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一文無しの賢者と、砂漠の沈む国  作者: おぷっち


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価値の天秤と、最初の投資

乾いた風が、日干し煉瓦の壁に挟まれた路地を吹き抜ける。市場の喧騒は壁一枚を隔てて遠い。アルケミウスの背を追いながら、イムルはまだ高鳴る心臓を抑えきれずにいた。あの男が都に現れてから、まだ二日しか経っていない。たった二日で、一体どれほどの騒ぎを起こすつもりなのだろう。興奮と、それと同じくらいの量の困惑が胸中で渦を巻いている。


「なあ、あんた! 一体どういうつもりなんだい!」


たまらず叫ぶと、前を歩く男の足が止まった。振り返ったアルケミウスの表情に変化はない。井戸の底を覗き込むような、静かな瞳がイムルを見つめる。


「さっきの水だよ! あんなに綺麗な水、金貨一枚どころじゃない価値があったはずだ! それをどうして……地面なんかにぶちまけたんだ!」

「既存の市場で売れば、価値は既存の尺度でしか測れない」


アルケミウスは淡々と答える。その声には何の感情も乗っていなかった。


「我々が創るのは、水そのものではない。その価値を測る、新しい尺度だ」

「尺度……?」イムルは困惑した。

「そうだ。あの行為は『広告』だ」


アルケミウスは続けた。彼の言葉は、イムルがこれまで生きてきた砂漠の常識とはあまりにかけ離れている。


「都の民は見た。金貨では決して手に入らない、純粋な水が存在するという事実を。それが無償で地面に吸い込まれていく光景を。価値とは希少性と需要によって決定される。俺は今、この都に存在しなかった『品質』という希少性を提示し、同時に『渇望』という名の圧倒的な需要を掘り起こした」


イムルの理解は追いつかない。だが、アルケミウスの言葉を反芻するたび、彼の行動の裏に巨大で精密な設計図が隠されている予感がする。狂人の行いではない。その深淵を覗き込もうとした、その瞬間だった。


路地の入り口と出口を、影が塞いだ。


熱風と共に、男たちの不快な笑い声が響く。三人。いずれも日に焼け、柄の悪い装飾品を身につけている。腰の曲刀の柄には、蠍の紋様が刻まれていた。商人ギルド「砂海の蠍」。この都の、そして水の利権を独占する支配者である。


「よう、見かけねえ顔だな。俺たちのシマで随分と派手な見世物をやってくれたじゃねえか」


リーダー格の男が、下卑た笑みを浮かべて一歩前に出る。「おいおい、ギルドに逆らってどうなるか、知らねえわけじゃねえだろうな。俺たちの頭首、ザーラ様は容赦しねえぜ」男の言葉に、イムルの身体が恐怖で硬直した。ザーラの名前は、ただの脅し文句ではなかった。都の生命線を握る、絶対的な支配者の影が、路地の奥から伸びてくるように感じられた。夜泣く子供を黙らせるだけでなく、この都の生命線を握る絶対的な存在として畏怖されているのだ。


「そのガラクタ、こっちに渡しな。てめえはこの都から出ていけ。命があるだけありがたいと思えよ」


男たちがじりじりと距離を詰める。アルケミウスは一切動じない。彼はただ男たちを見据え、予測不能な言葉を口にした。


「あなた方を敵だとは思っていない。むしろ、未来のビジネスパートナーだと考えている」


男たちの動きが一瞬止まる。予想外の返答に、思考が追いついていない様子だ。


「…あぁ?」

「あなた方が売る濁った水と、私が作る純粋な水。この二つが存在することで、初めてこの都に『品質』という新しい価値が生まれる。人々はより良いものを求める。結果、市場は活性化し、あなた方の利益も増大する。故に、これは敵対ではない。共存だ」


アルケミウスの論理的な説明に、男たちは顔を見合わせ、やがて腹を抱えて笑い出した。


「詭弁を弄するな、よそ者が!」


リーダー格の男が吼え、腰の曲刀に手をかける。空気が張り詰め、暴力の匂いが満ちた。イムルは思わず息を呑んだ。


その瞬間、アルケミウスがゆっくりと右腕を上げた。降参の合図ではない。彼が指し示したのは、路地の向こうに見える、崩れかけた家々が密集する一角だった。市場で水をぶちまけた後、彼は人々の喧騒の中から、意図的に特定の情報を拾い上げていた。病人の噂、薬の値段、そして最も困窮した者たちが住まう地区の名を。


