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一文無しの賢者と、砂漠の沈む国  作者: おぷっち


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4/12

価値の証明、そして最初の敵

日干し煉瓦の家の中、淀んだ熱気と死の匂いが満ちる。アルケミウスは革袋の口をわずかに傾け、透明な液体を一滴、また一滴と、衰弱した少年の乾ききった唇へと落とす。イムルの弟、ハキムだ。彼の胸はかろうじて上下していたが、生きているというよりも、死へと向かう過程が緩やかになっただけに見える。


「……頼む……どうか……」


隣で、イムルが祈るように両手を固く握りしめている。その指の関節は白く、爪が掌に食い込むほどだ。彼女の視線は、弟の顔と、感情の読めない男の横顔とを、絶え間なく往復させていた。焦燥と、かすかな希望が彼女の中でせめぎ合う。それは、まるで砂嵐に削り取られる岩肌のように、彼女の精神を少しずつ摩耗させているのだ。


アルケミウスは、そんなイムルの葛藤には一切構わない。ただ自らの作業に集中している。彼の目はハキムの首筋に触れ、脈拍の微弱な変化を読み取る。浅い呼吸の間隔を数え、光に反応しない瞳孔を冷静に観察する。

これは治療ではない。彼の内心は常に分析的だ。これは、極度の脱水による『可逆的ダメージからの回復プロセス』の検証に過ぎない。細胞に水分が再供給された際の生理的反応のデータ収集。彼にとって、目の前の命は一つの事象だった。


その頃、都の支配者の巣では、新たな事象が報告されていた。

商人ギルド「砂海の蠍」のアジトは、香辛料と高級な酒の香りにかき消されぬ、拭い去れない血の匂いが染みつく。分厚い絨毯を踏みしめ、下っ端の男が豪奢な長椅子に座る人物に頭を垂れる。


「……以上です、ザーラ様」


報告を受けた男、ザーラ・ベドゥインは、指先で自身の顎をなぞった。爬虫類を思わせる冷たい瞳が、報告者の男を射抜く。


「ほう。この都に現れてまだ二日で、か。砂から水を作る狂人、ねぇ」

「はっ。ですが……」


報告者は言葉をためらった。ザーラの不興を買うことを恐れている。その顔には、隠しきれない畏怖の表情が浮かぶ。


「何だ、言え」

「はっ……現場の者が申しておりました。『あの目……ただの狂人じゃねえ』と。それが妙に引っかかりまして……」


「あの目……ただの狂人じゃねえ」、か。その言葉に、ザーラの唇の端が初めて微かに吊り上がった。彼は単純な暴力や、ありふれた反抗には飽きていた。部下が直感した『異質さ』は、彼の退屈をわずかに刺激する。

この都の秩序は、渇きという絶対的な恐怖によって成り立っている。それを揺るがす者は、これまで力で、あるいは経済的な締め付けで、例外なく排除されてきた。今回の報告は種類が異なる。

