法則の逆手、砂漠の狩場
夜明け前の空気は、刃の冷たさで澄んでいた。広場に集まったアシャルの民の顔には疲労が刻まれ、土気色に沈む。昨日のザーラ・ベドゥインの恫喝が、重い鎖となり彼らの首にかかっていた。その静寂を、アルケミウスの淡々とした声が切り裂く。
「ザーラは我々が『約束の地』で疲弊するのを待っている。奴は商人だ。無駄な闘争で兵を損耗させるより、我々が自滅するのを待つ方が効率が良いと考えている。それが奴の言う経済合理性というやつだ」
彼は広げた羊皮紙の地図を指し示す。地図の情報は意図的に古くされ、最も重要な場所が不自然な空白になっている。これこそがザーラの仕掛けた罠だ。その指先が示すのは、ザーラが権利書を渡した価値のない鉱山ではない。その空白の、約束された土地だ。
「…故に、我々は狩られる獲物ではない。狩る側になる」
その言葉が、凍てついた人々の心に火種を投じる。俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。絶望に濁っていた瞳の奥に、微かな光が灯り始める。イムルは隣に立つアルケミウスの横顔を見上げた。彼の言葉は希望だ。だが、昨日までの絶望がまだ胸の底に澱のように溜まる。彼女は唇を強く噛みしめていた。
作戦は、夜明けの薄闇と共に始まった。
長老が率いる一団は、ありったけの荷物を積み、わざと騒がしく、価値のない鉱山へと向かう。陽動だ。都のどこかで見張る「砂海の蠍」の目に、自分たちの愚かな行動を焼き付けるための芝居。彼らの姿が砂の向こうに消えるのを見届けると、アルケミウスは振り返る。
「行くぞ」
本隊は、アルケミウスとイムル、それに志願した数名の若い鍛冶師たちだけだった。水と食料は、この少数精鋭の部隊に集中されている。これこそが、彼の言う「効率性」の体現。一行は都の影から影へと音もなく進み、夜の砂漠へと溶け込んでいく。
真の目的地、『約束の地』への道は過酷を極めた。昼は灼熱の太陽が体力を奪い、夜は骨身に染みる冷気が思考を鈍らせる。陽が傾き始めた午後、空が不吉な黄色に染まった。
「まずい、砂嵐だ!」
イムルの叫び声が、唸りを上げ始めた風にかき消されそうになる。砂粒が礫となって肌を打ち、瞬く間に視界が奪われた。アルケミウスは布で口元を覆うが、眉をひそめる。計算外の事態。この環境は、彼の知識の及ぶ範囲を超えていた。一瞬、彼の足がもつれる。体力が、思考よりも先に限界を告げようとする。
その腕を、イムルが力強く掴んだ。
「こっちだ! あの岩陰まで走れ!」
砂漠で生まれ育った彼女の声には、迷いがなかった。アルケミウスは無言で頷き、彼女の指示に従う。一行は身を寄せ合い、巨大な岩の陰に滑り込む。世界を覆い尽くす砂の咆哮から身を守った。
岩陰の狭い空間で、嵐が過ぎ去るのを待つ。轟音のせいで、互いの声もろくに届かない。アルケミウスは消耗した体に鞭打ち、水筒を取り出すと、何も言わずにイムルに差し出した。彼女は一瞬驚いた顔をしたが、黙って受け取る。一口だけ飲むと、彼に返す。言葉はなかった。しかし、その無言のやり取りが、これまでのどんな会話よりも確かな信頼を二人の中に生み出した。
風の唸りが遠のき、静寂が戻る。イムルがぽつりと呟いた。
「…あんたの言う『法則』ってやつは、本当にあたしたちを救ってくれるのかい…?」
それは、この砂漠で生きる者が抱く、根源的な問いだった。希望を抱いては裏切られ続けてきた民の心の叫び。前話で芽生えた絶望の残滓が、彼女にそう言わせる。
「法則は救わない」
アルケミウスは静かに答える。
「利用する者に応えるだけだ」
彼の目は、揺るぎない真理を見つめていた。イムルはそれ以上何も言わず、疲労に目を閉じる。やがて聞こえてくる穏やかな寝息を聞きながら、アルケミウスは設計図の余白に、無意識に指を走らせていた。そこに記されたのは、彼女の弟の名。
『ハキム』
彼はすぐにその文字を指で擦って消した。その不器用な仕草が、彼の戦いが単なる論理の証明ではないことを示唆していた。
『約束の地』は、岩がちの荒涼とした土地だった。ザーラが狙っていたであろう、きらびやかな鉱脈の兆候は見当たらない。だが、アルケミウスは鉱石には目もくれず、地質図と星の位置を照合し、一点を指し示した。
「ここを掘る」
