(18)恋の犯した罪
「……なぁ、マジで言ってんのか? 去年は訴えてやるって言うくらい、俺のこと嫌ってたじゃねぇか」
「女心は……色々変わるんだってば。それとも……バージンじゃないとイヤ?」
それは、太一郎にとっては厳しい問い掛けである。
しかも泣いて縋られたら……胸に掲げた奈那子の顔から、思わず、目を逸らしてしまいそうだ。
「そんなんじゃねぇよ」
「だったら……」
「だから、女房が居るんだって」
「嘘! 結婚してないって聞いたものっ」
その言葉に、太一郎の意識は危うい場所から引き戻された。
彼は身を乗り出し、茜の両肩を掴んで尋ねる。
「誰から聞いたんだっ?」
「社長……夫人って言ってた。太一郎の働いてる会社の……三十歳くらいで派手な感じの女の人」
郁美だ。本当は三十代半ばだが、間違いないだろう。
茜を問い詰めると、太一郎の結婚は正式なものではない、と教えてくれたらしい。子供が産まれるのに入籍していないと言うことは、結婚する気がないか、太一郎の子供ではないのかも知れない、と。
太一郎は、本当は茜が好きなのかも……。そんな風に言われ、茜は郁美に気を許してしまう。質問されるままに、茜の目で見た太一郎の立場も色々話してしまったようだ。道理で、郁美が藤原から金は取れないとアッサリ引いたはずである。
太一郎は深呼吸を一つし、覚悟を決めた。
「茜……目を瞑れ」
「え? あ、あのっ」
「いいから。俺が好きなら言う通りにしろよ」
茜は言われたまま目をギュッと閉じる。
太一郎が片膝をベッドについた時、ベッドは傾き、スプリングが軋んだ。そのまま、太一郎は茜の身体を掬い上げるように抱きかかえた。
「キャッ!」
茜は小さく悲鳴を上げる。
「病院まで抱いて行ってやるから……暴れるな」
「ヤダッ、下ろして! 下ろしてってば」
茜の抗議を無視して、太一郎は部屋の出入り口に向かって歩く。
「違うの……されてないからっ! レイプされてないから下ろして」
「……!」
太一郎はビックリして茜を床の上にゆっくりと下ろしたのだった。
~*~*~*~*~
茜は郁美に言われたことを確かめたかった。
そんな時、北脇から電話があったのだ。太一郎の気持ちを、茜の方に向けられるチャンスだと言われた。茜が助けてを求めて、来てくれるかどうか。それだけでも太一郎の心を知ることが出来る。
北脇にすれば、本当に女性を攫ったら犯罪になってしまう。だけど、茜とお互いに協力し合う形なら……。太一郎に一泡吹かせてやりたい、そんな理屈で北脇は茜を説得したのだった。
茜自身、馬鹿なことをしているのはよく判っている。しかし、この時の彼女は、初めて芽生えた感情に心を奪われてしまったのだ。〝相手の気持ち〟より〝自分の気持ち〟しか見えない。愛と恋の境界線上に彼女は立っていた。
「今、何て言った?」
「……レ、イプ……されなかったの。されたって言ったら……太一郎が同情してくれるかもって……」
怒鳴られるかと思い、茜は途切れ途切れ、どうにか声を出した。
でも太一郎は違ったのだ。彼は壁にもたれて大きく息を吐いた。両手を膝につき、心から安堵したような表情である。
「ごめん、ごめん太一郎……あの」
「良かった。ほんっとーに良かった。ホントに」
そう言った太一郎の瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいる。
茜は後ろめたさに、その場から逃げ出したい心境に駆られた。
「面白くねーの。センパイ、えらく腰抜けになったもんですね」
入り口のドアが開き、入ってきたのは北脇だ。
その北脇を見た瞬間、太一郎は飛び掛った。胸倉を掴み、今にも殴りそうだ。
「いいぜ、殴っても。ホラホラ、殴れよ」
「隠しカメラか? どっから撮ってんだよ。確か……ココはお前のダチの実家だったよな」
北脇の表情が変わったのはその時だ。
