砂塵の法則、渇望の都
熱がすべてを支配する。
空気そのものが質量を持ち、肺を灼く。一歩踏み出すごとに、足裏から全身へと伝わる砂の熱が、なけなしの体力を容赦なく奪っていく。
アルケミウス・ヴァルガの視界は、陽炎でぐにゃりと歪む地平線と、どこまでも続く砂の海だけを映していた。かつて王国で唯一持ち出しを許された私物の水筒は、とうの昔に空となっていた。唇は切れ、皮膚はひび割れ、思考は熱に浮かされて明滅を繰り返す。
死ぬ。
その事実を、彼は他人事のように認識する。体内の水分含有率が限界値を下回り、細胞機能が不可逆的な損傷を受ける。熱力学第二法則、エントロピー増大の法則に従い、秩序ある生命体は無秩序な熱と塵へと還る。極めて論理的な結末だ。
追放された故国アルベインを思う。魔法という奇跡で満たされた、緑豊かな国。だが、その繁栄は有限の資源を浪費する非効率なシステムの上に成り立っていた。彼はその非効率性を指摘した。魔力変換効率の低下…その言葉が脳裏をかすめるが、アルケミウスはすぐに思考を切り替える。過去の分析に意味はない。結果が、この砂漠への追放だ。
…効率が悪い。死ぬにしても、この死に方は。
膝が折れ、熱い砂に身体が沈む。薄れゆく意識の中、アルケミウスは自らの死のプロセスを、最後の思考実験としてただ冷静に観察していた。
「おい、あんた! 生きてるかい!?」
不意に、頭上から声が降ってくる。砂埃にまみれた顔をわずかに上げると、逆光の中に人影が見えた。水を運ぶための天秤棒を担いだ、快活そうな少女だった。
少女――イムルは、アルケミウスのそばにしゃがみ込むと、腰に下げた革袋の口を開ける。中から、ぬるいが間違いなく命を繋ぐであろう水の匂いが立ち上った。
「ほら、少しだけど飲みなよ!」
差し出された革袋を、しかしアルケミウスは乾ききった唇で拒絶する。
「…非効率だ」
かろうじて紡いだ声は、砂のように掠れていた。
「君の持つその水は、この環境下における君自身の生存可能時間を延長するためのリソースだ。それを、回収不能な俺という負債に投資する価値はない」
「はぁ!? 何言ってんだい、あんた!」
イムルの眉がつり上がる。
「理屈はいいから、今は生きることを考えなよ! あんた、死にそうな顔してるくせに、なんでそんなに落ち着いてるんだい?」
「事実を観測しているだけだ。感情は…計算を狂わせる」
アルケミウスの瞳を、イムルは食い入るように見つめる。その瞳には、絶望も諦観もなかった。ただ、目の前の現実を解き明かすべき数式として捉えているかのような、異様なほどの静けさがあった。
この男は、死にかけているのではない。死という現象を、理解しようとしている。
イムルは、その瞳の奥に宿る冷たい光の底に、まだ消えていない熾火のような何かを感じ取った。彼女は小さくため息をつくと、お節介かもしれないけど、と呟きながら、アルケミウスの腕を自分の肩に回した。
「いいから、ついてきな! あたしの都は、すぐそこだよ」
その行動は、アルケミウスの計算にはない、完全に非論理的な選択だった。
次に目覚めた時、鼻をついたのは埃と、わずかな薬草、そして淀んだ水の匂いだった。
アルケミウスが横たわっていたのは、日干し煉瓦でできた家の、硬い寝台の上だった。壁の隙間から差し込む光が、部屋の貧しさを照らし出している。
「気がついたかい?」
水を運んできたイムルが、安堵の表情で覗き込んできた。彼女は汚れた杯を差し出す。今度は拒まなかった。一口飲むと、泥の味がしたが、乾いた喉には染み渡る。
「ここはアシャルの都。見ての通り、何もない亡国さ」
イムルは語る。かつては栄えた都市国家だったこと。しかし、今では商人ギルド「砂海の蠍」が全ての井戸を支配し、人々は彼らから法外な値段で水を買い、その日を生き延びていること。
「この杯一杯の水で、金貨一枚。あたしたちみたいな水運びが一日働いて、ようやく家族が喉を潤せるかどうか」
彼女の視線の先で、部屋の奥から苦しそうな咳が聞こえる。汚れた水が原因の病に、彼女の家族は苦しんでいるらしかった。この都では、渇きと病が絶対的な支配者として君臨している。
その理不尽な現実を、アルケミウスは静かに分析する。需要と供給の極端な不均衡。独占による市場価格の支配。情報の非対称性。富める者はさらに富み、貧しい者は命の水さえ奪われる。構造は、単純だ。魔法という奇跡が根こそぎ失われたこの都で、この不均衡を覆す術はあるのか。彼の思考は、既に物理法則の中に答えを探していた。
「昔みたいにさ、偉大な魔法使い様が現れて、この乾いた大地に綺麗な泉を湧かせてくれたら…なんて、夢みたいなこと考えちゃうよ」
イムルが自嘲気味に笑う。その儚い希望の言葉に、アルケミウスはゆっくりと首を横に振った。
