信用の天秤
静寂を破ったのは、金属を打つ音ではなかった。乾いた革が裂ける、鈍い音だった。
都の広場から少し離れた鍛冶場。ヴォルフと呼ばれた若い鍛冶師は、埃をかぶった鞴の破れた革袋を前に、苦々しく舌打ちする。
「ちくしょう、何年も使ってなきゃこうもなるか」
彼の周りには、同じように『証文』を握りしめた数人の職人たちがいた。彼らの手にあるのは未来への約束。だが、その未来を形作るための道具は、長い停滞のせいで息絶えようとしていた。焦燥が、錆と汗の匂いに混じって工房に立ち込める。
それでも、職人たちが代わるがわる口で息を吹き込み、手のひらで風を送り、か細い火種を育てた。火は、灯った。
別の場所では、老婆が震える手で羊皮紙に炭を走らせていた。彼女の担保は『古の知恵』。記憶の底から、この砂漠に眠る鉱物の伝承を、忘れ去られた地図の断片を、必死に紡ぎ出している。
アルケミウスは、都のあちこちから伝わる微かな変化を、報告を待たずとも感じ取っていた。物理的な富ではない。『未来』を担保にした労働が、死んだ都で確かに始まった。彼の計算通り、価値の交換は成立している。
…故に、理解する。この計画の根幹は、物理法則でも経済合理性でもない。人の『心』という、最も不確定な変数に支えられているのだと。その脆さが、彼の胸の内に微かな影を落とす。前回の敗北の記憶が、不意に思考をよぎり、すぐに掻き消した。
その頃、アシャルの都を支配する『砂海の蠍』の拠点では、絶対的な権力者がほくそ笑んでいた。
「証文、だと? 飢えた者に未来を売るとは……傑作な詐欺師だ」
玉座にふんぞり返るザーラ・ベドゥインは、配下からの報告を鼻で笑う。その視線の先、部屋の隅に座らされたイムルが、唇を噛み締めていた。
「あの男が売っているのは未来ではない。ただの紙切れと、お前たち自身の絶望だ」
ザーラの言葉は、甘い毒のようにイムルの心を侵食する。そうだ、希望の水源は破壊された。食料もない。アルケミウスの言葉は、ただの空約束なのかもしれない。恐怖が足元から這い上がってくる。
だが、イムルは首を振った。あの男の目は、詐欺師の目ではなかった。絶望の淵で見たあの静かな瞳は、法則という揺るぎない真実だけを映していた。彼女は必死にその記憶にすがりつき、心の中で叫ぶ。負けないで、と。
ザーラの次の一手は、迅速かつ的確に民衆の心を抉った。
都の広場に、彼の部下たちが現れる。山と積まれた籠の中には、焼きたてのパンと干し肉。飢えた民衆の喉が鳴る。その香りが、希望という不確かな概念を現実の力で殴りつけた。
「頭首からのお恵みだ! 賢者の戯言より、今日のパンを選べ!」
部下の声が響く。民衆の間に激しい動揺が走る。未来への労働か、今この瞬間の糧か。天秤は大きく揺れ動いた。
ザーラの策はそれだけでは終わらない。
「貴様らが信じる賢者の正体を教えてやろう!」
部下は一枚の羊皮紙を掲げる。
「その男、アルケミウス・ヴァルガは、故国アルベインで『国家を揺るがす禁断の研究を行った』大罪人! 国を追われた裏切り者よ! そんな男の未来と、頭首が与える今日のパン、どちらが信用に値するか、愚か者でもわかるだろう!」
広場が凍り付いた。
禁断の研究。大罪人。追放者。その言葉の一つ一つが、芽生えかけた信頼の芽を根こそぎ引き抜いていく。民衆の視線が、疑念と侮蔑のナイフとなってアルケミウスに突き刺さった。
その、最も劇的な瞬間に。
都の門が重々しく開かれ、一人の男が姿を現した。
陽光を反射する白銀の鎧。腰に下げた長剣。一糸乱れぬ歩み。その姿は、この渇いた砂漠にはあまりにも不釣り合いな、潤沢な国家の力を象徴していた。
「アルベイン王国騎士団、レオンハルト・クロイツ」
男は名乗らない。だが、その鎧に刻まれた紋章がすべてを物語っていた。
レオンハルトは民衆には目もくれず、ザーラの部下と短く言葉を交わすと、まっすぐにアルケミウスへと歩みを進める。事前に接触していた。計算された登場だった。
