信用の天秤と、飢餓の市場
夜明けの冷気が、熱気を帯びた槌音に打ち消されていく。アシャルの都の広場は、昨日までの沈黙が嘘のように、人々の声と労働の音で満たされていた。石工が鑿を振るい、設計図に示された角度で石材を切り出す。農夫たちは乾いた土を鍬で耕し、水路が通る道筋を拓いていく。炉に火を入れた鍛冶師たちが、鈍った道具を打ち直す音が、都の新たな心臓の鼓動に聞こえた。
希望。それは目に見え、肌で感じられるものだった。アルケミウスが描いた羊皮紙の上の線が、現実の形になろうとしている。人々は汗を流し、互いに声を掛け合い、未来をその手で掴み取ろうとしていた。
その活気を最初に切り裂いたのは、市場からの悲鳴だった。
「穀物が……穀物が昨日の三倍に!」
「『砂海の蠍』が、全ての食料を買い占めたんだ!」
報告に駆け込んできた男の言葉は、熱気に満ちた広場に冷水を浴びせかける。ザーラ・ベドゥイン。その名は、物理的な暴力よりも冷徹な、経済という刃を突きつけてきた。水路が完成し、都が潤う未来。しかし、その前に「今日」を生き延びるためのパンが、彼らの手から奪われようとしていた。槌音は次第にまばらになり、人々の顔から血の気が引いていく。希望の天秤は、飢餓という重りの前で、いとも容易く傾き始めた。
結束は砂の城だった。
「どうしてくれるんだ! 水が手に入る前に、俺たちは飢え死にだ!」
「アルケミウスの計画なんて、しょせん絵に描いた餅だったんだ!」
昨日まで未来を語り合っていた男が、今日は鍬を投げ捨てて叫ぶ。恐怖は理性を麻痺させ、疑心暗鬼という毒を瞬く間に蔓延させた。一部の者たちは作業場を離れ、値上がりした穀物を求めてギルドの商人に頭を下げに走り始める。かつての奴隷の首輪を、自ら嵌めにいく姿だった。
「待ってくれ! みんなで力を合わせれば!」
イムルが必死に声を張り上げるが、その声は飢えへの恐怖にかき消される。理屈じゃ腹は膨れない。彼女の言葉は、乾いた砂に染み込む水のように、何の痕跡も残さなかった。イムルの唇が震える。昨日、水源を見つけた時の喜びが、今は遠い夢のようだ。また、何も守れないのか。無力感が、再び彼女の心を蝕んでいく。
アルケミウスは、その光景をただ静かに見ていた。彼の設計図に、人心の揺らぎという変数は書き込まれていなかった。システムは完璧なはずだった。だが、システムを動かす人間が、恐怖という最も非合理的な感情で動くことを、彼は軽視していた。自身の論理の脆さを突きつけられ、苦々しく唇を噛む。故国で、権力者たちに「民の心など理解できぬ理想論者め」と嘲られた日の記憶が、脳裏をよぎった。
共同体が内側から崩壊していく。その時だった。
「……もうごめんだ」
かき消されそうな、しかし芯のある声だった。視線が集まる先には、煤に汚れた若い鍛冶師が立っていた。彼は、これまで事態を静観していた数人の仲間と共に、アルケミウスの前に進み出る。
「飢えるのはもうごめんだ。だがな、ギルドの奴隷に戻るのも、もうごめんなんだよ!」
男は固く握った拳を震わせる。その目には、絶望ではなく、怒りと覚悟の炎が宿っていた。
「あんたのやり方で、俺たちの手で未来を作れるなら……教えてくれ、賢者様。このガラクタから希望を作る方法を!」
それは懇願だった。奇跡を待つのではなく、自らの手で未来を鍛え上げるための、知恵を求める声。アルケミウスにとって、予想外の言葉だった。彼は、民衆を動かすのは完成されたシステムだと信じていた。だが、目の前の男は、システムそのものではなく、それを作り出す『知識』を求めている。アルケミウスの瞳の奥に、忘れかけていた光が灯る。
「…なるほど」
アルケミウスは短く応じると、懐から羊皮紙の切れ端を取り出した。ザーラの経済攻撃に対する本質的な解決策は一つ。ギルドの市場に依存しない、食料の自給自足体制の確立。
「イムル。この砂漠で、人が口にできる植物、虫、根、全てを教えろ」
「えっ? あ、ああ……カラカラサボテンとか、砂トカゲの干物とか……」
突然名を呼ばれ戸惑うイムルに構わず、アルケミウスの持つ炭ペンが驚異的な速度で紙の上を滑り始める。イムルが挙げる砂漠の民の知恵。ガラクタ通りで手に入れた廃材の知識。そして、熱効率を上げる黒い鉱石の特性。それらが、アルケミウスの頭脳の中で結合し、新たな『法則』を形作っていく。
