(11)優しいキス
「汚くなんかないっ! カッコ良かったよ、太一郎。ヒーローみたいだった」
茜の腕が、太一郎のウエストに巻き付いた。太一郎には身動きが取れない。もし振り返れば……その時は茜と正面から抱き合うことになるだろう。
かと言って、このままでもいられない。人に見られたら、どんな誤解を受けるか判らないのだ。太一郎なら構わない。元々ろくな評判がない男である。今更、悪評の一つや二つ……だが、これ以上茜を巻き込めば、北脇にしても本当に手を引くか判ったものではない。
「……離せよ」
「ヤダ」
「お前、自分が何やってるか判ってんのか?」
「判ってる! 傍に……居てもいいって言ってよ」
「……」
「私、太一郎のこと嫌いじゃないよ。……好きかも知れない。現役の女子高生がカノジョになってやってもいいって言ってるんだからっ! 何とか言え、バカ太一郎!」
息が詰まった。
こんな告白は生まれて初めてで……。太一郎は胸が甘く痺れる感覚に呼吸も忘れた。
「なあ、佐伯」
「茜でいいってば」
「佐伯、放してくんねぇか。俺、家で女が待ってるから」
「……嘘っ!」
――彼女がいたら、コンビニおにぎりなんて食べてないよね。
以前、茜が呟いた言葉だ。その時は、太一郎は何も答えなかった。……答えたくなかったのだ、あの時は。
「嘘じゃねぇ。何の為に昼も夜も働いてると思う? 十一月に子供が産まれんだよ。だから」
「嘘だよ……だって、太一郎がそんなにモテるわけないもんっ!」
「いや、だから……」
その時、太一郎の内ポケットで携帯が震えた。
~*~*~*~*~
「すみません。伊勢崎と言いますが、ここに……妻が運ばれて来たと」
小平市内の公立病院であった。総合受付で太一郎は自分の名前を名乗る。
――伊勢崎太一郎さんですか? 奈那子さんと仰る女性が倒れて、救急車で運ばれました。
電話は、奈那子の携帯に添えられた緊急時の連絡先を見て掛けてきたものだった。太一郎は慌てて私服に着替え、仕事を早退し、病院に駆けつける。
「奥様のお名前は」
「奈那子です。お腹に子供がいて、今、七ヵ月なんです」
「ああ……奥様はもう、産婦人科の病室に運ばれたみたいですね。南館の三階で聞いていただけますか?」
受付の女性は丁寧に南館までの行き方と、エレベーターの位置まで教えてくれた。
その場所は……太一郎には酷く居心地の悪い場所だ。大勢の妊婦が行き来し、赤ん坊の泣き声が聞こえる。病院の消毒薬の匂いより、ほんのりと甘い……ミルクだろうか……赤ん坊の香りに眩暈を覚える。
彼にとって赤ん坊と言えば、水子の祟りくらいしか思いつかない。一生、人の親になることなどありえない、と思ってきた。それが、産婦人科はあまりに明るく、新しい命の光に魂まで浄化されそうだ。
「赤ちゃんに問題はありませんよ。ただ、お母さんが貧血なうえ栄養が足りてませんね。しかもこの暑さで……。奥様は元々、あまり丈夫じゃないのかしら?」
ちょうど診察してくれた産婦人科医がいて、大したことは無い、と説明してくれた。だが、母体の健康回復に一週間程度の入院を勧められ、太一郎はすぐに了承したのである。
そして医師と共に病室まで行った時、
「奈那子! お前何してるんだ!」
倒れて運ばれたはずの奈那子は起き上がり、ベッドを整えている。
「太一郎さん。申し訳ありませんでした。もう、大丈夫ですから」
「大丈夫なわけがないだろう!? さっさと寝てろっ」
「でも……点滴をして頂いて、気分も良くなりましたから」
青白い顔をして“気分が良くなった”もないものだ。