市場の法則を無視した価値の創造。それは、この砂漠の経済圏の根幹を揺るがしかねない『知的な脅威』の萌芽。


「力で潰すのはいつでもできる。それでは芸がない」


ザーラは音もなく立ち上がる。


「その男、俺が直々に値踏みしてやる。潰すか、飼うか……面白い玩具か、それとも即座に砕くべき害虫か……見極めてやろう」


彼の決断に、周囲の空気が緊張で張り詰める。頭首が自ら動く。それは、ギルドにとって最上級の警戒態勢を意味していた。


陽が傾き、部屋に差し込む光が赤みを帯びてきた頃、アルケミウスの手が止まる。革袋が、くたりと軽くなった。


「……もう、これだけしか……」


イムルの声が震えている。弟の容態は、ほんのわずかに上向いた気もするが、それは希望的観測の域を出ない。母親に至っては、まったく変化が見られない。

この水は、本当に家族を救えるのだろうか? その答えが見えないまま、限られた水は尽きようとしていた。


「ここまで、なのか……?」


絶望が、再び少女の心を黒く塗りつぶそうとした。その時だ。


「日中の熱交換だけが全てではない」


アルケミウスが淡々と告げた。彼は家の外へ出ると、打ち捨てられたガラクタの山から、錆びた金属板や古びた毛布を黙々と選び出し始める。


「何してるんだい?」


いぶかしむイムルに、彼は金属板の角度を調整しながら応えた。


「夜には夜の法則がある。砂漠の夜は冷える。この温度差を利用する。……効率は落ちるが、ゼロではない」


放射冷却。地表の熱が宇宙空間へ逃げることで、空気中の水蒸気が結露する現象。彼はその物理法則を利用し、夜の闇からも水滴を絞り出そうとしていた。

イムルにはその理屈は分からない。だが、彼の行動が、諦めていないことの証明であることだけは理解できた。その揺るぎない姿に、彼女は消えかけた希望の火種をかき集める。


夜が来た。

満天の星が、砕いた宝石を撒いたかのように瞬いている。アルケミウスは家の外で、自作の集水装置の調整に没頭する。冷たい夜気が、彼の肌を刺す。


その時だった。


「――あ!」


家の中から聞こえたのは、悲鳴とも驚きともつかないイムルの声だ。アルケミウスの思考がコンマ数秒、停止する。最悪の事態――ハキムの死が、彼の脳裏をよぎった。

彼は即座に家の中へ踏み込む。

そこに広がっていたのは、死の静寂ではなかった。イムルが、弟の寝床の横に立ち尽くし、わなわなと震えている。

彼女の視線の先。

藁の寝床の上で、ハキムの瞼が、かすかに震え、やがて持ち上がる。

長い間、光を失っていた虚ろな瞳に、今、確かな意思の光が灯る。乾いた唇がわずかに動き、音にならない空気が漏れた。そして。


「……ねぇ…ちゃん……」


その、あまりにもか細く、しかし明確な呼び声が部屋に響いた。

次の瞬間、イムルの瞳から大粒の涙が堰を切ったように溢れ出す。


「ハキムッ……! ハキムッ!」


嗚咽と共に弟の名を呼び、その痩せた体に泣きながらすがりつく。生きていた。助かった。その事実が、彼女の感情の堤防を完全に破壊した。

一しきり泣いた後、彼女はアルケミウスの方を振り返る。もはや言葉もなく、ただ何度も、何度も、乾いた土の床に額をこすりつけた。感謝を伝える術を、彼女はそれしか知らなかったのだ。

アルケミウスは、その光景をただ無表情に見つめる。


「礼は不要だ。契約は履行した。これは論理的な帰結に過ぎない」


彼は冷たく言い放った。

イムルとハキムには見えない家の隅の暗がりで、彼は壁に片手をつき、一度だけ深く、張り詰めていた緊張を解き放つような安堵の息を吐き出した。最初の実証実験は、成功した。その人間的な弱さを、星空だけが見ていた。


翌朝、家の雰囲気は一変していた。

ハキムはまだ衰弱していたが、薄い粥をスプーンで口に運べるまでに回復している。母親の呼吸も、昨日までより深く、穏やかになった。

イムルは、アルケミウスの前にまっすぐに立つ。彼女の目には、もう昨日までの疑念や不安の色は欠片もない。あるのは、嵐の後の晴れ間のような、澄み切った覚悟だ。


「……分かった。あんたの言う『新しい尺度』ってやつ、俺、信じてみるよ」


彼女は力強く宣言した。


「あんたの知恵に、俺たちの未来を賭けてみる」


それは、単なる協力者ではない。運命共同体としての、魂の契約。

アルケミウスは彼女の目をじっと見返し、短く応じた。


「合理的な判断だ」


その時だった。

家の外がにわかに騒がしくなる。複数の足音が、土埃を立てながら近づいてくる。

イムルが警戒して戸口に身を構えた。アルケミウスも立ち上がり、音のする方へ視線を向ける。

現れたのは、ギルドの男たち。先日とは明らかに空気が違う。その中心に立つ一人の男が、場の全てを支配していた。

ザーラ・ベドゥイン本人だった。

彼は威圧するでもなく、むしろ品定めでもする目で、好奇心に満ちた笑みを浮かべている。イムルが前に出て「何の用だい!」と吠えるが、ザーラは意にも介さず、その視線はアルケミウスだけに注がれていた。

ザーラは静かに歩みを進める。

アルケミウスは動かない。ただ、迫り来る砂漠の王者を観察していた。

ザーラはアルケミウスの目の前で立ち止まると、挑戦的な光を瞳に宿して言った。


「お前のその水、面白い。俺と取引しないか?」


暴力でも、追放でもない。予期せぬ『取引』の提案。

その言葉を聞いた瞬間、アルケミウスの常に冷静だった瞳が、初めて鋭く細められた。

イムルが息を呑む音が、やけに大きく響く。ザーラ・ベドゥインの目は、ただ目の前の錬金術師だけを捉えていた。その瞳は、希少な鉱脈を見出した探鉱者のごとく、ギラギラとした輝きを隠そうともしない。


