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一文無しの賢者と、砂漠の沈む国  作者: おぷっち


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2/13

法則の一滴、市場のさざなみ

夜が明ける前の空気は、肌を刺すほど冷たい。


イムルの家の前、日干し煉瓦の壁際に据えられた奇妙な装置が、夜の闇に溶け込む。ガラス片と金属管、革袋を組み合わせただけの、ガラクタの寄せ集め。イムルはその前で膝を抱え、一睡もできずにいた。期待と、それが裏切られることへの恐怖が、胸の中で渦巻く。


「…本当に、水ができるのかい?」


隣に立つ男、アルケミウス・ヴァルガに問いかける。彼は空を見上げたまま、表情一つ変えない。その横顔は、夜明けの星の位置を計算している研究者のそれだ。


「法則は裏切らない。問題は、この貧弱な設備でどこまで効率を高められるか、だ」


彼の声には、確信だけが宿る。イムルの不安は、彼の計算には含まれない変数でしかない。


やがて、砂の地平線が白み始める。一筋の光が空を裂くと、アルケミウスは動いた。彼は廃品置き場から集めた中で最も透明度の高いガラス片を手に取り、陽光が差し込む角度へ正確に合わせる。レンズ状に磨かれたガラスは、か細い朝の光を一点に収束させ、黒く塗られた金属容器をじりじりと熱し始めた。


「熱で水分だけを気化させ、冷却して再び液体に戻す。不純物は残る。単純な法則だ」


アルケミウスが呟く。その時、砂混じりの突風が吹き、レンズの位置がわずかにずれる。イムルが「あっ」と声を上げるより早く、彼は寸分の狂いなくガラスを元の位置に戻した。精密な魔導具を扱うような、その指先の動きは冷静だ。


やがて、容器から伸びる金属管が熱を帯び、表面に水滴が滲む。管の先端に繋がれた革袋へ、それはゆっくりと――ぽつり、と落ちた。


透明な一滴。


イムルは息を呑んだ。それは魔法ではない。奇跡でもない。男が語った「法則」が形になっただけの現象だ。だが、この渇いた都で、それは何よりも神聖な光景だった。乾いた瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちる。希望と、理解を超えたものへの畏怖が、心を震わせていた。


数時間が経ち、革袋には杯一杯ほどの、一点の濁りもない水が溜まる。太陽は高く昇り、装置の周りには、噂を聞きつけたのだろう、数人の住民が遠巻きに様子を窺っていた。


「やった…!これで、これで家族が…!」


イムルは喜びを滲ませ、革袋を掴むと、病に伏せる家族が待つ家へと駆け寄ろうとした。その腕を、アルケミウスが掴む。力強いというよりは、ただ物理的に動きを止めるための、無感情な力だった。


「待て。これは『商品』だ。君の家族に与えるのは非効率的だ」


冷徹な声が、イムルの熱を凍らせる。彼女は信じられないものを見る目で、アルケミウスを振り返った。その言葉の意味を理解できず、希望を奪われたような虚しさが胸に広がった。


「…人の心がないのか!」


絞り出した声は震える。

「ただ、家族を助けたいだけなのに!」


アルケミウスは表情を変えない。その瞳は、目の前の少女の感情ではなく、その先に広がる未来の市場を捉えている。

「この一杯で君の家族を一時的に救っても、問題の根本は解決しない。この水を元手に、より多くの水と『信用』を生み出す。最も困窮している者たちに、労働力や別の資源と交換する形で投資する。それが、最も効率的な救済だ」


彼の言葉はイムルには理解できない。だが、その論理の裏に、ただの冷酷さではない、途方もない計画があることは感じ取れた。彼女が言葉を失っていると、遠巻きに見ていた人垣をかき分け、屈強な男たちが三人、姿を現す。胸には蠍の紋章が刻まれる。商人ギルド「砂海の蠍」の者たちだ。


「おい、てめえら。ギルドの許可なく、何をコソコソやってやがる」


リーダー格の男が、唾を吐き捨てる。彼らの目は、イムルが抱える革袋の中の水に釘付けだった。この都では、水は金であり、力そのもの。その力はギルドが独占するものだった。


「その水を渡しな。見逃してやる」


イムルは革袋を固く抱きしめる。しかし多勢に無勢。絶望が顔を覆う。


その時、アルケミウスが一歩前に出た。彼は男たちと対峙するのではなく、彼らが腰に下げていた汚れた水袋と、威嚇のために持っていた松明に目を向けた。


次の瞬間、アルケミウスは男の抵抗を無視し、水袋と松明を強引に奪い取っていた。あまりの速さと躊躇のなさに、男たちは呆気に取られる。


アルケミウスは動じない。二つの杯を地面に置き、片方にギルドの濁った水を、もう片方に革袋から澄んだ水を注ぐ。奪った松明の燃え盛る先端を、まずギルドの水が入った杯に近づけた。