だが、それを言わせているのは太一郎であった。偉そうに「助けてやる」と言いながら、最低の生活しか与えてやれず。奈那子は、普段通っている商店街で倒れたという。懇意にしている店に、パートでも雇って貰えないかと尋ねて回ったらしい。
そんな二人を見かねて、女性医師が奈那子に声を掛けた。
「無理は禁物ですよ。赤ちゃんに異常がなくても、お母さんが苦しいと、赤ちゃんも苦しいのよ。ご家庭ごとに事情があるのは判りますが……今は元気な赤ちゃんを産むことを考えて。ご主人に甘えちゃいなさい、ね」
奈那子がベッドに戻ると医師は部屋を出て行った。今日は様子を見る為に個室だという。明日の午前中には六人部屋に移ることになっていた。
「太一郎さん、お気持ちは嬉しいです。でも、父のせいで保険が使えないわたしは、一週間も入院したら何十万円も掛かってしまいます」
「お前なぁ、いい加減にしろよ。いざとなったら、俺にだって頼る人間はいる」
「そう仰って、またお仕事を増やそうとなさってるんでしょう? 一日三時間ほどしか眠られてないのに……これ以上は死んでしまいます」
奈那子は体を起こし、太一郎の方に身を乗り出して訴えた。折れそうに細い指を彼の手に重ね……涙が頬を伝い落ちる。
「判って……いるんです。太一郎さまはわたしに同情して下さってるだけだ、って。ご自身もこんなにご苦労なさってるのに……。わたしさえ子供を諦め実家に戻れば、多少のお金は都合して」
「やめろっ! 同情じゃないって言ったろ? なんで、そんな」
「太一郎さまに好きな女性が出来た時は、わたしは家を出ますから。もちろん、子供さえ産まれたらすぐに。このお金もいつか必ず……」
「それ以上言うな!」
無意識だろう、奈那子は「太一郎さま」に戻っていた。太一郎はそんな奈那子のお腹を庇うように、そっと抱き寄せる。
妙なものだが……再会してから四ヶ月も一緒に暮らしながら、彼女に触れたのは初めてだ。それを奈那子が気にしていたことに、太一郎はようやく気付かされた。
「もう、わたしでは太一郎さまのお役に立てませんから」
「役? どういう意味だよ」
「……他の男性と……それに、赤ちゃんまで……。太一郎さまのお心に背いてしまいました。ですから、わたしは」
確か「他の男と寝たら、二度とお前を抱かない」そんなことを言ったような気もする。罠に嵌められたとも知らず、太一郎に会いに来る奈那子が目障りで言った言葉だ。仲間を嗾けて奈那子を襲わせ、「他の男に抱かれた」と難癖を付けて捨ててやろうか、とも考えていた。
そんな太一郎の了見も知らず、奈那子は……だから二度と恋人には戻れないし、妻にもなれないと嘆く。
太一郎は奈那子と少し離れると、頬に張り付いた彼女の髪を払いのけた。そのまま、そうっと唇を重ねる。奈那子とは約一年ぶりのキスだ。こんな穏やかな口づけも悪くない。
その瞬間――太一郎の心を掠めるように、茜の笑顔がチラついた。
茜の告白に、不思議な感覚を覚えたのは事実だ。彼女には借りがある。だがそれ以上に“何か”を茜から感じた。
しかし彼の目の前には、生気のなかった頬がキス一つで桜色に上気し、嬉しそうにはにかむ妻がいる。
太一郎は心の中から茜の存在を打ち消した。
「余計な心配すんじゃねぇ。子供が産まれたら……いくらでも抱いてやるよ」
太一郎の言葉に、奈那子はもっと赤くなる。それを見ていた彼自身も、甘ったるい空気を胸いっぱいに吸い込み、咽せそうだった。
「あらぁ。あたしったら、お邪魔だったかしら?」
スライド扉が開き、きつい香水の匂いと共に耳障りな声が部屋中に響く。女でありながら、これほど産婦人科が似合わない女も珍しい。名村郁美であった。