アルケミウスは細められた瞳の奥で、目の前の男を分析していた。

ザーラ・ベドゥイン。この砂漠の法そのもの。力で全てを支配し、気に入らなければ砂の塵に変えることも厭わない男。その男が、なぜ『取引』という言葉を選んだのか。

奪う方が、遥かに容易く、彼の流儀にも合っているはずだ。

沈黙は、乾いた風の音だけが埋める。やがて、アルケミウスが口を開いた。彼の声は、熱せられた砂の上を滑る風のように、感情の温度を感じさせない。


「取引の内容を聞こう」

「話が早いな」


ザーラは満足げに口の端を吊り上げた。彼は一歩下がり、アルケミウスと、その背後にある家全体を見渡し、腕を組む。


「簡単なことだ。お前のその『水』を、俺のギルドが独占する。お前は俺の管理下で、ただ水を錬成し続ければいい。そうすれば、この砂漠での安全と、お前が望むだけの富を保証してやろう。この家も、この家族も、俺の名の下に安泰だ」


それは、あまりにも傲慢で、それでいて抗いがたい魅力を持つ提案だった。

安全と富。この過酷な土地で誰もが渇望するもの。それを、この男はこともなげに与えられると言う。その言葉の裏には、巧妙に隠された鎖の存在があった。

『管理下で』。その一言が全てを物語っている。

それは取引ではない。飼育だ。金の卵を産む鳥を、金の鳥籠で飼うという宣言に他ならない。


「断ると言ったら?」


アルケミウスの問いに、ザーラの笑みが深くなる。そんな答えを待っていた、という顔だ。


「賢い男は、そんな愚かな選択はしない。万が一、お前がその『万が一』の男だったとしても、やることは変わらんさ。力ずくでお前を捕らえ、水が出るまで拷問にかけるだけだ。結果は同じ。ただ、お前が少しばかり痛い思いをするというだけのこと」


脅迫だった。その声には不思議と怒気が含まれていない。ただ、当然の事実を述べているだけ、という響きがある。彼は、どちらに転んでも自分が損をしないことを確信しているのだ。


「アルケミウス!」


たまらずイムルが叫んだ。その声は震えている。


「こいつの言うことなんて聞いちゃだめだ! あんたは道具じゃない!」


彼女たちが望んでいるのは、アルケミウスの自由だ。たとえそれが、明日をも知れぬ過酷な日々に戻ることを意味したとしても、だ。

アルケミウスは、背後のイムルに視線を送らない。ただ、ザーラを真っ直ぐに見据えたまま、思考を巡らせる。

この男は、俺の能力の本質を理解していない。

俺が錬成するのは、ただの水ではない。等価交換の原則に基づき、何かを対価として生み出される奇跡の滴。そのプロセスを無視して、無限に湧き出る泉とでも考えているのだろう。

そして、その無理解こそが、交渉の余地を生む。

アルケミウスは一度、息を吐いた。


「あんたの言う『富』には興味がない。安全の保証というのも、あんた自身が最大の脅威である以上、意味をなさない言葉だ」

「ほう?」


ザーラの眉が面白そうに片方だけ上がる。ギルドの男たちが、主を侮辱されたと色めき立つが、ザーラが軽く手を上げるだけで、彼らはぴたりと動きを止めた。


「では、お前は何が欲しい? 金でもなく、安全でもない。ならば、一体何が?」

「情報だ」


アルケミウスは即答する。


「俺はこの土地の人間ではない。知りたいことがある。あんたはこの砂漠の全てを握っている。ギルドの持つ情報網は、砂漠の砂の数よりも多いだろう。俺が求める情報を、あんたが提供する。それが条件だ」


予想外の答えだった。ザーラは初めて、好奇心以外の表情を見せる。それは、値踏みする、鋭く探る視線だった。


「情報、か。面白い。どんな情報だ? それによってはお前の水より高くつくかもしれんぞ」

「それは、取引が成立してから話すことだ」


アルケミウスは一歩も引かない。

ここで主導権を渡してはならない。彼は本能的に悟っていた。この男は、対等な交渉相手として認めない限り、どこまでも他者を食い物にする。力では敵わない。ならば、思考と駆け引きで、対等な地平に立たねばならない。


しばしの沈黙が、両者の間に横たわった。

ザーラはアルケミウスの瞳の奥を覗き込み、じっと見つめる。そこに恐怖や媚びの色がないか、その色を確かめている。

やがて、彼は喉の奥でくつくつと笑い声を立てた。それは次第に大きくなり、空気を震わせるほどの哄笑となる。


「ククク……ハハハハハ! 気に入った! お前、実に面白い男だ! よかろう、その取引、乗ってやる!」


ザーラは笑いながら、アルケミウスの肩を乱暴に、しかしどこか親しみを込めて叩いた。


「お前は俺に水を。俺はお前に、この砂漠の全ての知識を与えよう。契約成立だ」


その言葉は、新たな檻の扉が開いた音なのか。それとも、未知への道が拓かれた音なのか。

アルケミウスには、まだ判断がつかない。ただ、彼の足元で、乾いた砂がざわりと音を立てた。この地に根を張ることを、砂自身が承諾した。そんな気配がある。

砂漠の王との、奇妙な契約が始まった瞬間だった。

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