「これは、栄養圧縮装置。熱と圧力で、あらゆる有機物から水分を飛ばし、栄養素だけを凝縮・殺菌し、保存食を生成する」
それは、この都の絶望から希望を錬成する設計図だった。
夜が、戦場になった。
鍛冶場の炉が赤々と燃え盛り、アルケミウスと志願した若者たちの影を壁に揺らす。カン、カン、とリズミカルな槌音が響き、設計図の上の線が、少しずつ立体的な形を成していく。周囲では、多くの民が疑いと不安の入り混じった視線で見守っていた。中には「賢者様は都の食料を独占するつもりだ」という、ザーラが流したであろうデマを信じ、作業を罵る者さえいた。
「燃料が…! あとわずかだ!」
若者の一人が叫ぶ。計画が頓挫しかけるその時、「これを使って!」とイムルが駆け込んできた。彼女が村の子供たちと集めてきた、乾燥しきった砂漠の植物の束だった。それらは炉にくべられ、再び勢いよく炎を上げた。知恵と、知恵を支える行動。歯車が、確かに噛み合った。
そして、東の空が白み始める頃。
不格好だが、確かな存在感を放つ機械が、広場の中央に鎮座した。
夜明け前の静寂が、広場を支配していた。飢えと疲労で力なく座り込む民衆の前に、完成したばかりの栄養圧縮装置が佇んでいる。アルケミウスが装置の弁を開くと、若者たちがイムルに教わったサボテンや乾燥虫を次々と投入していく。消費されていく食料の元手に、民衆の間に不安がよぎる。
アルケミウスが歯車を回すと、装置は低い唸りを上げて振動を始めた。内部で黒い鉱石が熱を帯び、圧力がかかっていく。やがて、排出口から白い湯気が立ち上り、乾いた土の匂いと、わずかに甘い香りが辺りに漂った。
誰もが固唾を飲んで、その一点を見つめている。
時間だけが、やけにゆっくりと流れた。
その瞬間。
排出口から、緑がかったペースト状の塊が、ゆっくりと、しかし確実に押し出されてきた。
広場に、一瞬の完全な沈黙が落ちる。誰もが目の前の光景を信じられない。ただ、立ち上る湯気を見つめている。それは、この砂漠の絶望を凝縮し、錬成した希望の塊だった。
沈黙を破ったのは、一人の子供だった。おそるおそるそれに近づき、指ですくって口に入れる。
そして、大きく目を見開いた。
「…おいしい!」
その一言が、狼煙だった。
堰を切ったように、歓声が広場を埋め尽くす。人々は泣きながら抱き合い、不格好な機械と、それを生み出した若者たちの名を叫んだ。それはザーラの経済支配からの、ささやかだが決定的な、独立宣言だった。
喧騒が遠くに聞こえる。アルケミウスは広場の隅で、壁に寄りかかりながら装置の改良点を思考していた。深い疲労が全身を支配しているが、頭脳だけは休むことを知らない。
そこに、イムルが小さな器を持ってやってきた。中には、出来立ての栄養食が入っている。
「…食えよ。あんたが一番働いたんだから」
ぶっきらぼうな口調だが、その声は温かかった。アルケミウスは無言でそれを受け取り、一口だけ口に運ぶ。青臭いが、滋味深い味がした。
「…君の知識がなければ、論理は破綻していた」
アルケミウスは、視線を装置に向けたまま、静かに言った。
「借り、だな」
イムルは一瞬きょとんとし、それから、ふっと笑みをこぼした。それは、ただの協力者という関係を超えた、確かな信頼の音がした。
束の間の勝利と安堵が、都を優しく包み込んでいた。
その空気を切り裂くように、一人の男が広場に入ってきた。男の衣服には、誰もが見知った紋章が刻まれている。『砂海の蠍』。
民衆が警戒に身を固める中、男は敵意を見せることなく真っ直ぐにアルケミウスの前まで進むと、深々と頭を下げた。その指先が、微かに震えているのをアルケミウスは見逃さない。
男は恭しく、上質な羊皮紙を差し出した。
「我が主、ザーラ・ベドゥインより、賢者殿へ。一対一での会談を願いたい、とのことにございます」
力での破壊が、経済での締め付けが通じぬと悟った砂漠の支配者。彼が次に仕掛けるのは、どのような罠か。あるいは、別の何かか。
アルケミウスの手に、新たな戦いの招待状が委ねられた。この危険な誘いを、受けるか、否か。選択の時が、再び訪れる。
広場の空気は、一瞬にしてガラスのように張り詰めた。先程までの歓声と安堵は熱を失い、冷たい沈黙が人々の口を縫い合わせる。誰もが固唾を飲んで、賢者の次の一言を待っていた。視線が、針のようにアルケミウスに突き刺さる。期待、不安、そして恐怖。それらがない交ぜになった民衆の感情が、重力となって彼の肩にのしかかるようだった。
