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(15)光明


「あっちぃ。ちょっと待ってろ」

 太一郎は紙袋やスポーツバッグを玄関に置いたまま、部屋の中に駆け込みエアコンのスイッチを入れた。


 古いアパートなせいか、引越し当初は鼻につく臭さを感じたものだ。だが、それにも次第に慣れ……。今では寧ろ、奈那子の甘く清潔な匂いがカーテンや布団に染み付いている。

 奈那子の入院中、太一郎は初めてこの部屋で独りになった。布団に入ると妙な気分が納まらず、思わず右手が動いてしまい……。

(こんなことやってる場合じゃねえだろうが)

 朝には軽く自己嫌悪に陥る太一郎だった。


「奈那子! お前は持つなって」

「そんなに心配しないで。太一郎さんのおかげで元気になりました。少しくらいの荷物は平気です」

 確かに顔色は良くなったが、細い手足は相変わらずだ。

 太一郎はTシャツの肩袖で顔の汗を拭いながら奈那子の傍まで行く。そして、わざときつい表情を作り、少し凄んで見せた。

「言うこと聞かねぇと、ただじゃ済ませねぇぞ」

「え? 怒ったんですか? 太一郎さん」

 奈那子は途端に不安そうになり、太一郎を見上げて言う。

 その時、太一郎は彼女をいきなり掬い上げ、横抱きにしたのだ。

「きゃ!」

「お前ごと抱えて運ぶ。」

「……あの、あの、重いです。赤ちゃんの分も重くなってて」

「羽みたいなもんだ。もっとちゃんと食えよ。今度から、夜は一緒にいてやれるから……俺みたいな男でも、居ないよりマシだろ?」

 奈那子は目を潤ませながら、太一郎に抱きつき、

「太一郎さんが居て下さったら……もう、何も要りません」

 そう言うと、ギュッと細い腕に力を籠めたのだった。



~*~*~*~*~



 千早物産の本社は中央区にある。

 藤原グループの本社ビルには比べるべくもないが、六階建ての自社ビルを持つ立派な会社だ。主に外食産業を対象とした業務用食品の研究・開発から、独自の物流システムを駆使して出荷までを行う。全国に三十二の支店と五十の営業物流拠点を持つ、健全経営の中堅企業だ。

 藤原との業務提携は、万里子と卓巳の結婚以前からである。しかし、ごく自然にラインが強化され、関連各社の千早物産に対する評価は上向きであった。


 他に手立てなど一つも残されてはいない。万里子の言葉を信じ、太一郎は千早物産本社ビルを訪れた。六階の社長室に通され、待つこと十数分。茶色のスーツに身を包んだ、万里子の父・千早隆太郎が姿を現す。

 その視線は非常に険しく、値踏みするかのように太一郎を上から下まで繰り返し見ている。

 

「君が、伊勢崎太一郎くんかね?」

「……はい」



 万里子の申し出を、太一郎は断わろうとした。

 なぜなら、この千早物産に桐生の手が及んでは困ると思ったからだ。万里子の親切に甘え、彼女の実家に迷惑は掛けられない。それこそ、卓巳が怒るに決まっている。理由を説明せずに断わろうとする太一郎に、万里子は言ったのだ。

「藤原に問題があるの? だったら父には〝伊勢崎さん〟て話すわ。わたしが幼稚園でボランティアさせて頂いた時に、ご夫婦に色々お世話になったって、ね?」

「え? いや、でも、親父さんに嘘を吐いてもいいのか?」

 驚いて尋ねる太一郎に、万里子は肩を竦め、悪戯っぽく微笑んだ。

「だって、お父様と卓巳さんは別だもの」


 それが親子なのだ、と思うと、太一郎は新鮮な感動を覚えていた。 

 思えば彼自身、両親を無条件に信頼し、互いに支え合う関係など築いたことがない。此処まで困っても、父や母に頼ろうとは一切思わなかった。だが母はともかく、僅かでも心を通じ合わせた父なら、太一郎が頼めば窮状を救ってくれるかも知れない。しかし、上海までは行けず……連絡先も聞かずじまいだった。



