過ぎった男の欲望が、太一郎を自己嫌悪に陥れた。
奈那子に申し訳なく、つい酒に手を出してしまったのである。しかし、何故飲んだのか……それを彼女に説明することも苦しい。結果、缶ビール一本に手を出したばかりに、太一郎は池袋から高田馬場まで歩き、その後数時間を駅のベンチで過ごす羽目になったのだった。
つくづく、自分は豪胆と言われた祖父とは似ていない。
考えてみれば、母の尚子自身が性格は父親似ではなかった気がする。太一郎の中から藤原の血を見つけようと、母は懸命に隔世遺伝だと主張していた。なまじ、見た目が祖父に似ていたせいかも知れない。母も妄想から抜け出せなくなったのだろう。
もし祖父に会えるなら、本当に太一郎を自分の後継者にするつもりだったのか聞いてみたい。
先代社長である祖父・藤原高徳は他人の人生を思うままに動かし、狂わせた張本人だ。それでいて自分が不幸だと思い、満たされぬまま死んだのだとしたら……。
(爺さんに似てなくて良かったぜ)
奈那子を〝裏切りそうになった〟のと〝裏切った〟のは違う。
そんなことをブツブツ言いながら、太一郎は駅の改札を抜け、アパートに向かうのだった。
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角を曲がった瞬間、太一郎の目に黒い塊が飛び込んで来た。狭い路地に栓をするように停められた、真っ黒のメルセデスベンツCクラスである。フルスモークで見るからに怪しい車だ。それが、太一郎たちの住むアパートの前に停まっていた。
太一郎の鼓動は瞬く間に激しく打ち始める。
彼が目を凝らしたその時、階段から人が下りて来た。その中に、二人の男に挟まれた奈那子の姿が見える。太一郎は脊髄反射のように走り出していた。
「奈那子っ! お前ら何やってんだ!? 俺の女房を放せよっ!」
「あ……だめ、来ないでっ」
今にも泣きそうな奈那子の声を聞いた瞬間、太一郎は手近な一人を殴り倒していた。
男は車に乗った運転手も含め四人。そのうちの一人は、見たことがあるような比較的貧弱な三十代の男だ。奈那子の左右にいる男はどちらも二十代であろう。格闘家かボディガードのようにも見える、屈強な大男たちだった。
だが、体格だけなら太一郎も負けてはいない。
一人目を殴り倒して奈那子の手を取り、もう一人と思った時――男の膝が太一郎の腹部に入っていた。痛みと共に息が詰まる。次の瞬間、男の拳が太一郎の顎を突き上げた。
「いやっ! やめて。止めさせて白石さん。た……彼を傷つけないで!」
「お嬢様ともあろう方が、こんな薄汚い男と。先生がどれほどお探しになったか、少しは考えてみて下さい」
「お父様は泉沢との縁を切るために、わたしを探しているだけでしょう? この方は関係ありません! お願いだからもう止めてっ」
地面に倒れながら、太一郎は奈那子が口にした白石の名を思い出していた。
(たしか……桐生の私設秘書が白石……)
公設秘書とは違い、主にこの白石が桐生代議士のプライベート問題を処理すると聞いたことがある。太一郎が念書にサインした時も、立ち会ったのは桐生ではなく白石だった。会ったのはその一度だけだが、白石のいけ好かない顔を太一郎は覚えていた。
そして太一郎を殴った男が奈那子の体に触れ、白石から引き離すとベンツに押し込もうとする。太一郎は渾身の力で立ち上がり、声を限りに怒鳴ったが――。
「奈那子に触るんじゃ――グゥッ!」
衝撃は突然だった。
最初に太一郎が殴り倒した男が立ち上がり、脇腹にスタンガンを押し当てたのだ。悲鳴を上げそうになった奈那子の口を、もう一人の男が塞ぐ。白石は「おいおい、あまりそう言った物を使うんじゃない」と、顔を顰めて言うだけである。
(俺は結局……奈那子ひとり助けられない……)
落ちかけた意識の中、「火事だーっ! 火事だ、燃えてるぞ、早く出て来てくれ! 火事だぞ!」
どこか聞き覚えのある声が、太一郎の脳裏を掠め……。
~*~*~*~*~
「太一郎さんにもしものことがあったら……わたし」
「大丈夫ですよ、奥さん。骨はやってないし、すぐに意識も戻りますよ」
「でも……」
「な、なこ? あの連中は……」
目が開くより先に、声が耳に入ってきた。
奈那子に大丈夫だと言ってやりたいが、どうもすぐには体が動かず、声も出ない。その間にもう独りの声の主に見当がついた。しばらくして、重い瞼が開いたと同時に声が出たのだった。
「太一郎さん! 良かった……良かった。ごめんなさい、わたしのせいで……本当にごめんなさい」
「お前、連れて行かれなかったのか? 伊丹さんが助けてくれたんですか?」
太一郎が目を覚ましたのは、病院ではなくアパートの部屋だった。どうやら、布団の上に寝かされているらしい。涙をポロポロ流しながら覗き込んでいる奈那子の隣で、太一郎を見下ろしているのは元同僚・伊丹清であった。
あの「火事だ!」と言う声も伊丹のように思う。太一郎がそのことを尋ねると「人が襲われてるから助けてくれ」と叫ぶと、警戒して誰も出て来ない可能性がある。火事なら逃げるか、火を消そうと考え、大概の人間が飛び出してくるそうだ。
「さすがに人前で誘拐は不味いと思ったんだろうな。連中、ベンツに飛び乗って逃げてったぞ」
伊丹は無骨な手で頬を撫でながら笑う。
奈那子は笑う所ではなかったが……。太一郎の意識が戻りホッとしたのだろう、泣き笑いの顔を浮かべたのであった。
今日の夕方、伊丹が仕事を終え会社に戻った時のこと。
妙な雰囲気をした三人の男が会社から出てくる所に遭遇した。敷地に入ってすぐ、邪魔な場所にエンジンを掛けたまま停車しているベンツの主だとすぐに判る。若い連中は単なる金持ちだと思ったようだ。だが伊丹には、その男たちが堅気の商売ではないとピンと来たらしい。
更に、滅多にいない社長夫人の郁美が、事務室の奥にある社長室から出て来た。何か後ろ暗いとこがあるのか、伊丹に愛想笑いを浮かべ……「おつかれさま~」などと言う。
「社長は部屋ですか?」
伊丹は社長に用事があるふりをして、社長室に足を向けた。
「まだ役所よ。もう戻って来るんじゃないかしら?」
「でも、お客さんがいらしてたんじゃ……」
「代わりにお話を聞いてたのよ。大したことじゃなかったわ」
そう言うと、そそくさとファイルを引き出しに押し込み、事務室から出て行った。
社長夫人の退室を見送った後、女性事務員は不満を口にしながら、折れ曲がったファイルを引っ張り出した。チラッと見えたファイルは半年以内に辞めた従業員のもので……。そこには『伊勢崎太一郎』の文字が見えたのである。