(14)救いの手
病室に行くと、奈那子はいなかった。他のベッドの患者に「奥さん、シャワーに行かれてますよ」と教えてもらう。太一郎は軽く頭を下げ、廊下で待つことにしたのだった。
もう、タイムリミットである。残る手段は卓巳に頭を下げることだ。宗に頼んでもどうにかしてくれるだろう。だが、事情を話さなければならない。
去年、太一郎が奈那子を妊娠させた時、怒り狂う彼女の父を卓巳は金で黙らせた。藤原の直系ではなく、政治家になれるほどの能力もない太一郎を、婿とするには役者が足りなかったのだ。逆に、卓巳が代わりに責任を取るなら、婿養子でなくても構わない言い出したくらいである。
その時に太一郎は、『二度と奈那子には関わらない』といった念書を書かされた。
今、この日本において、政治家と一切関わりを持たず、大企業を経営して行くなど不可能だ。何処かで必ず繋がりは生まれる。卓巳も企業倫理における法令遵守を尊重しているが、綺麗事だけでは藤原を守れなかっただろう。
卓巳と桐生代議士の関係には、そういったものも含まれていた。
太一郎が奈那子の家出に関わったこと。それも積極的に彼女を隠そうとした行動は念書に逆らうものである。桐生は藤原に対して報復措置を取るかも知れない。それを考えたら……まさかとは思うが、卓巳や宗が奈那子を桐生に渡さないとも限らない。卓巳は万里子にこそ優しいが、それ以外の女は別だ。いざとなれば、どこまでも冷酷になれる人間である。
だが、卓巳は生まれた時から今の太一郎並の生活だった。母親に捨てられ、父親が死んだ後は施設で育ったという。高校も行かずに朝晩働き、十代の遊びなど一つも経験せず……。
太一郎は今の自分の状況に置き換え、最終的には藤原に逃げ込めると考えている、自分の甘さを恥じた。
――郁美の要求を飲もう。
堕ちる時は、自分だけ堕ちればいい。何処かで野垂れ死ぬなら、それもまた自業自得だ。太一郎が覚悟を決め、顔を上げた時……。
「太、一郎……さん?」
奈那子より少し大きめのお腹をして、そこに立っていたのは――太一郎が女神と崇める、藤原万里子、その人であった。
「なっ! なんでこんなとこに居るんだよ! 皐月ばあさんが入院してた病院で産むんじゃなかったのかっ?」
まさか、藤原の社長夫人が、言ってはなんだが公立病院で子供を産むとは考えられない。第一、卓巳が認めないだろう。
「去年、ボランティアに来てた幼稚園がすぐ傍なんです。仲良くなった園児のお母さんが出産されて……お祝いに。でも……わたしより、どうして太一郎さんが?」
万里子の問いに、太一郎は答えに窮する。だが、その悩みはすぐに解消された。
「あら? 伊勢崎さんのご主人、もう来られてたのね。奥さん、シャワーを済ませてお部屋に戻られましたよ。赤ちゃんも順調ですよ」
太一郎の肩を叩き、奈那子の主治医である女性ドクターが朗らかに言ったのだ。
無論、悪気などあろうはずがない。だが、口を開けたまま、目をまん丸にしている万里子を見て、どう言って説明するか頭を抱える太一郎であった。
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万里子を、郁美と同じ談話コーナーに連れて行くことは躊躇われ……。一階にあるカフェレストランに二人は入った。
伊勢崎の名前から始まって、とりあえず、奈那子のことを説明する。昔、太一郎が酷い目に遭わせた女性が、未婚の母になることを両親に猛反対された。彼女を助けたくて、夫婦だと嘘を吐いている、と。
だが、奈那子の姓が桐生であることや、郁美の件、茜と再会したことなどは言わずにいた。
万里子は最初――ちゃんと食べているのか、痩せたんじゃないのか、どんな仕事をしているのか。と、太一郎を質問攻めにした。
「そう……じゃ、太一郎さんの子供じゃないのね。でも、太一郎さんは奈那子さんのことを愛してるの?」
