砕かれた泉と、信用の種
夜が明ける。
涸れたオアシスを焼いた紫色の炎は、その異様な輝きを失い、今はただ黒い煤と化した鉱物の残骸から、くすぶる熱気と金属が焼けるような異臭を立ち上らせているだけだった。一夜にして作り上げられた牢獄の中で、アルケミウスは膝を抱え、動かずにいた。
思考は停止していた。
イムルは連れ去られた。希望の源泉は、泥水に変えられた。自身が構築した論理は、ザーラ・ベドゥインという男の圧倒的な暴力と、人心という非合理な変数の前で、砂の城のように脆く崩れ去る。効率性を突き詰めたはずの計画が、結果として民衆をより深い絶望へと導いたのだ。その事実が、鉛の重りとなって彼の思考回路を沈黙させていた。自己嫌悪と、行動の伴わない殺意だけが、冷えた身体の芯で燻っている。
どれほどの時間が過ぎたか。無感情に燃えカスへ向けられていた視線が、ふと、ある一点で焦点を結ぶ。黒い塊の中に、燃え尽きずに残った鉱物の破片。それは、昨夜の記憶を呼び覚ました。あの紫色の光、鼻を突いた金属の異臭と、異常なまでの熱量。
彼の知る物理法則では説明のつかない燃焼現象。だが、その光景には見覚えがあった。
(……魔素触媒による強制励起。特定の鉱物を介して、環境魔素を暴走させる…)
故国アルベインで、禁断の技術として封印された研究資料。その一節が、思考の暗闇に閃光を放つ。なぜ、ザーラがアルベインの、それも極秘の技術を知っている?
その問いが生まれた瞬間、停止していた歯車が軋みを上げて回り始めた。絶望は消えない。だが、その底に「分析」という新たな足場が生まれた。
彼はゆっくりと立ち上がる。現状を打開しなければならない。感情に溺れるのは、非効率の極みだ。
アルケミウスは周囲を観察する。炎によって熱せられた岩盤は、脆くひび割れている。窪地の底には、夜の放射冷却で生まれたのか、僅かな湿り気があった。
彼は懐から手持ちのナイフを取り出すと、岩盤の最も深い亀裂に刃を突き立て、抉るように押し込んだ。一度目の試みでは、亀裂が浅すぎて圧力が逃げる。予測通りの失敗だ。より深く、より的確な一点に力を集中させる。
乾いた岩が砕ける音。彼は水筒を逆さにし、着ていた服の袖を引きちぎった布に最後の一滴まで水を染み込ませると、それを深く抉った亀裂の奥へと押し込んだ。まだ熱を保っている鉱石を拾い上げ、布を詰めた亀裂の入り口に置く。熱が岩盤を伝い、内部の水分を急激に気化させる。
数秒の静寂。
やがて、内部からの圧力に耐えきれなくなった岩盤が、鈍い破裂音と共に弾け飛んだ。小規模な水蒸気爆発。物理法則のみを武器とした、原始的で、しかし確実な脱出だった。
粉塵の舞う脱出口を抜け、アルケミウスは都へと続く砂漠を歩き始めた。あの使者の手が震えていた理由を、アルケミウスは今、確信していた。あれは、この結末を知る者故の恐怖だったのだ。
希望の源泉があった場所は、絶望の沼と化していた。
ザーラの別動隊が投げ込んだ汚泥と汚物によって、清冽だったはずの水は見る影もなく濁り、周囲には民衆が力なく座り込んでいる。彼らの目から光は消え、都全体が巨大な墓標のように沈黙していた。
アルケミウスの姿を認めると、一人の男が立ち上がった。蒸留器の作成に最も協力的だった、あの若い鍛冶師だった。
「てめえ……よくも戻ってこれたな!」
怒りに顔を歪ませ、彼はアルケミウスの胸ぐらを掴んだ。「あんたを信じた俺たちが馬鹿だった! 水も、食い物も、希望も、全部無くなっちまったじゃねえか!」
アルケミウスは、何も言い返せなかった。
反論の言葉を持たないわけではない。だが、彼の論理が生んだ希望が、この惨状を招いたという事実は動かない。唇を固く結び、ただその罵倒を受け止めることしかできなかった。彼の背中と沈黙が、何より雄弁に敗北を物語っていた。
その頃、ザーラの拠点の一室で、イムルは冷たい石の床に座らされていた。
手足の自由は奪われていない。だが、心の自由は完全に失われていた。アルケミウスの敗北、希望の源泉の崩壊。全てが終わり、虚脱感が彼女の全身を支配していた。
「見たか、小娘」
勝利の美酒に酔うザーラが、愉快そうに声をかける。「あれがお前たちの信じた賢者の末路だ。知恵など、太陽の前では影も作れん」
嘲笑が、イムルの虚ろな心に突き刺さる。だが、その言葉は予期せぬ火種となった。
そうだ、あの人は負けた。でも――。
あの人が灯した光は、確かに本物だった。弟の命を救い、民衆に笑顔を取り戻した、あの水の輝き。ザーラの言葉は、それを否定している。
虚脱感の底から、静かだが、決して消えない怒りの炎が燃え上がった。イムルは顔を上げ、その瞳で真っ直ぐにザーラを睨み返した。まだ、何も終わってはいない。
民衆から離れ、アルケミウスは一人、泥水と化した泉の底を調べていた。ザーラの仕業は明白だ。だが、何かが腑に落ちない。この汚泥の臭いとは明らかに異質な、金属の匂い。そうだ、水源を発見した時、噴き出す空気に微かに感じたものと同じだ。
彼は泥の中に手を突き込む。指先に、硬い何かが触れた。引き抜くと、それは泥にまみれた金属の破片だった。自然物ではない。明らかに人の手によって加工された、人工物。
泥を拭うと、表面に刻まれた微かな文様が見えた。それは、彼が故国で見たことのある古い様式の刻印に似ていた。アルベイン王家のものと酷似しているが、どこか違う。この水源は、自然のものではなかった。古代の、恐らくは魔導装置の残骸だったのだ。
その瞬間、アルケミウスの中で全てが繋がった。
物理的な「水」に依存するシステムは、物理的に破壊されれば終わる。ザーラが証明した通りだ。だが、価値の源泉そのものが、物理的な実体を持たなかったとしたら?