「先ほど市場にいた老婆。孫の病を嘆いていたな。彼女の家も、あの一帯のはずだ」


男たちは訝しげにその方向を見る。


「彼女の孫が、あなた方の水で死ねば、ギルドの『信用』は失墜する。だが、私の水で助かれば、人々は『命を救う水』の価値を知る」


アルケミウスの声の温度が、絶対零度まで下がった。


「死は価値を下げ、生は価値を創る。どちらがあなた方にとって有益か、考える時間を与えよう」


それは脅しではない。ただ、冷徹な事実の提示だ。市場の原理と生命の天秤を重ね合わせ、選択を突きつける、異質の圧力。男たちの顔から笑みが消え、代わりに困惑と、得体の知れないものへの畏怖が浮かぶ。彼らの腕力では決して届かない、遥か高みからの宣告だった。言葉だけで、暴力の衝動は完全に封殺された。


リーダー格の男が、乾いた喉で唾を飲み込んだ。アルケミウスの瞳を睨みつけ、絞り出すように言った。


「……頭首ザーラに、ご報告させてもらう」


それが精一杯の虚勢だった。ザーラへの報告が、彼らにとって唯一の、そして最も恐ろしい選択肢なのだと、イムルは直感した。男たちは忌々しげに舌打ちすると、足早に路地を去っていく。一人がすれ違いざまに、仲間へ聞こえるだけの声で呟いた。


「あの目…ただの狂人じゃねえ」


後に残されたのは、乾いた風と沈黙だけだった。イムルは、まだ震えが止まらない。アルケミウスの冷酷とも取れる言葉が、耳の奥で反響する。それでも、彼女は唇を震わせながら問いかけた。


「本当に……俺の家族を、助けてくれるのかい?」


アルケミウスはイムルに向き直ると、その無感情な瞳で真っ直ぐに彼女を見つめた。


「当然だ」


アルケミウスは向き直り、廃品置き場で見つけた時から腰に下げていた革袋の一つを、無言で差し出す。市場で生成した水は、杯からこぼしたもの以外、この中に満たされていた。


「君の家族は、この都における最初の『実証実験』であり、最も重要な『投資』だ」


投資。その言葉の冷たさに、イムルの心臓が小さく軋む。だが、差し出された革袋の重みは、紛れもない希望だった。彼女は数秒、革袋とアルケミウスの顔を交互に見つめた。覚悟を決めたように、震える手でそれを受け取った。


「…わかった。あんたを信じる」


その言葉の裏に、どれほどの祈りが込められているか、アルケミウスは気づかない。彼は計画の次の段階へ進むために、イムルの家へと歩き出した。


イムルは革袋を胸に抱きしめ、彼の後を追う。この男がもたらすのは、破滅か、それとも再生か。今はまだ、誰にも分からない。ただ、乾ききった都に、価値の天秤が静かに傾き始めたことだけは、確かだった。


二人が歩む道は、沈黙に支配されていた。聞こえるのは、乾いた土を踏みしめる足音と、遠くで吹き荒れる風の音だけだ。イムルは、アルケミウスの数歩後ろを、彼の影を踏まないように慎重についていく。その背中は、研究者のそれというより、どこか武人のように隙がなく、彼女の不安を掻き立てた。


胸に抱いた革袋が、ひんやりとした感触を伝えてくる。その冷たさが、生き物の鼓動のように感じられ、イムルは何度も強く抱きしめた。これは希望だ。しかし、あまりにも唐突で、あまりにも異質な希望だった。本当に、この男を信じていいのだろうか。疑念が鎌首をもたげるたび、彼女は病床に伏せる家族の顔を思い浮かべ、その弱い心を叱咤する。信じるしかない。他に道はないのだから。


「あんたは…」


耐えきれず、イムルが口を開いた。アルケミウスは足を止めずに、わずかに首だけを彼女に向ける。


「あんたは、どうしてこんなことをするんだい? 金か? 何か別の目的が…」

「言ったはずだ。投資だと」


アルケミウスの声には、何の感情も乗っていなかった。


「この都は死にかけている。水という絶対的な価値が、一部の権力者に独占されているからだ。そこに、新たな価値、すなわち『砂から水を生成する技術』を投入すればどうなるか。市場原理は根底から覆り、権力構造は崩壊する。私はその混乱の先にあるものが見たい。君の家族は、そのための最初の布石だ」

