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(13)苦渋の決断


「伊勢崎さん――お待たせ致しました。こちらがお釣になります」

 トレイに千円札一枚と数枚の百円玉が乗せてあった。太一郎はそれを受け取り、財布に入れた。

「なるべく早く保険証を持って来て下さいね。再計算して、差額は返金させて頂きますから」

「はい。どうもお世話になりました」

 親切にそう付け足してくれる事務員に、太一郎は丁寧に会釈して支払い窓口を離れたのだった。


 病室に戻ると奈那子は既に帰り支度を済ませていた。

 救急車で運ばれた当初は酷い顔色だったが、今ではすっかり血色も良くなった。この一週間で貧血の数値もだいぶ戻ったという。お腹の子供も順調で、太一郎もホッと一息だ。

 

(やっぱり……これで良かったんだ)


 太一郎は、同じ病室の入院患者に挨拶に回っている奈那子の横顔を見ながら、この一週間に起こった事を思い出していた。



~*~*~*~*~



 郁美への返事は即答出来なかった。

 今の太一郎には、どこから出ていても金は金、とは思えない。まともな人生を歩むために、藤原を出て自活しようと思ったのだ。贖罪のために身を堕とすのは間違っている。郁美に屈服し、金の為にあの女を抱いたら……今度はどんな要求をして来るか判らない。郁美は藤原の金には興味がなくなったように言っていたが、額面通りに受け取るのは危険だ。

 だが、どれだけ綺麗事を言っても、金を必要としている現実は目の前にあった。


 そして郁美の言った通り、会社はクビにはならなかった。それにW大の担当も変わらずに済んだのだ。理由は簡単である。北脇は太一郎を痛めつける上で最も効果的な手段を取った。



「あなたね。うちの茜をたぶらかしながら、高校生の娘に誘われたなんて嘘を平気で吐いた男は!」

 

 ビルの夜警に出勤した太一郎を、和菓子屋『さえき』の女主人・佐伯雅美さえきまさみが待ち構えていた。茜の母親である。


 案の定、北脇は太一郎より茜の評判を徹底的に落としたのだ。

 茶道サークルに和菓子を配達する名目で大学構内に自由に出入りしている女子高生が、大学生に声を掛けて小遣いを稼いでいる。北脇も、彼の友人も声を掛けられた。実際に、その女子高生が清掃員をたらし込み、男子トイレで事に及ぶのを目撃した。

 北脇はそんな風に通報した。非常に迷惑しているので、排除して欲しい、と。

 その結果、和菓子屋『さえき』はW大学に出入り禁止となった。茜は〝不純異性交遊〟果ては〝売春〟の疑いがある、と高校にまで連絡されたのだ。

 夏休みであるにも関わらず、茜は母親と共に高校から呼び出された。幸い証拠は何もなかった為、処分には至らず、「必要以上に大学構内に出入りしないように」と、注意を受けたのだった。


「言ったでしょ、お母さん! たい……伊勢崎さんが悪いんじゃないってば! 私が、あの大学生たちに遊びに行こうって言われたのを断わったから。その嫌がらせなんだって」

 茜は太一郎の素性を言わなかった。彼女自身が大学生から誘われ、それを断わった腹いせに嘘の通報をされたのだ。そんな風に周囲に話したらしい。

 だがもちろん、母親はそれでは納得出来ないだろう。

「そのせいで、お得意様が減ったのよ! そもそも、あなたがこの男に適当なことを言われて、フラフラと大学に出入りするから……。しかも、うちのビルの夜間警備まで紹介してたなんて。母さん、新田さんに聞くまで何も知らなかったわ」

 母親の後ろに少し困ったような表情をして和菓子職人の新田が立っていた。人の良さそうなルックスをしている。見た目も細身で一七〇もないだろう。太一郎にはどう見ても、この男からかつての自分と同じような気配は感じられなかった。

 母親もそう思っているのか、信頼と愛情の混じった眼差しで新田を見ている。


「僕は……ただ、身元が確かでない男性を茜ちゃんが紹介したって聞いて。茜ちゃんは『さえき』の大事なお嬢さんですから」

「ええ、本当に。普通に考えれば判りそうなものなのに……。頻繁に大学に行ったり、夜には警備室にまで出入りしてたなんて……全然気付かなくて」

 母親の仕草を見て、茜はカチンと来たようだ。

「そりゃそうよ。お母さんにとったら、家にいるより新田さんの部屋にいるほうが多いんだもの!」

 見る間に母親は真っ赤になった。確かに、どう見てもこの二人は男女の関係だ。高校生の茜の目にも明らかだろう。


 再び親子喧嘩になり掛けた時、

「全て俺のせいです。本当に申し訳ありませんでしたっ!」

 太一郎は大声で謝罪し、深々と頭を下げたのである。


 

 働いた分の給料を受け取り、立ち去る太一郎の後を、茜が追ってきた。

「ごめんね、太一郎。次の仕事はきっと探すから」

「謝るのは俺のほうだ。巻き込んで本当に悪かった。もういいから……俺には関わるな。藤原の名前を出さないでくれて感謝してる」

「ダメだって! だって……子供、産まれるんでしょ? お金が要るんでしょう?」

 涙に潤んだ声で言われると、茜から責められているようだ。太一郎の胸は苦しかった。罪の意識とは違う、別の痛みが彼を苛む。

「とにかく、戻れよ。あの新田って野郎のことはよく判んねぇが……何かあったら連絡しろ。俺に出来ることは何でもするから」

「それって襲ったことの罪滅ぼし? でも……太一郎も相当ボロボロだよ」

「……るせぇ」

 茜は携帯番号が書かれた紙切れを握り締め、太一郎に尋ねた。

「奥さんとか子供とか、私を追い払う為の嘘で……私のこと振り向いてくれる確率ってどれくらいある?」

「――俺にそんな価値はない。イタズラ電話はすんじゃねぇぞ」


 何でもいいから、茜の力になってやりたかった。母親に男が出来たことで寂しい思いをしているなら、単なる慰め、話し相手でもいい。太一郎が茜にしてやれるとこは、それくらいしか残されていなかったのである。



 その日から、太一郎の精神状態は、日に日に追い詰められて行く。

 新しく夜の仕事を見つけなければならない。そして、数日以内に入院費用だけで二十万円を用意する必要もあった。いよいよ腎臓でも売るしかないのか、と思った時、郁美から連絡があったのだ。


『今から、お見舞い? 毎日大変ねぇ』

 病院に入る寸前、携帯を切ろうとした時に郁美から電話が掛かる。あまりのタイミングの良さに、太一郎は周囲を見回した。病院の駐車場を挟んだ歩道の向こう、一台の真っ赤なロードスターが見える。

『俺のことつけてんのか?』

『やぁねぇ。そろそろ覚悟が決まったかなぁっと思っただけよ。明日には奥さん退院じゃないの? お金は出来たのかしら?』

『……』

『貧乏ってイヤよねぇ~。あたしだって、六十の爺さんと寝て、手にしたお金なのよ。見返りは求めて当然よね? 思わない?』

 太一郎には何も答えられなかった。

『このまま、車停めて待っててあげるから。見舞いはさっさと済ませて来なさいね。二度と偉そうな口叩けないように調教して』

 途中で電話を切り、そのまま電源もオフにした。

 液晶画面から明かりが消え、命が終わったような携帯電話を握り締める太一郎だった。

 



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