涸れ井戸の契約
夜明け前の空気は、ガラスのように冷たく澄んでいた。東の地平線が微かに白み始め、夜の支配が終わることを告げる。アルケミウスとイムルは、沈黙の中を歩を進めた。目指すは、両勢力の中間地点に指定された、涸れ果てたオアシスの跡地。ザーラ・ベドゥインとの会談の場所だ。
イムルの指先は、知らず知らずのうちにアルケミウスの上着の裾を固く握りしめていた。前話で彼が会談を受け入れた瞬間から、イムルの胸には鉛を飲み込んだような不安が居座る。ザーラという男が、対等な対話など望むはずがない。それは罠だと頭では理解しても、アルケミウスの決断を覆す言葉を見つけられないでいた。
「緊張しているか」
静寂を破ったのは、前を歩くアルケミウスの声だった。表情は見えない。
「……当たり前だろ。あんた、自分が何しようとしてるか分かっているのかい」
掠れた声で返すイムルに、アルケミウスは足を止めて振り返る。その瞳は、夜明け前の薄明かりの中でも変わらず冷静な光を宿した。
「イムル。君の役割は、飲み物を用意する従者ではない」
彼は淡々とした口調に、明確な意志を込めて告げた。
「俺の目と耳だ。俺が見落とす非合理的な何かを、君が見つけろ」
その言葉は、イムルの胸の奥に灯火をともす。単なる同行者ではない。戦力として認められている。この男は、自分の論理が及ばぬ領域を、イムルの直感と観察眼に委ねようとしている。握りしめていた指の力が、わずかに緩んだ。不安が消えたわけではない。だが、恐怖に足をすくわれている場合ではないと、覚悟が決まる。
「……分かった。あんたの背中は、俺が守ってやるよ」
力強く頷く彼を見て、アルケミウスは満足したように再び前を向いた。
涸れたオアシスは、巨大な獣の骸が横たわるように、窪地となって二人を待ち構える。かつて水が満ちていたであろう底の中心に、人影が一つ。ゆったりとした豪奢な衣服をまとった大柄な男、ザーラ・ベドゥインが、腕を組んで佇んでいた。周囲には、蠍の紋章を刻んだ護衛たちが、一定の間隔を置いて立つ。
「来たか、賢者殿」
ザーラの声は、見た目に違わず重く、支配者の響きを持っていた。彼はアルケミウスの姿を認めると、意外にも鷹揚な笑みを浮かべた。
「お前の知恵には感服した。食料の買い占めは我らの負けだ。見事と言う他ない」
賛辞の言葉。だが、その瞳の奥には値踏みする冷たい光が揺らめく。
「……故に、提案がある」ザーラは続けた。「共存共栄だ。お前の生み出す資源と、我らギルドが持つ流通網を組み合わせる。そうすれば、この都はかつてない繁栄を遂げるだろう。民も飢えから解放され、お前は英雄として富と名声を得る。悪い話ではあるまい?」
甘い言葉が投げかけられた。だが、その実態は技術の収奪と、より巧妙な支配体制の構築に他ならない。アルケミウスは表情一つ変えずに応じる。
「非効率的な提案だ。あなたの言う繁栄は、ギルドの利益を最大化する構造の上にしか成り立たない。それは共存ではなく、寄生だ。俺が求めるのは、民が自律的に価値を交換できる、持続可能な経済圏の確立。あなたのモデルでは、いずれ破綻する」
冷静に、論理の刃で甘言を切り刻んでいく。ザーラの眉が、わずかにピクリと動いた。交渉の主導権を渡すまいとする、息詰まる心理戦が始まる。
「理想では民の腹は膨れんぞ、賢者よ」
ザーラは嘲りを込めて言った。
「お前が来るまで、ここの民は明日の水にも怯えていた。その現実を知らぬお前に、何が語れる」
飢えの記憶、渇きの恐怖。民衆の最も原始的な感情を突きつけ、アルケミウスを理想論者だと揺さぶる。その言葉は重く、アルケミウスの論理的思考を極限まで刺激し、彼の意識を交渉の盤上へと深く引き込んでいく。他の情報処理能力が麻痺するほどに。
その間、イムルはザーラの言葉に耳を貸さず、全神経を周囲の観察に集中させていた。アルケミウスに与えられた役割を果たすために。
やがて、彼は気づく。
護衛たちの立ち位置が不自然だ。彼らは窪地の底にいる二人を守るのではなく、外側から何かを囲い込むかのような陣形を取る。足元の砂も普段見慣れぬ色だった。朝日が反射し、鈍い光を放つ。よく見れば、普通の砂ではない。赤茶けた、薄い粉末が撒かれていた。
――あれは、なんだ?
