法則の設計図と、最初の賭け
ザーラ・ベドゥインの重い足音が遠ざかり、日干し煉瓦の家に息苦しい静寂が戻る。乾いた風が、開け放たれた戸口から砂埃を運び込む。その風に乗って、去っていった男の圧倒的な存在感の残滓が、室内の空気をまだ支配している。
「あんたは…!」
沈黙を破ったのは、アルケミウスの背後で拳を握りしめていたイムルの、震える声だった。
「あの男に魂を売ったのかよ!? あんな奴の道具になるつもりか!」
怒りと、それ以上に深い不安がその声に滲んでいる。家族を救ってくれたこの男が、都を支配する絶対的な権力に呑み込まれていく。その光景が、彼女には耐え難かった。
アルケミウスはゆっくりと振り返る。その表情に変化はない。ただ、イムルの燃えるような瞳を見返すだけだ。
「魂に値段がつくなら、もっと高く売る」
淡々とした声が、イムルの激情を切り裂く。
「これは取引だ。支配されるのではなく、利用するためのな」
「利用する…? あのザーラをかよ!? 無茶だ! あの男は蠍だ、毒針でじわじわとあんたを弱らせて、最後には骨までしゃぶり尽くすに決まってる!」
イムルの言葉は、この都で生きる者の実感だった。誰もがザーラの支配を覆せない現実として受け入れている。その現実を、目の前の男は「取引」という無機質な言葉で片付けようとしている。その断絶が、彼女を苛立たせた。
アルケミウスはわずかに目を伏せる。
「…不確実な未来を憂うのは、非効率だ。彼は私の能力の本質を理解していない。そこに、交渉の余地が生まれる」
「交渉の余地なんか…!」
言い募ろうとするイムルを、アルケミウスは視線で制した。彼の瞳の奥には、感情とは異なる、冷徹な計算の光が揺らめいている。それは、イムルがまだ理解できない、法則と論理の世界の光だった。
翌朝。陽が昇りきる前の、砂漠が青白い光に包まれる時間。ザーラの部下である男たちが、約束通りに姿を現した。昨日と同じ、威圧的な空気をまとった男たちだ。そのリーダー格が、家の前に無造作に置かれた巨大な空の樽を、顎でしゃくってみせる。
「頭首からだ。明日の日没までに、この樽を満たせ。手始めの忠誠の証、だそうだ」
大樽。それは、裕福な商人の家でさえ、数週間はかけて使う水の量だ。それを、わずか一日半で。
イムルの顔から血の気が引いていく。唇が乾き、言葉が出てこない。これは要求ではない。不可能を突きつけることによる、絶対的な支配の宣言だ。アルケミウスの能力が、ザーラの言う「無限に湧き出る泉」ではないことを、彼らは試している。
男たちが嘲るような笑みを残して去った後、イムルは崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
「どうすんだよ…こんなの、絶対に無理だ…」
絶望が、絞り出すような声になる。
だが、アルケミウスは巨大な樽を一瞥しただけで、表情を変えなかった。彼はゆっくりとしゃがみこむと、樽の材質を指で弾き、その音を聞き、容量を計算している。
「…なるほど。効率的な値踏みだ」
その呟きは、絶望とは程遠い、興味深い問題を前にした学者のそれだった。
彼は立ち上がると、イムルに向き直る。
「絶望は非効率だ。計算しろ、イムル。我々に足りないものは何か。それをどう補うか。それだけが問われている」
足りないもの。それは明白だった。既存の蒸留器では、この量を生成するには一月あっても足りない。スケールアップが必要だが、そのための材料も、作業を行う広い場所も、この家にはない。
「案内を頼む。この都で、最も多くのガラクタが集まる場所へ」
アルケミウスの言葉に、イムルははっと顔を上げた。彼が言っているのは、都の外れにある市場、通称「ガラクタ通り」のことだ。以前、彼が最初の装置の部品を拾い集めた場所よりも、さらに大規模で雑多な、都の吹き溜まり。
二人は熱気を増してきた砂の道を歩き出す。ガラクタ通りは、その名の通り、壊れた道具、錆びた金属、用途の分からない機械の残骸が山と積まれた場所だった。その山々の間を縫うように、人々が力なく行き交っている。彼らの目は虚ろで、活気というものがない。ここにあるのは、使えるものを一つでも安く手に入れようとする、生存のための渇望だけだ。良質な金属や部品を扱う数少ない店は、いずれも「砂海の蠍」の紋章を掲げ、ギルドの男たちが睨みを利かせている。物資の独占。それが、この都の経済を歪ませる根源だった。
「だめだ…。まともな金属板は、全部ギルドが押さえている。値段も吹っかけてきてるし、これじゃあ…」