「魔法は奇跡ではない」
彼の声は静かだったが、部屋の空気を震わせるほどの確信が込められていた。
「エネルギーの形態を変換する技術に過ぎない。そして価値は、無からは生まれない」
それは、魔法の恩恵に浴し、その限界から目を背ける故国アルベインへの痛烈な皮肉。そして、この世界の根源を成す、揺るぎない物理法則そのものだった。
翌日、体力がわずかに回復したアルケミウスは、寝台から身を起こした。
「君に借りを作ったままだ。…故に、返済する義務がある」
彼の唐突な言葉に、イムルはきょとんとする。
「助けたのはあたしが好きでやったことさ。見返りなんていらないよ」
「等価交換の原則に反する。それは非効率なだけでなく、関係性の不均衡を生む。俺はそれを好まない」
アルケミウスは、都の根本的な問題が水の供給にあると結論付けていた。ならば、自身の知識でその問題を解決することこそが、最も効率的で論理的な借りの返し方だった。
彼はイムルに、都で最もガラクタが集まる場所へ案内するよう要求した。
半信半疑のまま、イムルは彼を都の外れにある廃品置き場へと連れて行く。そこは、かつての都の繁栄の残骸が、巨大な墓標のように積み上げられた場所だった。錆びた金属、砕けた石材、そして風化した木材。鼻を突くのは、錆と腐敗の混じった乾いた匂いだ。
アルケミウスはそのガラクタの山を、まるで宝の山でも見るかのように丹念に検分し始めた。彼はまず、かつて窓や容器に使われていたであろう、厚みのあるガラスの破片を探し始めた。陽光を反射する無数の破片の中から、彼の求める曲率と厚みを持つものはなかなか見つからない。時間をかけて、ようやく掌大のものをいくつか選び出す。
次に、腐食の進んだ金属管。かつての水道設備の一部だろうか。内側まで錆に侵されていない部分を見つけ出すのは骨が折れる作業だった。
最後に、大きく破れて防水性も失われた革袋を数枚。
集めたガラクタを前に、イムルが不思議そうに首を傾げる。錆びた金属、ひび割れたガラス、そして防水性も失われた革袋。とてもではないが、命の源を生み出す材料には見えなかった。「ねぇ、こんなガラクタ集めて、一体何をするつもりなんだい?」
アルケミウスは、革袋から一番大きなガラス片を取り出し、太陽に翳す。その瞳は、もはや死の淵にあった男のものではなかった。揺るぎない知性に裏打ちされた、静かな闘志の光を宿していた。
彼は初めて、まっすぐにイムルの目を見て答えた。
「…水を作る。魔法ではなく、法則で」
その宣言は、この渇いた都に投じられた、最初の小さな一石だった。
彼らが廃品集めを終え、使えそうな材料を革袋に詰め込んで都へ戻ろうとした、その時だった。
「おい、そこでコソコソしてるのはどこのネズミだ?」
不快なほどに粘ついた声が、ガラクタの山の陰から響く。現れたのは、蠍の紋章をこれ見よがしに身につけた、二人組の男たちだった。商人ギルド「砂海の蠍」の下っ端だ。
「よそ者が勝手にゴミを持ち出すんじゃねえよ。この都のモンは、ゴミの一粒までギルドの所有物だ」
男たちは、威圧するようにアルケミウスたちににじり寄る。イムルがとっさに彼の前に立ち、庇うように両腕を広げた。
「この人はあたしの連れだよ! 悪いことなんてしてない!」
「ああ? 水運びのイムルか。いつもみたいにギルドに逆らうつもりか?」
男の卑しい視線がイムルをなめる。
アルケミウスは、その一連のやり取りを、一言も発さずにただ見ていた。恐怖も怒りもない。彼はただ、敵の体格、装備、声のトーン、そしてイムルの反応から得られる情報を冷静に収集し、分析していた。無用な衝突は、現時点ではリソースの無駄遣いだ。
彼はイムルの腕をそっと引き、踵を返す。男たちは嘲笑の声を上げたが、それ以上追ってくることはなかった。
背中に浴びせられる罵声を無視し、アルケミウスは無言で歩き続ける。その沈黙は、敗走ではなかった。敵の戦力を値踏みし、次の一手を思考するための、静かな序曲だった。
イムルの家に戻ると、アルケミウスはすぐに作業に取り掛かった。夜が更け、都が静寂に包まれる中、彼は集めたガラクタを驚くべき精度で組み上げていく。
夜明けの光が、壁の隙間から細く差し込む。
その光の中に、一夜にして組み上げられた奇妙な装置が姿を現した。厚いガラス片を革でつなぎ合わせた集熱部、錆びた金属管を曲げて作られた冷却管、そして汚れた水を溜める容器と、生成された水滴を受ける小さな杯。それは、お世辞にも美しいとは言えない、粗末なガラクタの集合体だった。
アルケミウスは、朝日が反射するガラス管を、感情の読めない瞳で見つめている。
そして、彼は静かに呟いた。
「…検証を開始する」
果たして、彼の知識は、この渇ききった砂漠の都に、一滴の希望を生み出すことができるのか。




