一滴の価値、砂漠の天秤
夜明け前の空気は、刃の冷たさだ。巨大な樽が落とす影は、広場に横たわる絶望そのものだった。イムルはその影の縁に立ち、夜の間にわずかしか溜まらなかった水面を、色のない瞳で見つめている。アシャルに来てまだ二日。昨日、アルケミウスが描いた壮大な設計図に抱いた希望は、乾いた砂に吸い込まれ消えていた。
「…時間がない」
絞り出した声は、砂漠の風にかき消されそうだった。日没まで、というザーラの無理難題が、死刑宣告となって頭の中で反響する。
背後で、アルケミウスが動く気配がした。彼はイムルの絶望に気づいているのかいないのか、淡々とした足取りで蒸留装置に近づく。その手には、昨日ガラクタの中から密かに選び出した、熱を吸収・保持しやすい性質を持つ黒い鉱石が数個握られていた。鈍い光を吸い込む、夜の欠片のような石だ。
「問題は量ではない。…質だ」
アルケミウスは告げると、装置の心臓部である熱交換器の蓋を開け、その黒い鉱石を慎重に組み込んでいく。その手際に迷いは一切ない。イムルは彼の真意を測りかねたまま、ただその動きを見つめる。この男の論理は、いつも俺の感情のずっと先を行く。信じたい。でも、この空っぽの樽が現実だ。その思考の振り子が、彼女の中で激しく揺れていた。
やがて、朝日が地平線を割り、その最初の光が蒸留装置の集熱板を照らし出す。アルケミウスが鉱石を組み込んだ箇所から、空気が陽炎となって揺らめき始めた。昨日とは明らかに違う熱の集まり方だった。
ぽつり。
澄んだ音が響き、純水の出口から一滴の水が落ちる。また一滴。その間隔は昨日よりも明らかに短く、やがて途切れることのない細い糸となって流れ始めた。
「すごい…」
誰かが呟いた。いつの間にか、噂を聞きつけたのだろう、都の住民たちが遠巻きに集まり、固唾をのんでその光景を見守っていた。彼らの乾いた目に、わずかな希望の光が宿る。
だが、その希望を打ち砕くべく、土埃を立てて一団の男たちが広場に乗り込んできた。ギルドの紋章である蠍を衣服に刻んだ、ザーラの部下たちだ。
「おい、てめえら。何をごちゃごちゃとやっている」
リーダー格の男が、下卑た笑みを浮かべて言い放つ。
「頭首のご命令だ。資材の不正利用がないか、確認させてもらう」
その言葉が嘘であることは誰の目にも明らかだった。彼らの目的は、事故に見せかけた装置の破壊。住民たちの間に走った緊張が、肌を刺す。男の一人が、装置の繊細なパイプに手を伸ばした。
その瞬間。
「待ちな!」
イムルの声が、張り詰めた空気を切り裂いた。彼女はアルケミウスの前に、住民たちの前に、たった一人で立ちはだかる。恐怖で膝が震えるのを、奥歯を噛みしめて堪えた。
「これは私たちの明日だ!あんたたちの好きにはさせない!」
その叫びは、もはや彼女一人のものではなかった。傍観者だった住民たちの心を、確かに揺り動かした。最初に動いたのは、アルケミウスの技術を熱心に見つめていた若い鍛冶師だった。彼は無言でイムルの隣に並ぶ。それを皮切りに、一人、また一人と、人々が壁となり立ち上がった。武器はない。ただ、無言で、しかし断固として道を塞ぐ。
ギルドの男たちは、予想外の抵抗にたじろいだ。暴力で排除することは容易い。だが、これだけの住民を相手にすれば、必ずザーラの耳に入る。それは彼らも望むところではなかった。
「…チッ、覚えてやがれ」
リーダー格の男は悪態をつくと、部下を連れて引き上げていった。広場には、安堵のため息と、生まれたばかりの微かな連帯感が満ちていた。
だが、安堵も束の間、西の空が赤く染まり始める。日没が近い。住民たちの視線が、まだ半分も満たされていない樽へと集まり、再び絶望の影が広がり始めた。
その時、砂を踏みしめる重い足音が響いた。全ての視線がそちらへ向かう。豪奢な衣装をまとった都の支配者、ザーラ・ベドゥインが、悠然と姿を現した。