いくつかの店を回り、イムルは肩を落とす。ギルドの妨害は、予想以上に徹底していた。アルケミウスが何かを作ろうとしていることを察し、先回りして材料を買い占めているのかもしれない。計画は、開始と同時に頓挫した。
その時、アルケミウスの視線が、通りの隅で唸り声を上げている老人の姿に留まった。老いた鍛冶師が、壊れた井戸の揚水ポンプと格闘している。錆びついた歯車が噛み合わず、彼の力ではテコが動かないのだ。周囲の人間は、見て見ぬふりをしている。
アルケミウスは、途方に暮れるイムルをその場に残し、鍛冶師へと歩み寄った。彼はしばらくその作業を観察すると、やおら地面に一本の線を引いた。
「支点をここに。この腕の長さを三倍に延長し、ここに滑車を一つ追加すれば、必要な力は九分の一になる」
簡潔な説明。それは魔法の詠唱ではない。物理法則の、ただの応用。
鍛冶師は訝しげにアルケミウスを見上げたが、地面に描かれた単純かつ合理的な図面に目を落とし、その眉がぴくりと動いた。
アルケミウスは続ける。
「対価を求める。あなたの仕事場にある、用途のない金属廃材。それを、可能な限り譲ってほしい」
金ではない。貨幣でもない。価値の交換。
老鍛冶師は、アルケミウスの顔と地面の図面を交互に見比べ、やがて深い皺の刻まれた口元に、乾いた笑みを浮かべた。
「…あんた、面白いことを考える。金貨より、よっぽど価値がある取引だ」
取引は成立した。イムルは、その光景を呆然と見つめていた。力でも金でもなく、ただの「知識」が、山のような金属廃材に変わる瞬間を。荷車に廃材を積み込む際、アルケミウスの指が、鈍い光を放つ黒い石ころのような鉱石にいくつか触れた。熱を吸収し、長く保持する性質を持つそれは、他のガラクタとは明らかに異質だった。彼は誰にも気づかれぬよう、そのうちの数個を掌に握り、革袋の奥深くへと滑り込ませた。彼女の中で、アルケミウスという男の輪郭が、また少し、変わろうとしていた。
荷車に積まれた金属廃材を運びながら、アルケミウスは思考の海に沈んでいた。ザーラとの契約。水と引き換えに得る『情報』。何を求めるべきか。
彼の脳裏に、故国アルベインの光景が蘇る。追放された理由。彼は、王国の魔法技術が抱える致命的な欠陥を指摘したのだ。魔力をエネルギーに変換する際の、避けられない損失。『魔力変換効率の低下』。無限に見える魔力も、その実、非効率な消費を続ければいずれ枯渇する。その法則を、魔法という奇跡に目が眩んだ者たちは認めようとしなかった。不都合な真実を告げた賢者は、国を揺るがす罪人として追放された。
彼の戦いは、単なる復讐ではない。非効率で旧態依然とした価値観そのものとの闘争なのだ。ザーラが支配するこの都もまた、同じ病に罹っている。ならば、彼が最初に求めるべき情報は――。
思考は、そこで中断された。今は、目の前の課題に集中すべきだ。
陽が傾き、砂漠の空をオレンジ色に染め上げる頃、二人は都の外れにある広場にいた。アルケミウスは荷車から降ろした廃材の量と質を検分し、その配置を計算する。彼は一本の金属棒を手に取ると、硬く乾いた地面に、巨大な設計図を描き始めた。
最初は、ただの直線と円の羅列にしか見えなかった。線は法則に則って結ばれ、互いに関係を持ち始める。熱を集める反射鏡の角度。蒸気を効率よく導く管の配置。冷却効率を最大化するための、複雑な蛇管の構造。それは、アルケミウスの頭の中にだけ存在する、物理法則の集合体だった。
砂埃を立てながら、緻密で合理的な構造物が、夕陽に照らされた大地に出現していく。
イムルは、その光景を息を呑んで見つめていた。言葉を失い、ただ圧倒されていた。
彼女は直感する。
これは、ガラクタの寄せ集めの計画図などではない。
この乾ききった砂漠に、ザーラの支配に喘ぐ人々に、そして自分自身に、『明日』を創り出すための設計図なのだ、と。
やがて、アルケミウスは最後の一本を引き終え、立ち上がった。夕陽を背に立つ彼の影が、巨大な設計図の上に長く伸びる。彼は完成した図面を、その向こうに沈みゆく太陽を、しばらく無言で見つめていた。
風の音だけが、広場を吹き抜けていく。
「装置の骨子はできた」
静寂を破り、アルケミウスが口を開いた。彼の視線は、設計図の心臓部へと注がれている。
「だが、これだけの水を蒸留するには、決定的に『熱源』の効率が足りない」
彼の言葉は、燃え上がった希望の炎に、冷水を浴びせるかのようだった。イムルは思わず息を詰め、アルケミウスの横顔を見上げた。そこに焦りの色はない。ただ、冷徹な事実を述べる科学者のような、静かな光だけが宿っていた。