「知ってたのか?」
「思い出したんだ。俺が茜に手を出すのを、カメラ越しに見てた訳か? それをネタに俺を脅すか。それとも、思い切ってマスコミに売るつもりか? その為に茜を巻き込むなんて」
「巻き込む?」
北脇の声のトーンが微妙に変わった。
茜の心臓もドキンとする。太一郎は茜が巻き込まれたと思っているのだ。自分のせいで襲われて、でもレイプはされなかったと聞いて、ホッとしている。もし、SOSの電話そのものが嘘だとバレたら……。
「なんだ、茜ちゃん。ホントのことは言えなかったんだぁ」
「やめてっ!」
「俺にレイプされたって泣きついたら、女房面して居座ってる女から奪えるかも、って言ってたよね?」
「違う! そんなこと言ってないっ! 私はただ……ただ……」
北脇は太一郎の隙を突いて拘束から逃れた。そして止める間もなく、太一郎を呼び出す為に吐いた茜の嘘を、ペラペラと話して聞かせたのだ。
茜にはもう、太一郎の顔を見ることも出来ない。きっと軽蔑しているだろう。
ただ……ただ茜は、魂まで入れ替わったような太一郎に魅せられただけだ。そんな太一郎の傍に居て、自分も変わって行きたいと思っただけであった。なのに、いきなり決まった女性が居ると聞かされ……茜は悔しかったのだ。太一郎の良さに、自分より先に気付いた女性がいることに。
だが、それは郁美にも責任があった。茜が消そうと必死になった恋の炎を、彼女が横から煽ぎ立てたのだから。
「ホント、馬鹿なガキだよな……」
北脇がそう言った瞬間、今度は襟首を掴まれて壁に叩き付けられた。
――太一郎である。
「馬鹿なガキはお前だろうが、北脇」
「なんだと? 一発でも殴ってみろよ、すぐに警察に駆け込んで」
「自首でもすんのか?」
「何?」
「お前が茜の携帯に掛けた電話、全部録音してたらどうなると思う? 茜が警察に行き、お前にレイプされそうになったと訴えたら?」
「そ、そんなこと……その女も承知で……第一、お前の過去を俺が警察で話したら……」
北脇の声が震え始めた時、太一郎は肘で彼の喉元をグッと押さえた。
「いいぜ。俺にはもう失くすものはねぇんだ。裁判沙汰やマスコミの餌食になった所で、トイレ掃除の仕事くらいは出来るさ。ムショで働くのもそう変わんねぇだろ。お前も仲良く一緒に堕ちようぜ。なぁ後輩」
茜は太一郎の表情と声に驚いた。
それは去年、茜を殴り、組み伏せた時と同じであった。北脇もそう感じたのだろう。一言もなく、俯いたまま震えている。
太一郎は北脇から手を離すと、今度は茜を見た。
「帰るぞ。来い」
同時に太一郎は茜の手首を掴み、強引に引っ張ったのだった。
「い、いたいって。放して……太一郎」
ラブホテルから出ると、池袋の駅に向かって太一郎はズンズン歩いて行く。
茜が抵抗すると、太一郎は彼女の手をパッと放した。そして、いきなり怒鳴ったのだ。
「この……バカヤロウがっ!」
「わ、わかってる、でも」
「判ってねぇっ! あんな場所にノコノコついて行きやがって。男をなめんなよ! 思い通りにいかなかったら、奴はお前を犯すに決まってんだろうがっ!? 理性なんかすっ飛ばすのが男なんだよ!」
「ごめんなさい……謝るから……だから」
「謝らなくていい。――もう、二度と電話して来るな」
「太一郎……」
「俺は奈那子と結婚する。ガキに振り回されるのはもうゴメンだ」
太一郎は茜に携帯を放り投げ、クルリと背中を向け歩き出した。
携帯に北脇との会話など録音されておらず、あの台詞は太一郎のハッタリだったのだ。同時に、太一郎がどれほど茜の身を案じ、必死で助けに来てくれたか……。怒ってあの場に茜を置き去りにしなかったのも、逆切れした北脇に茜が傷つけられることを心配したからだろう。
もう、好きな人の背中を追いかけることは出来ない。人の優しさや思いやりを試したことを、心から後悔する茜であった。