「布石…」


イムルはその言葉を噛みしめる。やはりこの男は、自分たち家族のことなど、駒としか見ていないのだ。だが、それでも構わない。駒でも、布石でもいい。利用されることで救われる命があるのなら、喜んで利用されよう。


「…あんたが何を考えてるか、俺にはさっぱりわからねえ。けど、約束は守ってくれるんだな」

「当然だ。契約は遵守する。それが私の合理性だ」


その答えに安堵すべきなのか、恐怖すべきなのか、イムルには判断がつかなかった。


やがて、二人は都の中でも特に陽の当たらない、建物の密集した一角へと足を踏み入れた。鼻を突くのは、埃と、病の匂い、そして諦観の匂いだ。壁は崩れ、戸口には力なく布が垂れ下がる家々が並ぶ。すれ違う人々は皆、地に視線を落とし、その瞳には生気のかけらもなかった。

アルケミウスは、その光景を興味深そうに観察していた。人々の栄養状態、建物の劣化具合、空気中に含まれる粉塵の濃度。彼にとって、この世界のすべてが分析対象であり、実験材料でしかない。


「ここだ」


イムルは、一軒の家の前で立ち止まった。他と何ら変わらない、崩れかけた日干し煉瓦の家だ。彼女は躊躇いがちに扉を開け、アルケミウスを中に招き入れた。


家の中は、外光がほとんど入らず薄暗い。窓と呼べるものはなく、壁の亀裂から差し込む光が、空気中を舞う無数の塵を照らし出す。部屋の奥に敷かれた藁の寝床から、苦しげな呼吸と、乾いた咳の音が聞こえてきた。


「母さん…弟のハキム…」


イムルの声が震える。寝床には、二つの人影が横たわっていた。一人はイムルの母親だろう。骨と皮ばかりに痩せこけ、くぼんだ眼窩がその苦しみを物語る。もう一人はまだ幼い少年で、ぐったりと目を閉じ、浅い呼吸を繰り返すだけだった。二人とも、唇はひび割れ、肌は土気色に変色している。生きたままミイラになっていくような、痛ましい姿だった。


アルケミウスは、その惨状を前にしても眉一つ動かさなかった。彼は寝床に近づくと、屈み込んで母親の手首を取る。その指は驚くほど細く、力なく彼の手に収まった。


「脈が弱い。極度の脱水症状による循環血液量減少性ショック寸前といったところか」故国で魔力枯渇が人体に与える影響を研究する中で得た知識が、皮肉にも今ここで役立っている。彼は淡々と診断を下すと、次に少年の瞼を指で押し上げた。


「瞳孔の対光反射も鈍い。意識レベルも著しく低下している。危険な状態だ」


その冷静すぎる分析が、かえってイムルに現実を突きつける。彼女は唇を噛みしめ、溢れそうになる涙を必死にこらえた。


「助かるのか…? 本当に、助かるんだろ…?」

「可能性はある」


アルケミウスは立ち上がると、イムルが抱えていた革袋を指差した。


「それを。まずは、唇を湿らせて意識を刺激する。その後、ごく少量ずつ経口投与を開始する」


彼は懐から、研究者の習慣か、常に携帯している畳まれた白い布を取り出すと、イムルに手渡す。その手際の良さは、長年医療に携わってきたかのようだった。イムルは言われるがまま、震える手で革袋の口を開け、布に水を染み込ませた。


純粋な水が布に吸い込まれていく。ただそれだけの光景が、今は神の奇跡のように思えた。彼女はそっと母親の口元へ布を運び、乾ききった唇を優しく湿らせる。水滴が唇の亀裂に染み込んでいく。すると、それまで微動だにしなかった母親の眉が、かすかにピクリと動いた。


「…っ!」


イムルは息を呑んだ。気のせいではない。確かに、反応があった。


「続けろ。次は弟だ」


アルケミウスの声に促され、イムルは弟のハキムにも同じように水を当てがった。まだ幼い唇が、わずかに潤いを取り戻していく。


「次は、飲ませる。無理強いはするな。喉を潤す程度でいい」


アルケミウスの指示に従い、イムルは革袋を慎重に傾け、一滴、また一滴と、母親の口に水を垂らした。喉がごくりと、か細い音を立てて動く。それは、命が水を求めて喘ぐ音だった。

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