パチパチと嫌な音がする。水面から油を焼くような黒い煙が立ち上り、鼻を突く異臭が辺りに漂った。民衆から、うめき声が漏れる。これが、彼らが毎日金貨一枚と引き換えに買わされている水の正体だった。


次に、アルケミウスは松明を自らが作った水の杯に近づける。

水は炎の光を映すだけ。音も、匂いも、変化もない。


彼は民衆と、顔を引きつらせるギルドの男たちを見渡し、告げる。

「価値が同じはずがない。病を癒す水と、病を運ぶ水だ」


暴力ではない。論理と事実。それが、アルケミウスの武器だった。民衆の視線が、侮蔑と怒りを込めてギルドの男たちに突き刺さる。気圧された男は、「お、覚えてやがれ!頭首ザーラに報告してやる!」と捨て台詞を残し、仲間と共に逃げるように去っていった。


嵐が過ぎ去った後、イムルは呆然とアルケミウスを見上げた。

「これからどうするんだい?ギルドを完全に敵に回した…」


アルケミウスは杯に残る澄んだ水を見つめた。その水面に映るのは、亡国の乾いた空か、それとも彼だけが見る未来の市場か。


彼は言葉を紡ぐ。


「敵ではない。未来の顧客だ」


その言葉の意味を、イムルはまだ理解できない。だが、目の前の男がやろうとしていることが、この砂漠の都の全てを根底から覆す、途方もない何かであることだけを悟り、言葉を失った。法則の一滴が、市場にさざなみを立てた瞬間だ。

ざわめきが戻ってきたのは、ギルドの男たちの姿が完全に人波の向こうに消えてからだった。それは先程までの怒声や罵声とは違う、熱を帯びた囁きの波。人々はアルケミウスを遠巻きにしながらも、その一挙手一投足に釘付けになる。畏怖、期待、まだ拭いきれない疑念。様々な感情が渦巻く視線が、槍のように突き刺さった。


やがて、人垣をかき分けるようにして、老婆が進み出た。深く刻まれた皺、乾ききった唇。その瞳だけが、井戸の底から星を見上げるような、かすかな光を宿す。老婆はアルケミウスの足元に置かれた杯、その清澄な水に震える指を伸ばしかけたが、寸前で思いとどまった。


「お客人……その水は、まことか。まことに、病を呼ばぬ水なのか」


しゃがれた声は、市場の喧騒にかき消されそうなほど弱々しい。だが、不思議とそこにいた全員の耳に届いた。アルケミウスは老婆の目を見つめ、頷く。


「真実だ。不純物はすべて取り除いた」

「……どうか、その水を一口。孫が、熱を出してもう幾日も……」


老婆の言葉に呼応するように、あちこちから「俺にも!」「金なら払う!」「頼む!」という声が上がり始める。熱狂は伝染する。乾ききった喉が、幻の水に殺到する。だが、アルケミウスはゆっくりと首を横に振った。


「売ることはできん」


非情とも取れる一言に、民衆の熱が一瞬で冷え、戸惑いが広がる。なぜだ、と誰もが顔を見合わせた。アルケミウスは杯を手に取ると、その水を惜しげもなく地面の砂に注いだ。水はあっという間に吸い込まれ、跡形もなく消える。悲鳴のような声が上がった。


「な、何を……!」

「これは証明だ」とアルケミウスは言う。「一時の施しは、渇きを癒しはしない。むしろ、次なる渇きへの期待と、手に入らぬことへの絶望を煽るだけだ。私がもたらすのは、コップ一杯の水ではない。この都の全ての水瓶を満たし、なお余りある法則そのものだ。それには、準備がいる」


彼の言葉は難解だったが、その揺るぎない態度に、民衆は反論の言葉を見つけられない。ただ、この男がやろうとしていることは、自分たちの想像を遥かに超えた何かであるということだけを、漠然と理解した。


「ほら、アルケミウス!もう行こうぜ!」


群衆の熱気に当てられたように、イムルがアルケミウスの袖を引く。このままでは、また別の騒ぎになりかねない。アルケミウスは黙って頷き、イムルに導かれて人波を割ってその場を離れる。


市場の喧騒が嘘のように遠ざかる、埃っぽい路地裏。壁に寄りかかったイムルは、ぜえぜえと肩で息をしながら、改めてアルケミウスを見上げた。


「……あんた、一体何者なんだよ。錬金術師ってのは、みんなあんたみたいなのか?」

「どうだろうな。師や同胞と、市場の在り方について語り合ったことはない」


淡々とした答えは、イムルの疑問の核心を巧みにかわす。イムルは苛立ったように頭をかいた。


「そういうことじゃなくて!『未来の顧客』ってどういう意味なんだよ!あいつらは、あんたを殺しにくるかもしれないんだぞ!頭首のザーラは、自分の縄張りを荒らす奴には容赦しないって評判だ。今まで逆らった奴らは、みんな砂漠の砂にされたって……」