ザーラと故国アルベインが裏で繋がっていた。あの涸れたオアシスでの罠。不自然な色と匂いを発して燃えた鉱物粉末の正体が脳裏をよぎる。あれは、故国で禁忌とされた『魔素触媒による強制励起』の技術。ザーラはアルベインから、情報だけでなく、禁断の産物すらも手に入れていたのだ。
その残酷な事実が、アルケミウスの思考を停止させる。予測の範囲を超えた、最悪の変数。論理の盤面が、暴力と権力によって根底から覆される。
「見たか、賢者よ」
ザーラの部下が、勝利を確信した声で叫ぶ。
「貴様の過去が、貴様の祖国が、お前を断罪しに来たのだ! さあ、民衆よ、選べ! この罪人に未来を託すか、我らが頭首の庇護の下で今日を生きるか!」
選択を迫られ、民衆は俯く。誰もが今日のパンに手を伸ばしかけ、誰もがザーラの前に跪きかける。希望は、再び絶対的な現実の前に砕け散るかに見えた。
アルケミウスは自らの過去を否定しない。ただ、民衆へ問う。
「…過去の罪人と、未来を築くか。今の支配者と、昨日と同じ今日を生きるか。選ぶのは、あんたたちだ」
絶望的な沈黙が広場を支配する。
最初に動いたのは、ヴォルフだった。
彼は、ザーラの部下が差し出すパンには目もくれず、アルケミウスに背を向けた。壊れた鞴が待つ自身の工房へと歩き出す。
「待て、どこへ行く!」
「仕事場だ」
ヴォルフは振り返らずに答える。その手には、錆びついた槌が握られていた。
「腹は減ってるさ! だがな、奴隷のまま満たされる腹より、自由のために空かせた腹の方がマシだ!」
彼の言葉は、もはや怒鳴り声ではなかった。腹の底から絞り出した、魂の叫びだった。
その一言が、引き金だった。
一人が、また一人と、民衆はザーラの食料に背を向ける。老婆は羊皮紙を抱え、革職人は道具を手に、誰もがそれぞれの仕事場へ、未来を創る場所へと無言で戻っていく。
彼らが選んだのは、今日のパンではなかった。明日を自分の手で作り出すという、誇りと尊厳だった。
ザーラの部下たちは、その光景に呆然と立ち尽くす。アルケミウスは、ただその民衆の背中を目に焼き付けていた。彼の計算を超えた場所で、論理では測れない何かが、今、この都を動かした。
民衆の選択に、ザーラの部下が激昂の声を上げようとした、その時。
彼らを制するように、レオンハルトが進み出た。彼はアルケミウスの正面に立つと、その瞳でかつての友を射抜く。その目に宿るのは、単なる罪人への侮蔑ではない。何かを確かめるような、探るような、複雑な色が混じっていた。
やがて、彼は冷徹な声で告げた。
「アルケミウス・ヴァルガ」
その声は、この砂漠の全ての音を支配する。
「我が祖国アルベインの名において、貴様を国家反逆罪の容疑で拘束する」
民衆の信頼という、最強の『信用』を手に入れた瞬間。
物理的な暴力と国家権力という、最大の脅威が、アルケミウスの眼前に突きつけられた。
アルケミウスは微動だにしなかった。その横顔に驚きや恐怖の色はない。ただ、吹き抜ける乾いた風が彼の銀髪を揺らすだけだ。レオンハルトの言葉が、いずれ必ず耳に届く風の音の一つに過ぎないとでも言うように。
彼の視線は、レオンハルトの瞳の奥、そのさらに奥にある魂の揺らぎを探っていた。国家反逆罪。それはアルベイン王国を追われた彼にとって、常に背後にちらつく影だった。だが、その言葉を告げるのが、なぜ、お前なのだ、レオンハルト。その問いだけが、音もなく彼の内で響いていた。
レオンハルトが、一歩、また一歩と、ゆっくりと距離を詰める。彼の歩みに合わせて、陽光を反射する白銀の甲冑がカシャリと硬質な音を立てた。その音は、この場の支配者が誰であるかを無慈悲に宣言しているかのようだった。
「貴様の行いは、王国の秩序を破壊する企てに他ならない」
レオンハルトの声は、先ほどよりも低く、抑揚を欠いていた。感情を押し殺そうとすればするほど、その声には微かな歪みが生まれる。
「その歪んだ知識で民を惑わし、国家の根幹たる通貨制度を脅かす。それは万死に値する大罪だ。理解しているな、アルケミウス」
言葉は罪状を並べ立てる。だが、その瞳が語るのは、法や秩序だけではなかった。そこには、かつて理想を語り合った友への、裏切られたと感じる者の深い失望と、断ち切れぬ未練が混じり合って濁っていた。レオンハルトは、友を断罪することで、自らの中に巣食う迷いを断ち切ろうとしていた。