「効率が…足りない? こんなにデカくて、複雑な仕組みなのにか?」
か細い声が、風に混じって震える。信じられない、という思いが先に立った。あれだけの緻密な計算と、壮大な構想。それが、たった一つの要素の欠如によって、機能不全に陥るというのか。心臓を持たない巨人を見せられたような、途方もない空虚さが胸に広がった。
「規模と効率は必ずしも比例しない」アルケミウスは設計図から目を離さずに答えた。「太陽は偉大な熱源だが、我々がこの地上で受け取れる恩恵は、その膨大なエネルギーのほんの一欠片に過ぎん。反射鏡で光を集め、熱に変換しても、そこには物理的な限界がある。この装置で集落の人間すべてを渇きから救うには、現状の倍以上の熱量が必要になるだろう」
それは絶望的な宣告に聞こえた。倍以上。つまり、この巨大な設計図をもう一つ、隣に描かなければならないということか。資材も、土地も、何より、ザーラの目を掻い潜って建設する時間もない。イムルの肩が、小さく落ちた。やはり、夢だったのだろうか。乾いた砂に描かれた、儚い幻。夜が来て、風が吹けば、跡形もなく消えてしまう、そんな蜃気楼のような。
「だが、限界を超えるための道はいくつかある」
アルケミウスは続けた。彼の声には、先ほどまでの淡々とした響きとは違う、確かな意志が込められていた。彼はゆっくりとイムルの方へ向き直る。夕陽の最後の光が、彼の灰色の瞳の奥を射抜いて、一瞬、琥珀色に輝かせた。
「一つは、単純に反射鏡の面積を今の四倍にすること。だが、それは現実的ではない。資材もさることながら、これ以上目立つ代物を作れば、ザーラの斥候に発見されるのは時間の問題だ」
彼は一度言葉を切り、再び設計図の中心、熱交換器が複雑に絡み合う心臓部へと視線を戻した。
「もう一つの道は、熱そのものの『質』を変えることだ。より少ないエネルギーで、より多くの水を沸騰させる。物理法則の軛を、別の法則で捻じ曲げる。…それこそが、錬金術の領域だ」
錬金術。その言葉が、イムルの中で不思議な重みを持って響いた。それは、街の語り部が口にするような、鉛を金に変えるといったお伽噺の世界の言葉だった。だが、目の前の男が語ると、それは数学の公式のように、厳然たる事実として聞こえる。
「熱を増幅させる触媒がある」アルケミウスは告げた。「ごく少量で、水が熱を吸収する効率を飛躍的に高める物質。古の錬金術師たちが、『太陽の涙』と呼んだ鉱石だ。それを熱交換器の核に組み込むことができれば、この設計は完成する」
「太陽の…涙…」
イムルは、その詩的な響きを小さく繰り返した。乾ききったこの世界に、あまりにも不釣り合いな、美しくも悲しい名前だった。
「どこにあるんだ? その石は」
希望の光が、再び彼女の瞳に宿る。どんなに困難でも、道があるのなら。
「…分からん」アルケミウスは率直に答えた。「故国の文献で存在は確認したが、この砂漠のどこに産出するかまでは記されていなかった。だが、鉱石である以上、鉱脈のある場所に眠っている可能性が高い」
彼の視線は、西の空に連なる黒い山脈のシルエットへと向けられる。
「ザーラとの契約で得る『情報』…その中に、この砂漠の鉱山地図が含まれているはずだ。それこそが、俺が最初に求めるべき知識だ」
イムルは息を呑んだ。ザーラとの取引の意味が、ここで初めて具体的な形となって繋がった。水を渡す見返りに、計画を完成させるための最後のピースを手に入れる。それは危険な賭けだった。
「…もし、その地図に無かったら?」
イムルの問いに、彼は答えなかった。ただ、沈みゆく太陽の最後の残光が消え、世界が紫色の帳に包まれていくのを、じっと見つめているだけだった。彼の横顔に浮かぶのは、決意とも、あるいは遠い過去を懐かしむような諦念ともつかない、複雑な色合いだった。
やがて、一番星が空に瞬き始める。風が強くなり、設計図の細い線が、少しずつ砂に掻き消されていく。
「このままでは、全て消える」アルケミウスが呟いた。「まずは、この図面を写し取らねばならん。お前にも手伝ってもらうぞ、イムル」
彼は背負っていた革袋から、丸められた羊皮紙の束と、数本の木炭を取り出した。どちらも先ほどの鍛冶師が、知識への敬意として廃材と共に譲ってくれたものだ。イムルはこくりと頷き、彼の隣に膝をついた。眼前に広がる、宇宙の星図にも似た壮大な設計図。それを、この小さな羊皮紙に永遠に刻み込む。それは、明日を創るための、最初の、そして最も重要な仕事に思えた。