少年の声には、本気の心配が滲む。この男が、ギルドの報復によってあっけなく命を落とす姿を想像し、腹の底が冷たくなるのを感じていた。


アルケミウスは、しかし、表情一つ変えない。彼は壁の染みを眺めながら、遠い国の法則を語るように言った。


「イムル君。恐怖で築かれた支配は、より大きな恐怖によって容易く覆る。暴力で奪った市場は、より大きな暴力によって奪い返される。それは法則というにはあまりに不安定で、刹那的だ」

「……?」

「だが、価値によって築かれた市場は違う。人々がその価値を認め、必要とする限り、それは存続する。ギルドが売っていたのは『水』という形ある物だ。だが、その価値は『病』という恐怖によって水増しされた、偽りの価値だった」


アルケミウスは、そこで初めてイムルへと視線を向けた。その灰色の瞳は、少年の魂の奥まで見通すようだ。


「私が提供するのは、単なる『清浄な水』ではない。『汚れた水を清浄な水に変える技術』そのものだ。安定供給を可能にする『法則』だ。考えてみろ。ザーラという頭首が商人であるならば、彼はどちらを選ぶ?」


イムルはごくりと唾を飲む。


「ど、どちらって……」

「病のリスクを抱え、民衆の恨みを買いながら、不安定な供給源から汚れた水を運び続けることか。あるいは、目の前にある汚れた水を、無限に価値ある商品へと変える法則を手に入れることか」


それは、問いの形をした答えだった。商人でなくとも、どちらが合理的かは火を見るより明らかだ。


「……あんたの技術を、ギルドに売るってことか?」

「そうだ。彼らは私の法則を買うことになる。そうなれば、彼らはもはや恐怖を振りかざす支配者ではない。価値を創造し、供給する商人となる。民衆は病に怯えることなく正当な対価で水を得て、彼らは安定した利益を得る。誰も損をしない。これこそが、あるべき市場の姿だ。彼らは私の敵ではない。私の法則によって利を得る、最初の顧客になるのだ」


途方もない構想だった。暴力と恐怖で成り立ってきたこの都の秩序を、たった一つの法則で塗り替えようというのだ。イムルは眩暈がするような感覚に襲われる。この男は、ギルドを潰そうとしているのではない。ギルドすらも、自身の描く巨大な市場の歯車として組み込もうとしている。


「……そんな、うまくいくのかよ」

「法則だからな。例外なく、作用する」


その絶対的な自信は、どこから来るのだろうか。イムルは、目の前の男がただの錬金術師ではないことを、改めて思い知らされる。彼は、世界の理を読み解き、それを自らの手で作り替えようとする、創造主のような存在に思えた。


乾ききったイムルの心に、アルケミウスの言葉が染み渡る。あの清らかな水が、今まで感じたことのない希望という潤いを、心の隅々に広げていく。


沈黙の後、アルケミウスは懐から空の杯を取り出し、丁寧に磨き始める。


「さて、イムル君。君への報酬の話をしよう」

「え……あ、報酬なんていいよ!俺、何もしてないし!」


すっかり忘れていた言葉に、イムルは慌てて手を振った。こんなとんでもないものを見せてもらった後で、銅貨数枚を受け取る気にはとてもなれない。


だが、アルケミウスは小さく首を振る。


「契約は絶対だ。法則は、まず自らが遵守せねば意味がない。だが、君に渡すのは金銭ではない」


彼は磨き上げた杯を懐にしまうと、まっすぐにイムルを見つめた。


「君には、私の最初の協力者になってもらう。それが報酬だ。これからこの都に生まれる、新しい市場の法則が、どのように世界を変えていくか。その全てを目撃する権利をやろう」


金銭よりも、地位よりも、遥かに大きく、そして重い報酬。イムルは言葉を失った。ただ、心臓が大きく脈打つのを感じた。この男と共にいれば、この乾ききった世界が変わる瞬間に立ち会えるのかもしれない。そんな予感が、砂漠の熱風のように全身を駆け巡った。


「行くぞ。法則を市場に根付かせるには、まだいくつも手順が必要だ」


アルケミウスは路地の闇に背を向け、再び光の中へと歩き出した。その背中には、迷いのかけらもなかった。


「お、おい、待ってくれよ!」


イムルは慌ててその後を追った。傾きかけた陽が、二人の影を亡国の石畳に長く、長く伸ばしていた。それはこれから始まる壮大な物語の、最初の1ページに引かれた一本の線だ。

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