アルケミウスはすぐには羊皮紙を受け取らなかった。彼の目は、目の前の使者の、その細部に注がれていた。震える指先。乾いた唇。額に滲む汗。それは恐怖か、それとも極度の緊張か。あるいは、主君の威光を背負う重圧か。使者の瞳の奥には、敵意よりもむしろ、使命を果たさんとする必死の色が浮かんでいるように見えた。
「ザーラ卿が、対話を」
アルケミウスの声は、静寂の中で奇妙なほどはっきりと響いた。
「力こそが砂漠の法と嘯き、この都を幾度となく蹂躙しようとした男が、なぜ今になって言葉を求める」
問いかけは使者に向けられているようで、その実、彼自身の内なる論理への確認でもあった。
使者は顔を伏せたまま、絞り出すように答えた。
「我が主は……賢者殿の『力』を、お認めになられたのです。破壊ではなく、創造の力を。武力にて屈せぬものを、武力で御することの無意味さを……悟られたのです。ゆえに、言葉を交わすに値する、と」
「値する、か」
アルケミウスは小さく反芻した。傲岸不遜な砂漠の王らしい物言いだ。だが、その言葉の裏には、これまでの手段では目的を達せられないという、紛れもない敗北の自認が透けて見える。これは、弱者の足掻きか、それとも王者の矜持を賭した次なる一手か。
隣で、イムルが小さく息を飲む気配がした。彼女の視線が、アルケミウスの横顔に注がれているのを感じる。その瞳には、明確な警告の色が宿っていた。危険です、と声なき声が聞こえるようだ。彼女の懸念は正しい。これは、あまりにも見え透いた罠である可能性が高い。一対一の会談などという、古風な儀式めいた誘い。それは、賢者を孤立させ、その頭脳を物理的に排除するための、最も単純で効果的な策かもしれなかった。
それでも、とアルケミウスは思う。この膠着した状況を動かすには、時にリスクを冒さねばならない。計算し尽くされた盤上の上だけで戦いが決するのなら、とうにこの都は砂に埋もれている。予測不能な変数、人間の感情という不確定要素。それらを受け入れ、利用してこそ、完全な論理は完成する。
アルケミウスは、ようやく手を伸ばし、使者から羊皮紙を受け取った。指先に触れた紙の質感は、乾いているがしなやかで、上質な物だとわかる。微かに香る墨と、砂漠の乾燥した花の香り。封を解くと、力強い、しかし僅かに乱れのある筆跡が目に飛び込んできた。日時と、場所。そして、「双方、武器の帯同は許さぬ」という一文。
場所は、両勢力の中間地点に位置する、涸れ果てたオアシスの跡地。遮蔽物のない、開けた土地だ。待ち伏せには向かないが、それはこちらも同じこと。互いを丸裸にするような舞台設定。ザーラは、己の覚悟を示しているつもりなのかもしれない。
「罠の匂いしかしません」
イムルが、アルケミウスにしか聞こえない声で囁いた。
「彼らはこれまで、約束を反故にすることなど何とも思わなかった。信じるに値しません」
「ああ、承知している」
アルケミウスは羊皮紙から目を離さずに答えた。
「だが、イムル。彼らが『対話』というテーブルを用意したこと、その事実自体に意味がある。それは、我々の力が、彼らの想定を超えたという証明だ。この機を逃せば、次は純粋な暴力の応酬に戻るだけかもしれん。そして、その消耗戦に、この都がいつまで耐えられるか…」
その言葉は、冷徹な真実だった。イムルは唇を噛み、反論の言葉を飲み込んだ。彼女もまた、この都の脆さを誰よりも理解している。
アルケミウスは民衆を見渡した。彼らの顔には、不安と懇願が浮かんでいる。賢者様に危険な真似はさせられない、という無言の訴えが満ちていた。その視線を一身に受け止め、彼は再び使者に向き直った。
「よかろう」
決然とした声が、広場に響き渡る。
「その誘い、受けようと」
どよめきが、波のように広がった。使者は驚きに目を見開き、そして次の瞬間には深い安堵の息を漏らして、再び頭を下げた。
「賢者殿、ご英断に感謝いたします…!」
「ただし」
アルケミウスは、その言葉を遮った。冷ややかな光を宿した瞳が、使者を射抜く。
「条件がある。ザーラ卿に伝えよ。会談の席には、もう一人だけ同席を願う、と。飲み物を用意するだけの、無力な従者をな」