「…約束も守れん男か」
ザーラは空の樽を顎でしゃくり、嘲笑を浮かべる。その絶対的な権力者の前で、生まれたばかりの連帯感など脆くも崩れ去り、住民たちはただうなだれるしかなかった。誰もが、敗北を確信していた。
イムルの唇が震える。ここまでだったのか。
だが、アルケミウスだけは動じていなかった。彼はザーラへと歩み寄り、一つの杯に満たした澄んだ水を差し出した。
「取引の品だ」
「ほう?これがか?樽を満たすと言ったはずだが」
「この水はただの水ではない」
アルケミウスはそう言うと、懐から乾ききった薬草の束を取り出す。この砂漠ではどこにでもある、薬効の低い雑草だ。彼はその一葉をちぎり、杯の水に浸した。
次の瞬間、広場にいた全員が息を呑んだ。
通常ならば、時間をかけて煮出さなければ色の出ない薬草が、水に触れただけで、鮮やかな翠色のエキスを放ち始めたのだ。それは、枯れた植物に生命が吹き込まれるかのような、圧倒的な光景だった。この水の『純度』が、溶媒として驚異的な性能を発揮した物理的な証明だった。それは、この水が単なる飲み水に留まらず、薬の精製や、あるいは失われた精密機械の冷却水といった、計り知れない価値を秘めていることの証明でもあった。
「樽は満たしていない。だが、この一滴は、病人を救う薬百人分の価値を持つ。樽一杯の、お前たちが売る泥水と、どちらが価値がある?」
アルケミウスの静かな問いが、ザーラの顔から嘲笑を消し去った。彼の顔に浮かんだのは、驚愕と、屈辱に染まった激しい怒り。だが、その奥で商人としての冷徹な目が、目の前の「商品」の価値を瞬時に計算していた。物理的な『量』での勝負を、絶対的な『質』という新たな価値基準で覆されたのだ。
長い、息の詰まる沈黙が落ちる。やがてザーラは、歪んだ笑みを浮かべた。
「…面白い。実に面白い男だ、貴様は」
彼は吐き捨て、懐から丸められた羊皮紙を取り出し、アルケミウスの足元に投げつけた。
「契約は履行された。持って行け。だが、次はないと思え」
ザーラが背を向け、砂塵の向こうに消えていく。その姿が見えなくなると、住民たちから堰を切った歓声が上がった。イムルは膝の力が抜け、その場に座り込みそうになるのを、隣にいた老婆に支えられた。勝ったのだ。あのザーラに。
だが、アルケミウスはその歓喜の輪に加わろうとはしなかった。彼は拾い上げた羊皮紙の地図を広げ、その表面を指でなぞる。
「アルケミウス…?」
イムルが彼の表情の硬さに気づき、声をかける。アルケミウスは顔を上げず、地図の一点を指差した。そこは、鉱脈を示す記号がいくつも描かれているはずの山脈地帯で、不自然なほど広大な空白が広がっていた。
「本当の戦いはこれからだ」
彼の冷静な一言が、勝利の熱狂に浮かれていたイムルの心を冷ます。渡された勝利の証は、次なる知略戦の始まりを告げる、巧妙に仕掛けられた罠だった。
空白地帯。そこは、本来であればこの地方で最も豊かな鉱脈が眠るはずの「約束の地」だった。古文書にも、かつての繁栄を支えた伝説の鉱山があったと記されている場所だ。ザーラがその情報を知らないはずがない。知っていて、敢えてこの部分だけを白紙にしたのだ。
「どういうことだ…? 鉱脈がない、というだけではないのか?」
イムルの声は、不安にかすかに震えていた。歓喜の声を上げる村人たちの輪が、別世界の出来事めいて遠く感じられる。
「逆だ」アルケミウスは低い声で断言した。「ここ以外の鉱脈は、おそらくすべて掘り尽くされたか、質の悪い残り滓だ。ザーラは我々に、価値のない土地の権利書を渡す代わりに、最も価値のある場所の情報を独占した。その上で…」
彼は言葉を切り、鋭い視線でイムルを見据えた。
「我々がこの地図の欺瞞に気づかず、記された場所で無駄な採掘を始め、疲弊しきったところを叩くつもりだったのだろう。だが、俺が彼の予想より早く罠を見抜いた。そうなれば、次の手は一つしかない」