彼はかつて、この都の民に「信用」という概念を提唱した。だが、それは水源という物理的な担保があってこそ成り立つ、不完全なものだった。今、その担保は失われた。ならば、より純粋な形で価値を創造するしかない。
約束を、信頼を、未来への期待そのものを、取引の対象とするのだ。
アルケミウスは立ち上がり、再び民衆の前に立った。その手には、泥にまみれた金属片が握られている。
「…水を売るのは、やめる」
彼の静かな声が、絶望の沈黙を破った。人々が訝しげに顔を上げる。若い鍛冶師が吐き捨てた。
「当たり前だ。売る水なんてもうねえんだからな」
「そうだ」アルケミウスは頷く。「物理的な水は、今はない。だが、価値は枯渇していない」
彼は金属片を高く掲げた。
「これは、この地に眠っていた古代の遺物だ。我々の足元には、失われた技術と未来がある。これを担保に、俺は『証文』を発行する。未来に得られる水と、今を生きるための食料を交換するための、約束の証だ」
民衆が騒然となる。荒唐無稽な提案に、誰もが戸惑いを隠せない。
「我々は水を売るのではない。未来を、信用を取引する」
アルケミウスの宣言が、乾いた風の中に響き渡った。
その狂気じみた提案に、誰もが言葉を失う中、最初にアルケミウスを罵倒した若い鍛冶師が、乾いた唇で呟いた。
「…どうせ失うものなんてもうねえ」
彼は固く握りしめていた拳をゆっくりと開き、一歩、前へ出た。その目は、戸惑いと、ほんのわずかな光を宿している。
「あんたの理屈はもう信じねえ。だが…このままザーラの犬に戻るよりはマシだ。そのふざけた証文とやらに、俺の未来を賭けてやる」
アルケミウスは彼を、そして絶望の淵に立つ都の民を静かに見据えた。
「この狂気の賭けに乗る者は、他にいるか?」
その問いは、深淵の底から響いてくるようだった。鍛冶師の男に続けとばかりに前に出る者は、すぐには現れない。人々は互いの顔を見合わせ、乾いた喉をごくりと鳴らす。その視線には、恐怖と、侮蔑と、無視できない好奇の色が混じり合っていた。狂人の戯言か、それとも最後の救いの綱か。判断がつかずに、誰もが足元の砂を蹴ることしかできない。
「おい、ヴォルフ。正気か」
鍛冶師の後ろにいた年配の男が、掠れた声で呼びかけた。
「ザーラ様に逆らうことになるんだぞ。水も食料も止められたら、今度こそ干からびるだけだ」
ヴォルフと呼ばれた若い鍛冶師は、振り返らずに答えた。
「もう止められてるも同然じゃねえか。あんたの孫は昨日、泥水を啜って腹を壊した。俺の妹は、もう何日もまともなものを口にしていない。ザーラの気まぐれで配られる僅かな水と食料を待って死ぬか、この狂人の賭けに乗って死ぬか…だとしたら、俺はこっちを選ぶ」
その言葉には、諦めと怒りが奇妙な熱を帯びて混じり合っていた。それは、この場にいる誰もが胸の内に抱えている感情だった。だからこそ、誰一人としてヴォルフを強く咎めることができない。
アルケミウスは静かにヴォルフを見つめ、尋ねた。
「名はヴォルフか。君が賭けるという『未来』とは、具体的に何だ?」
「俺の腕だ」ヴォルフはごつごつとした両の拳を掲げてみせた。「この腕で、鉄を打ち、道具を作る。水を得るための掘削機でも、都を守るための武器でも、あんたが望むものを作ってやる。それが俺の未来だ。……もっとも、鉄も燃料も、今はほとんど残っちゃいねえがな」
自嘲気味に付け足された言葉に、アルケミウスは小さく頷いた。
「それでいい。今はなくとも、未来には手に入る。君の技術と労働力、それを担保としよう」
彼は懐から小さな羊皮紙の切れ端と、炭の棒を取り出した。そこにヴォルフの名と『鉄を打つ腕』と記し始めた。その手つきはあまりに滑らかで、遥か昔からこの行為を繰り返してきたかのようだった。
その時だった。人垣をかき分けるようにして、一人の老婆がよろよろと前に進み出た。皺だらけの顔は土気色で、今にも倒れそうだ。