胸騒ぎが警鐘を鳴らす。イムルは必死にアルケミウスへ視線を送る。目で合図を送るも、彼はザーラの言葉の迷路に深く分け入り、その視線に気づく気配はなかった。
「……あなたの提案は、根本的な欠陥を抱えている」
アルケミウスがザーラの論理的矛盾を突き、完全な拒絶の意思を示した。その瞬間だった。
ザーラの表情から笑みが消え、冷酷な支配者の顔に戻る。
「交渉、決裂だな」
彼は嘲笑うと、懐から取り出した火口を、無造作に足元の砂へと投げ捨てた。
次の瞬間、世界が紅蓮に染まる。
イムルが気づいた普段見慣れぬ色の砂――ギルドが事前に撒いていた可燃性の高い鉱物粉末――に火花が触れ、瞬く間に炎の線となって窪地を一周した。轟音と共に、巨大な炎の壁が立ち上る。
退路は、ない。
「武器の帯同は許さぬ、か。この砂漠そのものが、我らの武器だ」
高台から炎の牢獄を見下ろすザーラの声が、熱風に乗って響き渡った。約束は破られていない。ただ、この土地の理を知る者が、知らぬ者を圧倒しただけのこと。この罠のためにギルドがどれほどの労力と物資を費やしたかは計り知れない。
「くっ……!」
アルケミウスは咄嗟にイムルを庇って抱き寄せ、炎から遠ざけた。熱気が肌を焼き、呼吸すらままならない。彼の知る物理法則では、この規模の燃焼はあり得ない。鉱物そのものが異常な熱量で燃えている。不自然な紫色の混じる炎と、鼻をつく金属の焼けるような匂いに、彼は遠い記憶の断片をまさぐっていた。だが、今は思考する猶予がない。
炎に照らされた二人を見下ろし、ザーラは決定的な絶望を告げる。その声は、悪魔の宣告そのものだった。
「賢者よ、お前の知恵は素晴らしい。だが、この砂漠では太陽が法だ。そして、俺がその太陽だ」
彼は勝ち誇って、言葉を継いだ。
「お前が必死に掘り当てた希望の源泉は、今頃、俺の部下たちがただの泥水に変えている頃だろう」
その言葉は、アルケミウスの思考を凍らせた。
別動隊。水源そのものを狙う、もう一つの牙。この大規模な会談と炎の罠すら、時間を稼ぐための陽動に過ぎない。別動隊の派遣はギルドにとって大きな負担を伴うはずだが、ザーラは勝利への執念を見せつけた。彼の視線は、ザーラの背後に広がる、都の方角へと向けられる。民の希望、再建の礎、築き上げてきた全てが、今この瞬間に破壊されている。
知略が、通じなかった。
人間の悪意と、この土地ならではの狡猾さが、彼の論理を、知識を、完膚なきまでに打ち破る。
初めての、完全な敗北。
「あ……」
隣で、イムルの唇からか細い声が漏れた。彼の瞳から光が消え、膝がゆっくりと折れていく。希望が音を立てて崩れ落ちる瞬間だった。
アルケミウスは、力なくその体を支える。燃え盛る炎を見つめる彼の表情からは、怒りも悲しみも読み取れない。ただ、築き上げた全てを失う喪失感が、静かに彼を支配していた。
炎の牢獄の中で、賢者は初めて、絶対的な無力感に焼かれる。
ザーラの哄笑が、炎の爆ぜる音に混じって響き渡った。それは、乾いた大地が雨を求める叫びにも似た、歪んだ歓喜の声だ。
「どうした、賢者様よ。お前のその自慢の頭脳で、この状況をどう覆す? 水の分子構造でも説いて、この炎を説得してみるか?」
嘲りが刃となって、アルケミウスの心を削り取っていく。だが、痛みは感じない。感覚が麻痺していた。これまで、あらゆる問題は知識と論理の前に解き明かされるパズルに過ぎなかったのだ。だが、今対峙しているのは、パズルではない。ただ、圧倒的な暴力と、剥き出しの渇望。それは、いかなる数式でも解くことのできない、不条理そのものだった。
彼の腕の中で、イムルが小さく身じろぎした。
「水が……俺たちの、水が……」
その声は、砂に吸い込まれる最後の一滴のようにか細く、儚い。イムルが見ていた希望は、アルケミウスが与えたものだ。彼が示した未来を信じ、民を説得し、乾いた喉で歌いさえした。その信頼が、今、彼を絶望の底へと突き落としている。アルケミウスは、イムルの震える肩を強く抱きしめることしかできない。謝罪の言葉すら、あまりに空虚で口にできなかった。
「そうだ。お前たちの水だ」
ザーラは満足げに頷き、炎の向こうに揺らめく都の蜃気楼を指さした。