「次の手…?」
「この空白地帯に我々を誘い込み、一網打尽にする。ザーラの言った『次はない』という言葉は、脅しではない。宣言だ」
ぞくり、とイムルの背筋に冷たいものが走った。ザーラの歪んだ笑みが脳裏に蘇る。あの男は、決して敗北を認めたわけではなかったのだ。最初から、この盤面で二手、三手先を読んでいた。アルケミウスという不確定要素が現れたことで、その計画をわずかに修正したに過ぎない。
「アルケミウス様! イムル!」
ようやく異変に気づいた村の長老が、数人の男たちを連れて駆け寄ってきた。その顔には、勝利を祝う晴れやかな表情が浮かんでいる。
「どうなされた? 何か問題でも?」
「…長老」イムルは言葉に詰まる。手に入れたはずの希望が、今や絶望の入り口に変わってしまったことを、どう伝えればいいのか。
代わって口を開いたのはアルケミウスだった。彼は地図を長老に示し、先ほどイムルにした説明を、より簡潔に、それでいて誰にでも理解できるように繰り返した。
「ザーラは我々に餌を与えた。我々がそれに食いつき、力を使い果たしたところを狩るために。だが、我々はまだその餌に食いついていない。今ならまだ、反撃の好機がある」
アルケミウスの言葉を聞き、長老たちの顔から血の気が引いていく。歓声はいつの間にか止み、村人たちが不安げな表情で遠巻きにこちらを見ている。一瞬にして広がった沈黙が、砂漠の風の音を際立たせた。
「そ、そんな…では、我々の勝利は偽りだったと…?」
一人の若い男が、震える声で呟いた。その言葉は、皆の心に重くのしかかる。希望の頂から突き落とされたような衝撃に、誰もが打ちひしがれていた。
「偽りではない」
落ち着いていたが、芯の通った声が響いた。アルケミウスだ。
「我々はザーラから、彼が最も重要視する土地の『在処』を示す地図を手に入れた。彼自身の手で、だ。これは紛れもない勝利の戦果だ。ただ、その戦果の使い方が、我々の予想とは少し違っていたというだけの話」
彼は顔を上げ、集まった村人たちの目を見渡した。その瞳には、揺るぎない自信と、冷徹なまでの理性が宿っていた。
「ザーラは我々を罠にかけたつもりだろう。ならば、その罠を逆手に取り、我々が彼を狩るための猟場として使えばいい」
その言葉は、絶望の淵にいた人々の心に、新たな火を灯した。恐怖が消えたわけではない。だが、アルケミウスという男がいる限り、まだ道は閉ざされていない。その確信が、彼らの顔に再び意志の光を呼び戻した。
「俺たちは…どうすればいい?」
イムルが代表するように尋ねた。彼の瞳には、もはや迷いはなかった。
「まず、この地図を徹底的に分析する。空白地帯の地形、周囲の環境、利用可能な資源。俺の知識と、この土地で生まれ育ったあんたたちの経験を総動員すれば、ザーラが描いているであろう戦術の輪郭が見えてくるはずだ」
アルケミウスは地図の空白部分を指で叩く。
「次に、偵察を出す。ザーラの軍がどこに潜み、どう動こうとしているのか。決して深入りはするな。敵の動きを知ることだけが目的だ。何より重要なのは…」
彼は一度言葉を切り、夕陽に染まり始めた砂漠の地平線を見つめた。
「この村の結束だ。ザーラは我々が内側から崩れることを望んでいる。疑心暗鬼に駆られ、互いを信じられなくなることを。だが、我々が鉄の意志で団結する限り、彼に付け入る隙はない」
その言葉は、誓いそのものとして響いた。村人たちは顔を見合わせ、強く頷き合う。イムルは拳を固く握りしめた。そうだ、戦いはまだ終わっていない。始まったばかりなのだ。ザーラが仕掛けた知略の戦いを、今度は自分たちが仕掛け返す番だった。
アルケミウスは黙って羊皮紙を丸めると、それを懐にしまった。彼の横顔を照らす夕陽が、その影を長く大地に伸ばしている。その姿は、これから始まる過酷な戦いを導く、孤独な司令官を思わせた。