「わ、私にも…私にも、その証文とやらを…」
アルケミウスは書き物を中断し、その老婆に目を向けた。
「あなたは何を担保にする?」
「この命だ」老婆は喘ぐように言った。「もう長くはない。だが、この命が尽きるまで、水運びでも、繕い物でも、何でもする。だから…だから、孫に、あの子に一口、水を…食料を…」
懇願する老婆の姿に、民衆の間に動揺が走る。それはあまりに切実で、痛ましい光景だった。アルケミウスの目は、しかし少しも揺るがない。
「命は担保にはならない。命は取引の対象ではないからだ」
冷たい言葉に、老婆の顔から血の気が引いた。周囲からも非難めいた囁きが漏れる。
「だが」アルケミウスは続けた。「あなたが持つ『知恵』は担保になる。この砂漠で生き抜いてきた経験、薬草の知識、古い言い伝え。それらは我々が未来を築くための礎となるだろう。あなたの担保は『知恵』だ」
彼は羊皮紙に、老婆の名と『古の知恵』と記した。老婆は呆然と立ち尽くし、やがてその乾いた目から一筋、涙がこぼれ落ちた。
その光景が、凍り付いていた人々の心をわずかに溶かした。
「俺は石工だ!壁の修理なら任せろ!」
「私は織物ができる!砂嵐を防ぐ丈夫な布を織ってやる!」
一人、また一人と声が上がり始める。それはもはや狂気への同調ではなかった。自分たちの内に眠っていた価値を、忘れかけていた誇りを、再び見出した者たちの鬨の声だった。絶望の淵で、人々は自分たちがまだ何も失ってはいなかったことに気づき始めたのだ。
アルケミウスは次々と名乗り出る者たちの顔を一人一人確かめながら、淡々と羊皮紙に書きつけていく。彼の周りには、いつしか長い列ができていた。
もちろん、全員がこの流れに身を任せたわけではない。列から距離を置いた一団の中から、鋭い声が飛んだ。
「待て!そいつの言うことを鵜呑みにするな!食料はどこにあるんだ?その紙切れと交換してくれる食料が、現実にどこにあるって言うんだ!」
ザーラに最も忠実な、彼の配下の者だろう。その指摘は的を射ていた。未来の約束はできても、今日の飢えを満たすものがなければ、すべては絵空事に過ぎない。
シン、と広場の空気が再び張り詰めた。列に並んでいた者たちも、不安げにアルケミウスの顔を見る。
アルケミウスは書き物を終えた最初の証文を、ヴォルフに手渡しながら、静かに答えた。
「食料は、俺が持っている」
その言葉に、誰もが耳を疑った。
「ザーラが独占している備蓄庫とは別に、俺には独自のルートがある。数は多くない。全員を満足させることはできん。だが、この証文を持つ者だけが、未来を担保にした者だけが、それを手にする権利を得る」
彼は自分の背負っていた大きな革袋を地面に降ろした。鈍い音と共に、中から硬いパンと干し肉の塊がいくつか覗く。量は決して多くない。だが、それは確かに本物の食料だった。
「これは投資だ。諸君の未来に対する、俺からの投資だ。さあ、選ぶがいい。ザーラの犬として、いつ尽きるかわからぬ施しを待つか。あるいは、自らの価値を信じ、未来の主となるか」
アルケミウスの言葉は、最後の一押しとなった。疑念の声を上げた男も、ぐっと言葉に詰まる。目の前にある食料と、未来への可能性。天秤は、ゆっくりと、しかし確実に傾き始めていた。
ヴォルフは受け取った羊皮紙を、宝物のように握りしめた。それはただの紙切れだ。だが、今の彼にとっては、ザーラが持つ全ての水よりも、価値のあるものに思えた。彼はアルケミウスが差し出したパンの一つを掴むと、深く、深く頭を下げる。その姿を見て、列に並ぶ人々の決意は、もはや揺るぎないものへと変わっていった。
乾いた風が、新たなざわめきを都中に運び始めていた。それは絶望の呻きではなく、産声を上げようとする世界の、微かな胎動だった。