鍛冶師たちが、半信半疑ながらもツルハシを振り下ろす。硬い岩盤を打つ乾いた音が、荒野に響き渡った。どれほどの時間が経っただろうか。皆が疲労の色を濃くしたその時。
カキン、と甲高い音が響き、ツルハシの先が岩に深い亀裂を入れる。
次の瞬間。
シュー、という微かな音と共に、裂け目から空気が噴き出した。それは乾いた砂漠の風ではなかった。明らかに周囲とは違う、湿り気を帯びた涼やかな風。
その風が、呆然と立ち尽くすイムルの頬を、優しく撫でた。
彼女は、はっと息をのむ。震える手を、ゆっくりと裂け目に差し伸べる。指先に触れる、生命の気配。乾ききったこの大地の下に、水が眠る。その紛れもない証拠だった。イムルの大きな瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝った。ザーラが価値を見出した『富』の真上で、アルケミウスは『生命』そのものを掘り当てたのだ。噴き出す風に、ごく微かに金属が錆びたような匂いが混じることに、今はまだ誰も気づかない。
歓喜も束の間、遠くから地響きが聞こえてくる。ザーラの追手だ。陽動が看破されたのだ。
だが、アルケミウスの表情は変わらない。
「ザーラは富を狩りに来た。我々は、生存そのものを狩る。…狩場のルールが違う」
彼がそう呟くと同時、追手の進行方向で、いくつもの閃光と甲高い金属音が炸裂した。道中で拾い集めていた、圧力をかけると電気を発生させる水晶と金属片で作った簡易的な警報装置だ。闇雲に突っ込んできたザーラの部隊は混乱に陥り、その動きを著しく鈍らせる。
アルケミウスたちはその隙に追撃を振り切り、夜の闇に紛れて帰路についた。撤退していく部隊の中から、ザーラは約束の地の方角を睨みつける。彼は理解した。あの男が掘り当てたのは、鉱石などという矮小なものではない。この砂漠の全てを支配する、水の源泉そのものであると。
「小賢しい虫けらが…水源だと?」
彼の口元に、冷酷な笑みが浮かんだ。
「よかろう、その喉が潤う前に、根ごと枯らしてくれるわ」
脅威は去らなかった。より明確な殺意を持って、次の段階へと移行した。
村に戻ると、水源発見の報は瞬く間に広がり、人々は熱狂に包まれる。乾いた大地に希望の雨が降った。その歓声の中心で、アルケミウスは一枚の新たな設計図を広げた。
「これは始まりに過ぎない」
彼の言葉に、人々は静まり返る。
「ザーラは必ずこの水源を奪いに来る。我々は水路を引くのではない。この都に、信用という名の血流を築く」
皆の視線が、設計図へと注がれる。そこに描かれていたのは、単なる給水路ではなかった。都の隅々までを網羅する複雑な水路網と、その流れを管理し、価値を分配するための、全く新しい経済システムの青写真。砂漠の民が初めて目にする、知恵によって築かれる未来の姿が、そこにはあった。
「この線を見てくれ」
アルケミウスの指が、羊皮紙の上を滑る。その指先が示すのは、村の中心から放射状に伸びる幾筋もの細い線だった。
「これは水路だ。だが、ただ水を運ぶだけの管ではない。我々の労働と貢献を測る、物差しでもある」
ざわめきが広がる。彼の言葉の意味を、誰もすぐには理解できなかった。
「各家、各工房へ水を供給する水路の末端には、水量を計測する装置を設置する。水時計の原理を応用したものだ。各自が受け取る水の量は、この都への貢献度によって定められる」
「貢献度、だと…?」
集団の中から、年老いた長老の一人がかすれた声で問いかけた。彼の顔には、長年砂漠の掟に従ってきた者特有の、深い疑念が刻まれている。
「そうだ。畑を耕す者、家畜を育てる者、壁を修理する石工、武器を鍛える鍛冶師、この水路を建設し、維持する者。全ての労働に価値が与えられ、その対価として水が分配される。水はもはや、強者が独占する力ではない。我々一人一人が、自らの手で生み出す『信用』の結晶となるのだ」
アルケミウスの声は、熱を帯びる。それは単なる理想論ではなかった。彼がかつて失った故郷で、不完全ながらも芽生え始めていたシステムの残滓であり、この乾いた大地で完成させようとする執念の表れだった。
