(16)邪心の網
★少しだけ暴力的な表現があります。苦手な方はご注意下さい。
「辞めるぅ? 会社を辞めるって言ったの? アノ男からっ」
『そうそう。もういいじゃんか、郁美ちゃん。女子高生に手ェ出して、ヤバイからって逃げるのかもよ。もう、放っておいても平気だって。オレらのことも、一々オヤジに言いつけたりしないよ』
電話口から流れる等の軟弱な声に、郁美は怒りが沸き上がってくる。
平日の午後、六十歳をとうに回った夫はもちろん仕事だ。世間は盆休みでも、市の指定業者である名村産業に休みはない。
郁美は自営業の夫を持ったことに感謝していた。そうでなければ、昼過ぎまでのんびり寝てはいられないだろう。足の指にトゥセパレーターを嵌め、黒にシルバーラメ入りのペディキュアを塗りながら……郁美は怒りの原因について考えていた。
太一郎は一体、何処から入院費用を用立てたのか。進退窮まった太一郎は、ほぼ百パーセント、郁美に降参して来る予定だった。それが「いつまで待たせる気?」と電話をした彼女に、「一生待ってろ」と太一郎は答えたのだ。
手元にある資料では、太一郎は等と大差ない放蕩息子と書かれてある。どんな女の誘いも断わらないセックス好きで……しかも、睡眠薬で処女を喰い物にする要注意人物だ、と。とても、清掃会社で真面目に働く男と同一人物とは思えない。
『ねぇ~郁美ちゃん。聞いてる?』
「聞いてるわよっ! とにかくっ。アノ男を辞めさせないで! 何とか言って引き止めなさい」
『無理だよ、そんなの。事務の人間が退職願いを受理したってさ。オレにはよく判んないし……』
郁美自身、太一郎に特別な感情がある訳ではない。ただ久しぶりに、セックスで楽しめると期待しただけだ。あの、自分に反抗的な……若い男の野獣のような体を、思う存分堪能するつもりだったのに。想像するだけで郁美の女の部分が疼いた。
電話の向こうでは等が郁美の名を呼んでいる。仕方ない、今夜はこの男で間に合わせよう。どうせ、金さえ払えば十代の少年だって買えるのだ。
ただ……藤原の金は魅力的だった。あの太一郎をセックスで骨抜きに出来たら、彼を通じて少しでもその恩恵に与りたいと思っていた。だが別に、郁美が損をしたわけではない。
しかし、彼女を〝ババア〟と呼び、〝メス豚〟と蔑んだ。あのツケだけは何としても払わせてやりたい。そうでなければ、郁美の腹の虫が治まらないのだ。
郁美は一つのことを思い浮かべ、途端に声色が変わった。
「じゃあ、ねぇ。等さんにお願いがあるの。聞いてくれるぅ?」
……郁美は笑いを堪えながら電話を切った。等は大したことは出来ない男だが、これくらいなら失敗はしないだろう。
郁美が声を立てて笑おうとした瞬間、置いたばかりの電話機が鳴り始めたのである。面倒くさそうに受話器を取った郁美だったが、少しすると彼女の表情が目に見えて変わって行き……。
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「佐伯! 佐伯、どこだ!? 居ないのか? 返事しろっ」
夏休み中でも大学構内はそれなりに学生がいる。スポーツ系の部に所属していたり、理系だと実験もある。それ以外にサークル活動もあれば、当然、就職活動の学生もいた。だが、さすがにお盆の期間中は事務局が休みになる為、無断で出入りは出来なくなる。
その大学の構内に、太一郎はいた。彼は清掃会社の社員として、入退出の許可証を持っている。退職願いを出し、今日は休みを取っているが、八月一杯は真面目に働く予定だ。その間に、後輩・北脇を説得し、これ以上茜を巻き込まないように頼むつもりだった。
茜の電話は、『北脇さんから大学に呼び出されたの……今、大学の……最初にドリンクを買ってくれた自販機の前に』――それだけ言って切れたのだ。
茜が何故、北脇の呼び出しに応じたのか。北脇が茜に何をするつもりなのか。太一郎にはサッパリ判らない。だが、放っていく訳にはいかなかった。
太一郎は、仕事先でトラブルがあった、とだけ奈那子に告げ、アパートを飛び出したのである。
「北脇、何処かで見てるのか!? 出て来いよ! 佐伯を巻き込むなっ!」
そこは茜と再会した日、何処となく怯えた彼女にスポーツドリンクを買って渡した場所だった。茜は太一郎の頬を拳で殴り、「許してあげてもいい」と初めて笑顔を見せてくれた。
「――クソッ!」
足下のゴミ箱を思い切り蹴飛ばす。鉄製のゴミ箱は備え付けで……太一郎の足が痛いだけだった。
直後、自販機の上で携帯が鳴った。
太一郎が駆け寄り手に取ると、それは茜の携帯電話だ。そして番号はおそらく……。
「――北脇か?」
『随分早く来たんですね、先輩』
やはり見える位置にいるのだろう。太一郎がそれを伝えると、北脇はさも楽しそうに笑った。
『今のあんたが忍び込むとは思えないからな。警備室に電話したら一発で教えてくれたぜ』
「だったら……今、何処にいるんだ? 用があるのは俺だろう? すぐに行くから……佐伯は放してやれ」
太一郎がそう言った後、携帯電話の向こうに微妙な沈黙が流れた。
やがて小さな声が聞こえ……太一郎は耳を澄ませるが、話の内容までは判らない。もう一度、北脇を説得しようとした瞬間、頬を叩く音と女性の悲鳴が聞こえた!
『……何するのよっ! 太一郎、来ちゃダ……キャ!』
『もういいっ! 黙ってろっ!』
もう一度同じ音が聞こえ――「北脇っ! 北脇、止めろ! 頼むから止めてくれ、北脇っ!」茜の携帯電話に向かって太一郎は叫んだ。
『煩い女だな、コイツ。往生際が悪いっつうか』
数秒後、携帯から北脇の声が流れた。茜の声は聞こえない。
「佐伯に手を出すなっ! いいか北脇……彼女に何かしたらお前はお終いだ。憎いなら俺をやれ! 殴るなり何なり好きにしろ。佐伯茜は無関係なんだ。絶対に傷つけんじゃねぇ!」
太一郎は携帯を握り締め怒鳴った。
だが、北脇は余裕の声で太一郎に答える。
『覚えてるだろ、先輩? どうでもいい女を抱く時に使ってた豊島区のラブホテル。そこから割りと近いから、二十分もあったら来れるよな?』
「豊島区のドコだ! ホテルの名前を言えっ!」
『さあ、なんてったっけな? 部屋番号は二〇二だから。早く来ないと……最近の携帯って性能良いからねぇ。ああ、言わなくても知ってるか――藤原センパイ』
――電話はそのまま切れたのだった。
池袋は都内でも有数のラブホテル密集地だ。豊島区内のラブホテルなら、ざっと百件は超えるだろう。太一郎の額から噴き出した汗は、顔の輪郭を伝って顎から滴り落ちる。
北脇は太一郎と違って頭が良い。両親を大事にしていて、父親の為に太一郎の横暴に耐えたくらいだ。そんな奴が人生を棒に振るような、警察沙汰を起こすはずがない。
茜を使って、太一郎を罠に嵌めようとしている――そう考えるのが妥当だ。いや、そうに違いない。
(頼むから……そうであってくれ)
太一郎は強く念じると、心当たりの場所に向かって全力で走り出した。