「だが、これからは俺の水だ。俺が与え、俺が奪う。民は、お前のような不確かな知識ではなく、俺の気まぐれという確かな恐怖にひれ伏すだろう。それこそが、この砂漠における真の秩序だ」
彼はアルケミウスに歩み寄る。炎が彼の背後で翼のように広がり、その影がアルケミウスたちを完全に飲み込んだ。熱気が肌を焦がし、呼吸すら苦しくなる。
「お前は、この土地を何も理解していなかった。人々が本当に欲しているのは、潤沢な水ではない。明日も今日と同じように水が手に入るという『保証』だ。その保証を与えられるのは、絶対的な力を持つ支配者だけなのだよ」
ザーラの言葉は、歪んでいるが、恐ろしいほどの真理を突いていた。アルケミウスは、民に自立と繁栄を与えようとした。だが、長い渇きと圧政に喘いできた人々にとって、それはあまりに眩しすぎる理想だったのかもしれない。彼らは、確かな支配者を求めていたのか。たとえそれが、恐怖による支配であったとしても。
自分の理想が、ただの傲慢だったのではないか。この土地の人々の心を、本当の意味で理解しようとしていなかったのではないか。疑念が、絶望という名の毒となって、彼の思考を蝕んでいく。
「さて、賢者よ」
ザーラは、もう興味を失ったとばかりに踵を返した。
「お前には最後の選択肢をやろう。このまま炎の中で灰になるか、あるいは俺の前に膝をつき、犬として生きるかだ。お前の知識は、俺の支配を盤石にするための道具としてなら、多少は役に立つやもしれん」
それは、最大の侮辱だ。彼の知性を、築き上げてきた全てを、ただの道具として値踏みする言葉。だが、アルケミウスの心には、もはや怒りの炎は灯らない。残っていたのは、燃え尽きた後の冷たい灰だけだった。
彼は、腕の中のイムルを見下ろす。その瞳は虚ろで、何も映してはいなかった。この少年の未来を、民の希望を、全てを奪ったのは自分なのだ。ならば、せめて。
「……イムルだけでも」
絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれる。
「イムルだけでも、助けてはもらえないだろうか」
それは、賢者アルケミウスの言葉ではない。ただの一人の男の、無力な懇願だった。
その言葉を聞いたザーラは、心底愉快そうに喉を鳴らす。
「ほう。最後に残ったのが、小僧への情か。滑稽だな。だが、良いだろう。その小僧は連れて行ってやる。俺の慰み物として、たっぷりと可愛がってやろう。お前が与えられなかった『潤い』を、俺がくれてやる」
その下卑た言葉に、アルケミウスの全身から血の気が引いた。虚無に覆われていた心に、初めて黒い亀裂が走る。それは、怒りよりも深く、絶望よりも暗い、殺意という名の感情だった。だが、彼の体は動かない。炎の壁が、ザーラの兵士たちが、何より自分自身の敗北という事実が、彼をその場に縫い付けていた。
ザーラは部下の一人に目配せする。兵士が二人、無遠慮な手つきでイムルをアルケミウスの腕から引き剥がそうとした。
「やめ……」
抵抗しようとしたアルケミウスの腹に、別の兵士が容赦なく柄を叩き込む。呻き声と共に、彼は膝から崩れ落ちた。朦朧とする意識の中、イムルが引きずられていくのが見える。彼は抵抗もせず、魂の抜け殻と化して運ばれていく。その瞳が、最後に一度だけ、アルケミウスを捉えた。そこに宿っていたのは、恨みでも、諦めでもない。ただ、深い、深い悲しみだった。
やがて、ザーラたちは炎の向こう側へと姿を消していく。残されたのは、燃え盛る音と灼熱の空気、大地に一人ひれ伏すアルケミウスだけだった。
彼はゆっくりと顔を上げる。頬を伝う熱い雫が、涙なのか汗なのか、もはや分からなかった。視線の先で、炎は天を焦がすように猛る。それは、彼の傲慢な理想を嘲笑う巨大な篝火そのものだった。
知識は、力を生まなかった。理想は、現実を救えなかった。
賢者は死んだ。今ここにいるのは、全てを失い、ただ無力感に焼かれるだけの、一人の男である。
炎の牢獄に閉じ込められ、希望の源泉への攻撃を知らされたアルケミウス。知略が通じない絶対的な窮地で、彼がイムルを守りながら見出す、次の一手とは。




