(1)冷たい手錠
御堂です。
本編の後に連載しておりましたが、長くなりそうなので分けることにしました。
★人物や団体・施設などの名称は、全て架空のものです。実在のものとは一切関係ございません。
小平警察署――玄関脇にある赤色灯の下を通り抜け、二人の人影が警察の駐車場に向かった。雲の切れ間から弦月が顔を出し、彼らの姿を映し出す。
前を歩く男性は三十代半ば、細身のすっきりした容姿で薄茶色のスーツに亜麻色のネクタイを締めている。かなりの長身だろう。そんなスーツ姿の男性より更に長身で横幅もある男が、後ろをとぼとぼと歩いていた。七月半ば、蒸し暑い夜に相応しいランニングシャツを着て、下は擦り切れたジーンズとスニーカー。その対照的な格好から、彼は二十歳前後の学生に見えた。
「悪かったな。大変な時なのに……迷惑かけちまって」
「いえ。休職中ですからね。毎日、暇を持て余しています」
宗は間もなく手放す予定の愛車RX-7のドアを開けながら、冗談めかして答える。
宗行臣、日本最大のコンツェルン藤原グループ社長・藤原卓巳の個人秘書を務めていた。……が、現在はわけあって休職中だ。彼を呼び出すのは気が引けたが、太一郎には他に頼れる人間がいなかった。
「ご自宅まで送りますよ。乗って下さい」
「いいよ、歩いて帰れる距離だから。それより……このこと、出来れば卓巳には報告しないでくれないか」
「……太一郎様」
「卓巳が聞いたらさ、俺ならやりかねないって言うだろうし。それに……」
卓巳は太一郎にとって血の繋がった従兄である。誰が見ても優秀で有能な上に誠実という、完璧な男だ。そう、太一郎とは比べ物にならない。考えれば考えるほど、太一郎は自分が屑に思えてくるのだ。
藤原太一郎、現在は父の旧姓を名乗り、伊勢崎太一郎という。
彼はこの日、初めて――手首に冷たい手錠を嵌められたのだった。
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藤原グループ先代社長を祖父に持つ彼は、物質的に何の不自由もない少年時代を送った。生まれた時から次期後継者と言われ、多くの従業員に傅かれて育つ。母は、一人息子の太一郎が何をしても怒らず、父は怒れない人であった。
祖父・高徳は決して太一郎を愛していたわけではない。気に食わぬ正妻・皐月の産んだ息子に、自身が一代で築き上げた財産を譲りたくなかっただけなのだ。だからこそ『愛人の娘』である太一郎の母・尚子を呼び寄せ、婿養子まで取らせた。生まれた孫を傀儡にして、いつまでも君臨したかったのだろう。
そんな祖父の思惑など知らず、太一郎は後継者となるべく努力した。だが、彼の何処を探しても、日本最大のコンツェルンを率いる能力など欠片も見つからず……。そのことに自覚の芽生えた太一郎は、暴力という単純な反抗手段に出たのである。
こういった反抗は、無意識のうちに大人の関心を惹くことが目的だという。太一郎も同じであった。だが、彼は誰の関心も惹けぬまま――暴力はより弱い者へと向かって行く。成長と共に卑怯な手段も用いるようになり、ついには女性に対して性的暴力を犯すまで堕ちて行った。
藤原の名前を使い、多数の女性を騙しベッドに連れ込んだ。
中には――『愛人の孫』である自分は、『正妻の孫』である卓巳に全てを奪われたのだ、という御託を信じた女性もいた。太一郎に同情し、婚約者には許さなかった身体を彼に投げ出し、妊娠した時にはどうしても産むと言い張ったのだ。だが、女性の父親は代議士で、太一郎の本性を見抜いていた。結局、子供は中絶し、女性は婚約者の元に嫁いだという。
高校時代から昨年まで、太一郎が知るだけで女性に中絶費用を要求されたことは二桁に達する。慰謝料の名目なら、その倍はあるだろう。自堕落に、愚者を絵で描いたような生き方を続けてきた彼に、転機が訪れたのが卓巳の結婚であった。
卓巳の妻・万里子は、たおやかで儚い女性だ。見るからに弱々しく、押さえつければ何でも言いなりに出来ると思った。最終的には、金さえ払えばどんな罪も赦される。そう思っていた太一郎に、万里子は手痛い一撃を与えたのである。
卓巳を愛している。卓巳でなければ嫌だ、と……万里子は何の躊躇もなしに喉を突こうとした。金では買えない“愛”の存在を太一郎に教えてくれたのは万里子だ。そして、太一郎の言葉を最後まで信じ、義理の祖母・皐月との橋渡しまでしてくれたのも彼女であった。
だが、どれほど恋い焦がれても、万里子を手に入れることは出来ない。
以前の彼であれば、得られぬものなら、と壊していたかも知れない。しかし、今の太一郎は万里子の信頼だけは失いたくなかった。たとえ家族としてでも……それは太一郎の人生におけるたった一本の『蜘蛛の糸』だ。
太一郎は藤原の名前を捨て、ゼロからのスタートを決意したが……人生は彼が思うほど、甘いものではなかったのである。
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「結局……俺は変われないのかも知れない」
「無実だと認められたわけですから。そう気にされなくてもよろしいのでは?」
宗の気遣いに、太一郎はゆっくり首を振る。
「捕まった時、本気で違うって言えなかった。“今回は違う”ってだけだ。俺のやって来たことは……手錠を嵌められてもしょうがないことばかりなんだ」
「それでも“今回は”違います。太一郎様、変わろうとして変われないのと、変わろうとしないのは同じことではありませんよ」
そこまで言うと宗は相好を崩した。
「と、いうのは受け売りですが。何方のお言葉かは、言わずともお判りでしょう」
太一郎は答えなかった。だが、心に一つの名前が過る。
今でも、思い浮かべるだけで胸の奥が温かくなる笑顔が、彼の胸の中心を占めていた。
「太一郎様、私はあなたの味方です」
深夜に呼び出したにも関わらず、宗は怒る様子もなく、太一郎の釈放の手続きに尽力してくれた。最後に優しい言葉を太一郎に掛け、新しい仕事はすぐに見つけると約束し、引き上げたのだった。
人生は愛に満ちている。
手を伸ばし、愛しさえすれば……其処彼処に愛は溢れているのだ。
だが、今の太一郎にとって“愛”は太陽のように熱く眩しかった。手に入れるためには、心と体を焼き尽くすほどの犠牲を必要としたのである。