(12)果てしない悪意
自動販売機前のベンチに座り、郁美は派手なゼブラ柄のバッグから煙草ケースを取り出した。彼女がライターを手に、ケースから一本引き出そうとした時――大きな手が煙草ケースとライターを一纏めに奪い取った。
「ここは禁煙だ」
太一郎は怒りを露に、煙草ケースとライターを元のバッグに押し込む。
郁美はムッとした顔をしながら立ち上がり、自動販売機の前まで歩いて行った。
「ねぇ、ビールはないのぉ?」
「――帰れよ」
「随分偉そうじゃない。誰のおかげで今の仕事に就けたと思ってるの?」
「その前に、誰のせいでクビになったか、思い出させてやろうか?」
郁美の台詞に、太一郎は言い返した。容赦ない視線で彼女を睨みつける。途端に、郁美は意味もなく周囲に目を逸らせたのだった。
社長夫人である郁美の来訪である。何も知らない奈那子は恐縮頻りだ。
「ひょっとして、ご近所の方が会社に連絡したんでしょうか? ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
慌てて姿勢を正し、郁美に頭を下げる。
近所の人間は太一郎が『名村産業』から『名村クリーンサービス』に移ったことを知らない。奈那子が運ばれるのを見かけた誰かが、親切心から『名村産業』に一報を入れたのだった。
そのことを郁美は声高に言い上げる。
「ほぉんと、いい迷惑よねぇ。でも、うちの系列だし、伊勢崎くんにはとぉってもお世話になったから……。こうしてわざわざ来てあげたんだけど。ラブシーンの真っ最中なんて、随分お元気そうじゃない」
奈那子は恥ずかしそうに、頬を染め俯いた。申し訳なさも感じているのか、細い肩を一層竦めている。
「奈那子、お前は横になってろ」
「でも……」
「お詫びなら俺がするから。とにかく、頼むからゆっくり休んでくれ」
渋る奈那子を強引に寝かせ、太一郎は郁美を押し出すように病室を後にした。
「とにかく。理由がそれだけなら……ご覧の通り、大事には至りませんでしたので、お引取り下さい。わざわざどうも、ありがとうございましたっ」
太一郎は力を入れて礼を言い、郁美に背中を向ける。
その時だ――。
「ふーん。あかねちゃんのことは、奥さんに言わなくてもいいのかしら?」
郁美はベンチの背に浅く腰を置き、腕を組んで思わせぶりな笑顔を見せる。
「何だよ、それ」
「佐伯茜ちゃんだっけ。女子高生に手を出しちゃうなんて。さすが〝バージン・キラー〟復活ね」
「……」
黙り込む太一郎に郁美は近づいてくる。
「人目があるんだから、ここで妙な真似は出来ないわよね? 太一郎パパ」
産婦人科病棟の隅にある談話スペースだ。目の前の廊下を、看護師をはじめ病院関係者、入院患者や見舞い客が行き交う。確かに、ロードスターの中のような脅し半分の手段は使えない。
「彼女は藤原家のメイドで……」
「清掃中に男子トイレの個室に引っ張り込んで、イイコトしてたんですって? ついさっき、大学側の事務局からクレームが来たって、等さんが怒ってたわ」
「違う。デタラメだ! 俺は」
言い掛けて、太一郎は口を閉じた。
後輩の北脇だ。やることが素早い。卒業を棒に振ることのない、『無理矢理とかじゃない方法』の一つ、密告を利用したのだ。
だが……そうなれば茜のことも心配である。もし太一郎が北脇の立場なら、茜も傷つけようとするだろう。
「倒れたばかりの奥さんが知ったら、傷つくでしょうねぇ。妻の妊娠中の浮気なんて、よくあるケースだもの」
郁美の指先が太一郎の背中を突いた。指でつーっと上になぞり、同じようにゆっくり、今度は下になぞる。そのままジーンズぎりぎり、太一郎の腰骨辺りまで指先が下がった時、彼は郁美の腕を振り払いベンチに腰掛けた。
「いい加減にしてくれよ。俺のこと調べたんなら判っただろ? 俺のお袋は先代が妾に産ませた子だって。大した財産は相続してないし、その金すら……俺が馬鹿やってかなり食い潰した。藤原グループは巨大だけど、その全部が社長である俺の従兄のもんだ。俺は奴を散々怒らせた。俺が死んでも、葬式費用も出しちゃくれねぇよ」
――『野垂れ死にしそうな時は、意地を張らずに戻って来い』
卓巳はそう言ってくれた。だが、そのことを郁美に言うわけにはいかない。何としても諦めさせなければ……。
だが郁美は、太一郎が予想もしなかった台詞を口にした。
「別にいいわ。お金が入ったら美味しいけど……今の生活に困ってる訳じゃないから。あたしだって馬鹿じゃないのよ。身の程は知ってるわ。財界の有名人に喧嘩売ったって勝ち目なんてないじゃない」
郁美は実にあっけらかんと言い放つ。
それには太一郎のほうが驚きだ。てっきり太一郎を出汁に使い、卓巳から幾らかの金を引き出すのが目的とばかり思っていた。しかし、郁美は再度太一郎に近寄り、彼の横に座るとミニスカートで脚を組んだ。
「あたしの言うことを聞かない男って初めてよ。〝メス豚〟呼ばわりしたツケはしっかり払って貰うわ」
「俺をクビにするのか?」
「やぁだ。それじゃこの先、楽しめないじゃない。それに、いい事聞いちゃった」
郁美の顔には悪巧みたっぷりの笑顔が浮かんでいる。そう、子供が蝶の羽を生きたまま毟ろうとする時のような……。子供と違うところは、百パーセントの悪意が詰まっている点だろう。
「ねぇ、太一郎くぅん。奥さん、パートの仕事を探してて、倒れたんですって? 健康保険も母子手帳もなしなんて、異常よね? ひょっとして、お金……もの凄ーく困ってるんじゃない?」
奈那子の父・桐生は代議士だ。かなりの方面に力を持っている。奈那子がそういったものを少しでも使えば、すぐに居所は知られるだろう。
奈那子の子供は、彼の政治生命を脅かすかも知れない存在なのだ。どんな手を使っても、桐生は産まれる前に処分しようとする。或いは産まれた後でも……。
「お金、用立ててあげてもいいのよ。そうね、当座に三十万。それだけあれば、今回の入院費用は払えるんじゃない?」
三十万円。かつての太一郎にとって、一夜の遊びの代金だ。
それが今は――喉から手が出るほど欲しい。
「俺に……貸してくれる訳か? 担保は何もないぜ」
「やぁねぇ、あるじゃない! その立派なか・ら・だ」
太一郎は郁美の貪淫な視線に悪寒が走った。腰が引けそうになる太一郎を無視して、彼女は続ける。
「こないだの言葉を撤回して、ベッドの上で足を舐めて貰うわ。満足行くまで楽しませてくれたら……無利子で貸してあげる」
まさか、男である自分が金と引き替えにセックスを要求される日が来るとは、夢にも思わなかった。札束で女の頬を叩き、言いなりにさせた罰かも知れない。そんなことを考え、太一郎は吐き気を我慢した。
「さあ、どうするの? 身重の奥さん働かせる気? 昼間の仕事は、もっと給料が減るかもねぇ~。得意なんでしょ、セックス。仕事だと思って割り切ればぁ?」
奈那子を働かせる訳にはいかない。金がなければ、すぐにも退院すると言い出すだろう。
郁美の申し出は天の助けだ。蜘蛛の糸にも等しい。問題は……それが毒蜘蛛であることだった。