「私は君と同じ名前の人間に心当たりがある。娘の夫の従弟で、非常に粗野で凶悪なけだものだそうだ。娘も結婚当初はかなり辛い思いをさせられたという。――藤原太一郎という名だが、君は知らないか?」


 その口調も視線も、明らかに太一郎本人を睨みつけていた。

 太一郎は息を呑むと、「……いえ。知りません」と震える声で答える。


「そうか……。万里子は何も聞かず、君に三十万円を貸してやってくれ、と言うんだが。常識的な人間なら、身元を確認するだろうな。君の勤務先を聞かせて貰おうか?」


 万里子の願いは本心ではなく、この男に脅されたものではないか、と。隆太郎はそんな目で太一郎を見ていた。

 〝名村クリーンサービス〟の名前を挙げるのは簡単だ。しかし、このことが郁美の耳に入れば……。太一郎が金を借りられないように、あることないこと隆太郎に吹き込むだろう。

 そこまで考えた時、太一郎はテーブルに額をぶつける勢いで頭を下げた。


「借用証を書きます! すぐに全部は無理ですが……もし、夜に働かせて貰えるなら、その給料は全額返済に充てます。ですからっ」

「一体、何に使う金だね? それすらも聞かせて貰えないのか?」

「……つ、妻が……妊娠七ヵ月で……倒れて入院しました。訳があって保険証が使えず、退院するのに纏まった金が要るんです。担保も保証人も居ません。肉体労働以外は……出来ません。でも、何としても無事に子供を産ませてやりたいんですっ! たとえ腎臓を売ってでも返しますから、どうか」


 太一郎が一息に言った時、不意に万里子の父が立ち上がった。そして、太一郎の腕をガシッと掴む。


「馬鹿を言うんじゃないっ! 子供は産んだらお終いじゃないんだ。一人前に育てるのに、何十年掛かると思う? 少なくとも向こう二十年、君は働き続けなくてはならんのだぞ。判っとるのかっ!?」


 一瞬、叩き出されることを覚悟した太一郎だったが……。



~*~*~*~*~



 九月から、太一郎は千早物産の西東京支店で働かせて貰えることになった。

 冷蔵・冷凍倉庫の商品管理業務と言えば聞こえは良いが……。早く言えば、商品を倉庫からトラックに積み込む作業である。


 隆太郎は妻を第二子妊娠中に失った。当時、万里子は僅か四歳。彼女が産まれる時には大したトラブルもなく。その為、隆太郎は妻の身を案じることを忘れていた。父親として、家族が増えることへの責任しか頭になかったという。


 ――何としても無事に子供を産ませてやりたい。 


 太一郎のその言葉は、隆太郎の琴線に触れた。万里子の父は、太一郎の為ではなく、母子の為に力になろうと約束してくれたのだった。

 その時に現在の太一郎の収入を聞き、「妻子を養う男の収入じゃない」と憤慨し……。



「もう、金の心配はしなくていい。大きな会社に雇って貰えたから。しばらく伊勢崎で働くけど……その子が産まれたら、ちゃんと本名を名乗ろうと思う」

 太一郎は奈那子を畳の上に下ろしながら、真面目な顔で言った。

 それを見て、奈那子の笑顔が急に消える。どうやら、何か勘違いしたらしい。

「そう……ですね。産まれたらもう、太一郎さんにご迷惑はお掛けしませんから……わたし、子供と一緒に」

「いや、そうじゃねぇって……」


 太一郎が息を吸い、一気に言葉にしようとした瞬間、彼の携帯が鳴った。太一郎は大きく息を吐くと、「悪い……」軽く手を上げて窓際に寄り携帯に出る。

 出た後で、郁美かも知れない、と後悔したが――



『太一郎!? 助けて、太一郎! 助けてっ!』


 携帯から聞こえたのは、緊迫した茜の声であった。




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