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一文無しの賢者と、砂漠の沈む国  作者: おぷっち


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観測者の選択、開拓者の証文

夜の闇が全てを飲み込むアルベイン国境の塔。乾いた風が石の壁を撫で、虚ろな音を立てる。その頂で、アルケミウスは壊れかけた観測装置の前に立ち尽くしていた。前話からの消耗が彼の肩に重くのしかかり、冷たい汗がこめかみを伝う。彼の視線は、手元の羊皮紙に映し出される、あり得ない数値の羅列に釘付けになっていた。

アシャルの『広域魔素擾乱コンデンサ』から送られてくるデータは、もはや彼の知る物理法則を嘲笑うかのような曲線を描いていた。予測された緩やかな収束ではない。指数関数的な発散。ごくわずかな誤差が生んだはずの乱流は、自己組織化を始めて集束し、未知のパターンを形成し始めている。



「……あり得ない」



かすれた声が、彼自身のものとは思えなかった。理解が追いつかない。自身の理論が、築き上げてきた知の体系が、目の前で砂の城のように崩れていく。これは世界の書き換えではない。ただ、知らずに禁忌の箱の蓋を開けてしまっただけだ。



その背後に、一つの影が現れた。王都での任務を終え、事態の異常を察して馬を飛ばしてきたレオンハルト・クロイツだった。休む間もない数日の騎行で、彼の騎士服は砂と埃にまみれ、その顔には深い疲労と、友の苦悶を前にした罪悪感が色濃く浮かんでいた。覚悟を決めたはずの胸に、冷たい後悔が這い上がってくる。王都の心臓を止めたのは自分たちだ。その結果が、友をこれほどまでに追い詰めている。彼の表情が、声なき自責の念を物語っていた。



「アルケミウス……。一体、何が起きている」



レオンハルトの声に、アルケミウスは反応しない。彼の意識は、観測装置が示す深淵の向こう側に囚われている。科学者としての畏怖が、世界を破壊したかもしれないという後悔が、彼の思考を麻痺させていた。




砂嵐を迂回し、砂漠を越えること数日。

熱風が砂を巻き上げる中、一つの隊列がオアシス都市『シルティス』の巨大な門の前にたどり着く。アシャルの民で構成された、イムル率いる最初の交易隊だ。過酷な旅路を乗り越えた彼らの顔には、疲労と、それを上回る誇りが浮かんでいた。



「止まれ! 何者だ!」



城壁の上から、日に焼けた兵士の鋭い声が飛ぶ。

イムルは荷駄獣の手綱を引き、堂々と顔を上げた。隣では、屈強な鍛冶師ヴォルフが油断なく周囲を警戒している。



「俺たちはアシャルの民だ! あんたたちと交易しにきた!」



イムルの快活な声が響く。彼女の瞳には、リーダーとしての自信と、未知の土地に踏み入れた緊張が同居していた。彼らの荷車の車輪が道中で軋みを上げ、ヴォルフが応急処置を施す一幕もあったが、それすらも彼らの結束を強める糧となっていた。



門が開き、交易隊は商人たちが品定めするような視線を浴びながら、都市の広場へと通される。シルティスの商人たちは、彼らの粗末な身なりと、荷車に積まれた見慣れない『証文』の束を見て、あからさまに嘲笑の声を上げた。



「なんだ、あの紙切れは。砂漠の貧者が発行した手形か?」

「水と食料を恵んでもらいに来たのかね?」



侮蔑の言葉が飛び交う。しかし、イムルは動じなかった。彼女は荷車から、革袋に満たされた一点の曇りもない純水と、栄養価の高い圧縮食料の塊を取り出して見せる。



「これは施しじゃない」



イムルの声が、広場のざわめきを切り裂いた。



「あんたたちの明日への、アシャルからの投資だ。受け取るか決めるのはあんたたちだよ」



アシャルで成功した『信用の構築』。その価値が、今、試されようとしていた。



交渉の合間、建物の陰で一人になったイムルは、深く息を吐いた。高揚感の裏で、重圧が肩にのしかかる。アルケミウスがいたら。彼ならば、もっと巧みに、論理で彼らを説き伏せられたのではないか。そんな弱気が胸をよぎる。

だが、彼女はすぐに首を振った。ヴォルフをはじめ、自分を信じて渇いた砂漠を越えてきた仲間たちの顔が脳裏に浮かぶ。

「…俺は、俺のやり方でやるしかない」。

呟きは、誰に聞かせるでもない、彼女自身の覚悟だった。



そこへ、ひときわ豪華な装束をまとった男が、従者を連れて現れた。シルティスの商人組合長だ。彼はイムルの前に立つと、値踏みするような視線で彼女の差し出した品々を一瞥した。