「ザーラのような略奪者に、力で対抗するには限界がある。我々には兵も、強固な城壁もない。だが、このシステムが完成すれば、我々の都は砂漠のどのオアシスよりも価値ある場所となる。交易の拠点となり、人が集い、富が生まれる。そうなれば、我々はザーラに対抗するための傭兵を雇うことも、より強固な防壁を築くことも可能になる。力ではなく、知恵と信用で我々の未来を守るのだ」
しかし、希望の言葉は、同時に人々の心に潜む不安を刺激した。
「そんな仕組み、本当に作れるのか?」
「水が公平に分配されるなど、信じられん」
「ザーラの軍勢が明日にも攻めてきたら、絵に描いた餅ではないか」
口々に上がる不安の声は、次第に大きな渦となり広がり始める。長年、力ある者の気まぐれと、容赦ない自然の厳しさに翻弄されてきた彼らにとって、アルケミウスが語る未来はあまりに精巧で、それゆえに脆く感じられた。
アルケミウスは、その不安の渦を真正面から受け止めた。彼は設計図から顔を上げ、一人一人の顔を見渡すように視線を動かす。彼の瞳には、非難の色も、焦りの色もなかった。ただ、深い共感と、揺るぎない意志が宿る。
「君たちの不安はもっともだ。私も怖い。この計画が失敗すれば、我々は全てを失うだろう。だが、何もしなければどうなる? ザーラの支配を受け入れ、奴隷のように水を乞い、いつ殺されるか分からない恐怖の中で生き続けるだけだ。私は、そんな未来を甘んじて受け入れることはできない」
彼は一呼吸置き、言葉を続けた。
「この設計図は、私一人の空想ではない。ここにいる皆の知恵と力があって初めて、現実のものとなる。石工よ、お前たちの技術があれば、水路の基盤を築けるはずだ。鍛冶師よ、お前たちの腕なら、水量を測る精密な歯車も作れるだろう。農夫たちよ、安定した水があれば、この不毛の地を緑豊かな畑に変えることができる。これは、私一人の戦いではない。我々全員が、自らの尊厳を取り戻すための戦いなのだ」
彼の言葉は、人々の心に突き刺さる。それは、単なる扇動ではなかった。それぞれの仕事に誇りを持つ者たちへの、全幅の信頼を示す言葉だったからだ。
沈黙が広がる。人々の視線は、もはやアルケミウス個人ではなく、隣に立つ仲間へと向けられていた。石工は鍛冶師の顔を、鍛冶師は農夫の顔を、誰もが、これまでただの隣人でしかなかった者たちの顔に、未来を共に築く同志の姿を見出そうとする。
その沈黙を破ったのは、腕利きの石工として知られる、岩を思わせる体躯の男だった。彼は一歩前に出ると、アルケミウスを真っ直ぐに見据える。
「あんたの言う『しんよう』とやらは、俺には難しすぎてよく分からん。だがな」
男はごつい指で、設計図に描かれた水路の石組みの部分をトン、と叩いた。
「この石壁の組み方なら分かる。これは理に適っている。水圧を分散させ、砂の侵食にも耐える、見事な設計だ。これだけの知恵を持つ男が、俺たちを騙すとは思えねえ。俺の鑿と槌は、あんたに貸そう」
その一言が、堰を切った。
「俺の炉の火も、あんたのために使ってくれ!」
「俺たちの鍬もだ! この手で緑を育ててみせる!」
若い者たちから次々と声が上がる。それは熱狂でありながら、どこか冷静な覚悟に満ちた声だった。彼らはもはや、奇跡を待つだけの無力な民ではなかった。自らの手で未来を切り拓く、建設者としての顔つきに変わっていた。
やがて、集会は静かに解散し、人々は明日からの作業に備えてそれぞれの家へと戻っていった。夜の闇が村を包む中、アルケミウスは一人、広げられたままの設計図の前に佇む。人々の歓声と誓いの熱が去った広場には、砂漠の夜特有の冷たい静寂が満ちていた。
彼は、震える指で羊皮紙をそっと撫でる。人々の前では決して見せなかった、深い疲労と孤独がその横顔に影を落とす。
(始まったばかりだ…)
心の中で呟く。ザーラの脅威、未曾有の大事業、何よりも人々の希望という重荷。その全てが、彼の双肩にのしかかる。だが、彼の瞳の奥で燃える炎は、消えるどころか、むしろその重圧を燃料として、より一層強く輝きを増していた。
彼は空を見上げた。満天の星が、砂の海の煌めきが、地上を見下ろす。あの星々のように、数多の困難が待ち受けるだろう。だが、この地に最初の水路が敷かれ、最初の『信用』が生まれた時、この都は砂漠の夜空に輝く、決して消えることのない新たな星座となる。
アルケミウスは設計図を丁寧に巻き取ると、決意を新たにし、夜の闇へと歩き出した。本当の戦いは、今、始まったばかりだった。