「え? 今は……それどころじゃないというか……生活に手一杯で」
「何言ってるの、太一郎さん! そこが一番重要でしょう? もし、わたしなら……愛されてるって思ってしまうわ。事情はよく判らないけど……孫が産まれたら、彼女のご両親もお許しになるんじゃないかしら? その時はどうするの? 彼女と結婚して、子供の本当の父親になろうとは思わないの?」
「……」
矢継ぎ早に質問され、とうとう太一郎は黙り込んでしまう。
以前なら、「うるせぇ」と怒鳴りつけるところだが……。ここでは、太一郎は奈那子の夫であり、子供の父親なのだ。一人前の大人の男だと認められている以上、それを壊すような言動は慎む必要がある。
答えない太一郎を見て、万里子は恥ずかしそうに微笑んだ。
「ごめんなさいね。なんだか小姑みたい。でも、ちょっと悔しくて……。新婚旅行から戻ったら、太一郎さんと卓巳さんに仲直りして貰おうと色々計画してたのよ。でも、もうお屋敷にはいらっしゃらなくて。半年ぶりに会ったら、別人なんですもの。ビックリしちゃった」
「俺が……別人?」
「だって、以前は少しでも劣勢になると、すぐに悪ぶって大声出してたでしょう?」
万里子はクスクス笑っている。だが、図星を指され……太一郎は閉口するしかない。
「そうそう、都合が悪くなると嘘を吐かないで黙り込むところ。卓巳さんにそっくりよ。卓巳さんのほうが理屈っぽいから、少し考えて言い返して来るんだけど」
可笑しそうに笑う万里子を、太一郎は不思議な気持ちで見つめていた。以前感じていた、自分を見て欲しい。卓巳さえいなければ……。そんな制御出来なくなるような感情は、何処かに消えている。
今日の付き添いは運転手だけで、ロビーで待っているという。男性に産婦人科は居心地が悪いだろう、と万里子が気を利かせたらしい。普段ならメイドの雪音が付き添いで来るのだが、彼女は今、教習所通いだそうだ。
そして別れ際、「太一郎さん。本当に何も困ってない?」名残を惜しむような眼差しで万里子は見上げる。出産に必要なものがあれば……そんな風に言葉を続ける万里子に、太一郎の心は揺れた。
「出来れば……卓巳には言わないで欲しい。それと……」
万里子なら、どうにかしてくれるかも知れない。だが、それは……。
「太一郎さん? どうかした?」
万里子と郁美、同じ土下座するなら……太一郎は歯を食い縛ると、病院の廊下の端に座り込み、いきなり頭を下げたのだ。
「た、たいちろうさんっ! どうしたの? 何してるの?」
驚いた様子で万里子も座り込み、太一郎を立たそうとする。
「頼む。何も聞かず、三十……いや、二十万貸して欲しい。――頼みます」
万里子の息を飲む音が聞こえた。
「太一郎さん。困っていることがあるなら、卓巳さんに……」
「卓巳には……知られたくないんだ。というか、奴は知らないほうがいい。詳しくは言えないけど……変なことに使う金じゃない。明日、退院で金が居るんだ。必ず、どんなことをしてでも返す! だから」
「わたしが銀行からお金を引き出せば、卓巳さんに必ず伝わるわ。わたし……彼に聞かれたら、正直に答えます。だから、内緒でお金は貸せません」
最もな話だ。卓巳への口添えであるなら、万里子は喜んで引き受けてくれるだろう。だが、卓巳に嘘を吐けと言われて、承知するはずがない。
通り行く人の視線を感じ、太一郎は急いで立ち上がった。
「悪ぃな。忘れてくれ。今日のことは……卓巳に聞かれるまで黙っておいてくれたら」
ボソボソと呟く太一郎の手を取り、万里子はバッグから慌てて取り出した白い紙を握らせる。
「すぐに連絡しておくから……訪ねて下さい。必ず、力になってくれるから」
それは一枚の名刺で――
〝千早物産株式会社 代表取締役社長 千早隆太郎〟と書かれてあった。