「アシャルの小娘が、随分と大きなことを言う。かつて『砂海の蠍』のザーラ・ベドゥインも、似たような夢を見ていたな」



組合長は、ザーラの名を口にした。直接的な繋がりはなくとも、その支配の思想に共鳴していることは明らかだった。



「信用だと? 紙切れで買える信用など、砂上の楼閣に過ぎん。その価値、ここで証明してみせろ」



組合長は、アシャル側が到底受け入れられない、奴隷同然の交換レートを提示する。イムルの顔から血の気が引いた。物理的な物資だけでは、この壁は崩せない。



窮地に立たされたイムルは、必死に活路を探った。物資ではダメだ。奴隷同然の交換では、民が飢えるだけ。では、他に何がある? アシャルにあって、シルティスにないもの…彼らが喉から手が出るほど欲しがるものは? その思考の果てに、アルケミウスの言葉が雷のように脳裏を貫いた。『価値は需要と供給で決まる。相手が最も欲しているが、持っていないものを提供しろ』

イムルは顔を上げた。彼女の目に、再び闘志の火が灯る。



「あんたたちの都市は豊かだ。だが、その繁栄を支える武具や道具を作る、腕のいい職人が足りていないと聞く」



組合長の眉が、わずかに動いた。



「俺たちの都には、砂漠一の腕を持つ鍛冶師たちがいる。ヴォルフがその筆頭だ。彼らの技術を、あんたたちに提供する。対価は、あんたたちが紙切れと笑った、この『証文』でいい」



物理的なモノではない。『技術サービス』という無形の価値。イムルは、信用の突破口をこじ開けるための、新たなカードを切った。




アルケミウスのいる塔では、空気が張り詰めていた。

彼は混乱から立ち直り、観察者から問題解決者へと転換していた。床に広げられた貴重な羊皮紙の上に、鬼気迫る勢いで計算式が慎重に書き込まれていく。突風が吹き込み、数枚の羊皮紙が舞い上がったが、背後にいたレオンハルトが慌ててそれらを押さえた。



「これは物理法則の崩壊ではない。…故に、未知の変数が加わった、新たな物理系への相転移と仮定する」



アルケミウスの呟きは、科学者としての執念に満ちていた。彼は、自らが引き起こした現象の構造を、その根源を、解き明かそうとしていた。



夜が明けようとする頃。

彼の動きが、ぴたりと止まった。

導き出された結論は、彼の想像を、絶望をも、遥かに超えるものだった。



アルベインの魔素擾乱は、世界の魔素ネットワークに巨大な穴を開けた。それは『魔素の真空地帯』とでも呼ぶべき現象。自然の理に従い、その真空は周囲の高密度な魔素領域から、エネルギーを暴力的なまでに引き寄せ始める。それは、いずれ世界の構造そのものを破壊し、大規模な次元崩壊を引き起こす、巨大な時限爆弾だった。



「……間違っていた」



アルケミウスの唇から、乾いた声が漏れる。



「俺は世界を書き換えたのではない。ただ、知らずに引き金を引いただけだ。このままでは、全てが崩壊する」



震える手で、計算結果が記された羊皮紙を、思わず強く握りしめる。

彼は顔を覆った。その肩が、かすかに震えている。



「…間に合わないかもしれない」



その絶望の呟きは、部屋の静寂に吸い込まれていった。レオンハルトが何かを言おうと口を開きかけたが、言葉にならない。アルケミウスはゆっくりと顔を上げると、ただ黙って首を横に振った。その沈黙が、言葉以上の雄弁さで破滅の未来を物語っていた。



しばしの静寂の後、アルケミウスはレオンハルトに向き直った。

その顔には深い疲労と、正気と狂気の狭間を揺れる、凄絶な決意が浮かんでいた。



「レオンハルト。計画を変更する」



声は、静かだが、塔の石壁を震わせるほどの重みを持っていた。



「アルベインを救う。…いや、この世界が崩壊する前に、俺たちが作った爆弾を、俺たちの手で解体する」



それは、復讐計画の放棄。

自らが引き起こした災厄に立ち向かうという、世界の存亡を賭けた新たな戦いの始まりを告げる号砲だった。

レオンハルトは息を呑んだ。彼の口から出た言葉は、これまでの全てを覆す響きを持っていた。復讐。その二文字だけを道標に、光の届かぬ道を歩み続けてきたはずではなかったか。アルベインの腐敗した王政に鉄槌を下し、奪われた者たちの無念を晴らす。それが二人の唯一の目的であり、生きる意味そのものだったはずだ。



「…正気か、アルケミウス」



絞り出すような声だった。レオンハルトは、目の前の男が長年の研究の果てに精神の均衡を失ってしまったのではないかと、本気で疑った。彼の蒼白な顔、血走った瞳、震える指先。そのどれもが、尋常ではない状態を示している。