その張り詰めた空気を最初に破ったのは、民衆のざわめきだった。
国家権力の象徴である騎士たちの威圧感に、人々は一瞬怯んだ。しかし、それはすぐに別の感情に取って代わられる。恐怖ではない。怒りだ。今日のパンよりも明日の尊厳を選んだ彼らの心に灯った小さな火は、もはや容易には消えなかった。
「待ってくれ!」
声を上げたのは、あの革職人だった。彼は汚れた手を固く握りしめ、レオンハルトを睨みつける。
「アルケミウス様は、俺たちに仕事と誇りをくれた恩人だ! 罪人であるはずがない!」
その声に呼応するように、あちこちから声が上がり始める。
「そうだ! この都を救ってくださった方を、なぜ罪人扱いする!」
「あなたたちこそ、何者なんだ!」
先ほどザーラの部下たちに背を向けた老婆が、今度はその細い腕でアルケミウスを庇うように、騎士たちの前に立ちはだかった。その皺だらけの顔には、恐怖ではなく、守るべきものを前にした者の決意が刻まれている。彼らが手に入れた『信用』という名の絆は、今やアルケミウス個人に向けられた、揺るぎない盾となっていた。
民衆の思わぬ抵抗に、レオンハルトの部下たちが剣の柄に手をかける。広場に再び緊張が走った。
その時、アルケミウスが動いた。
彼は自分を庇おうとする老婆の肩にそっと手を置き、優しく、しかし有無を言わせぬ力で下がらせる。そして、民衆に向かってゆっくりと首を横に振った。無用な争いはするな、と。その静かな仕草だけで、あれほど高まっていた民衆の怒号が、戸惑いの囁きへと変わっていく。彼らは、アルケミウスの意志を絶対のものとして受け入れたのだ。
民衆を制したアルケミウスは、再びレオンハルトへと向き直った。
「レオンハルト」
彼の声は、あくまでも穏やかだった。旧友に語りかけるように。
「その『罪』の裁きを、ここで下すというのか? 私を信じ、立ち上がったこの民の目の前で、私を鎖に繋ぐと?」
それは問いかけであり、同時に警告だった。お前の正義は、今この場で、民衆の意志という新たな正義と衝突するのだぞ、と。力で私を捕らえることはできよう。だが、その行為がお前の、そしてお前が仕える王国の権威に、どのような傷を残すことになるか、理解しているのか。アルケミウスの目はそう語っていた。
レオンハルトは唇を噛み締めた。民衆の敵意に満ちた視線が、彼の鎧を貫いて突き刺さる。騎士としての任務、国家への忠誠。それは彼が今まで信じてきた全てだ。だが、目の前にいるのは、かつて同じ理想を見つめていたはずの友と、その友を英雄として崇める民衆。どちらが、正しいのか。一瞬、彼の瞳に烈しい葛藤の色が浮かんだ。
だが、その揺らぎはすぐに鋼の意志の奥に押し込められた。彼は騎士団長レオンハルト。私情で剣を鈍らせることは許されない。
「……問答は不要だ」
彼は、吐き捨てるように言った。
「アルケミウス・ヴァルガを拘束しろ。抵抗する者は、公務執行妨害とみなし、実力をもって排除する」
非情な命令が飛ぶ。騎士たちが一斉にアルケミウスへと歩み寄った。民衆から悲鳴に近い声が上がるが、彼らは動けない。アルケミウス自身が、それを望んでいないからだ。
アルケミウスは、迫りくる騎士たちを前にしても、ただ佇んでいた。彼は逃げもせず、抗いもせず、まるでその結末をとうに受け入れていたかのように、ゆっくりと両腕を差し出した。その姿は、罪人のそれではない。自らの信念のために、殉じようとする求道者のようにさえ見えた。
冷たい鉄の枷が、彼の両手首にはめられる。ガチャン、という無機質な音が、広場の喧騒を切り裂いた。
連行されながら、アルケミウスは最後に一度だけ、民衆の方を振り返った。その瞳は、絶望に沈む彼らを、一人一人見つめるように動く。そして、かすかに、本当にわずかに、その口元に笑みを浮かべた。
心配するな。これは終わりではない。始まりなのだ、と。
その眼差しに込められた意味を、今はまだ誰も理解できなかった。ただ、彼を信じた者たちの心に、その静かな光は、いつまでも消えない灯火として焼き付いたのだった。