「我々の悲願を…今更、投げ出すというのか? あれだけの犠牲を払って、ようやくここまで来たというのに!」



アルケミウスは、レオンハルトの激情を静かに受け止めていた。その瞳はもはや復讐の炎を映してはいない。代わりに宿っているのは、底なしの深淵を覗き込んでしまった者の、凍てつくような恐怖と諦念だった。



「悲願、か…」アルケミウスは自嘲気味に呟いた。「そんなものは、もはや塵芥に等しい。世界そのものが消えれば、復讐する相手も、俺たちの怒りも、流した血も涙も、全てが無に帰すのだぞ」



彼はゆっくりと、先ほど握りしめた羊皮紙を机の上に広げた。皺の寄った紙面に踊る無数の数式と幾何学模様。それは、凡人には到底理解の及ばない、神の領域に触れるための設計図だった。レオンハルトにはその意味するところは分からない。だが、そのインクの染み一つ一つから放たれる、禍々しい気配だけは肌で感じ取ることができた。



「俺は世界の理そのものを書き換える術式を完成させたつもりでいた。アルベインという国を支える『運命』の法則に干渉し、内側から崩壊させる…それが計画だった」



アルケミウスは指で、複雑に絡み合った線の一本をなぞる。



「だが、俺は世界の『構造』を根本的に読み違えていた。この世界は、危うい均衡の上にかろうじて成り立っている、脆い器だったのだ。俺がやったのは、その器に内側から亀裂を入れる行為に等しい。一つの亀裂は、やがて全体に広がり、全てを砕け散らせる。俺が作ったのは、アルベインを滅ぼす賢者の石などではない。この世界そのものを叩き割るための…ただの、巨大な槌だ」



彼の声は、懺悔の響きを帯びていた。レオンハルトは言葉を失った。アルケミウスの語る内容はあまりに突飛で、荒唐無稽に聞こえる。しかし、彼の瞳の奥に宿る絶望が、それが紛れもない真実であることを雄弁に物語っていた。長年連れ添った男の、魂の叫びだった。



それでも、心の奥底で燻る復讐の炎は、容易には消えない。



「だが、アルベインは…奴らは我々から全てを奪った! この手で裁きを下すと、あの墓前で誓ったはずだ!」



レオンハルトが激情を叩きつけるように言うと、アルケミウスは静かに彼の肩に手を置いた。その手は氷のごとく冷たい。



「聞け、レオンハルト。崩壊はもう始まっている。放置すれば、その綻びはやがて時空そのものを飲み込む大穴となる。そうなれば、アルベインも、我々も、善人も悪人も関係なく、全てが等しく無に還る」



アルケミウスの言葉は、冷たい刃となってレオンハルトの胸を貫いた。復讐という熱に浮かされていた思考が、急速に冷却されていく。自分たちがやろうとしていたことの、本当の意味を突きつけられた気がした。



「…では、どうするというのだ」かろうじて、レオンハルトは声を振り絞った。「お前が作った爆弾を、お前の手で解体できるというのか?」



「ああ」アルケミウスは、力なく、しかしはっきりと頷いた。「理論上は可能だ。術式を逆回転させ、世界の理にかかる負荷を解き放つ。だが、時間がない。亀裂が致命的な大きさに達する前に、中枢を止めなければならない」



彼は一度言葉を切り、窓の外に広がる闇を見つめた。その闇が、やがて全てを覆い尽くす未来を幻視しているかのようだった。



「最大の問題は…その術式の中枢は、すでにアルベインの王城最深部、マナの源流点に設置してあるということだ。俺たちの復讐の刃が、今や世界を滅ぼす牙として、敵の中枢に鎮座している」



絶望的な状況。皮肉な現実。レオンハルトは天を仰いだ。復讐のために忍び込ませたものが、今度は世界を救うために取り戻さねばならないものに変わってしまった。



しばしの沈黙が、塔の空気を重く支配する。やがて、レオンハルトは深く、長い息を吐き出した。その息と共に、長年抱き続けた復讐という名の熱が、霧散していくのを感じた。



「…分かった」



彼は、アルケミウスの目を真っ直ぐに見据えた。



「復讐は潰えた、か。くだらない夢だったな。だが、死に場所くらいは自分で選びたい。お前の、その途方もなく無謀な賭けに乗ってやろう、アルケミウス」



その言葉に、アルケミウスの目に初めて、絶望以外の光が微かに宿った。それは感謝でも安堵でもない。共に奈落へ飛び込む覚悟を決めた、共犯者への静かな共感だった。



二人の間に、かつての復讐の誓いとは異なる、新たな、比較にならぬほど重い絆が結ばれた瞬間だった。

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