気さくな英雄と、平凡な村娘
目を開けると、そこは久しぶりに見た天井だった。
柔らかな陽光がカーテン越しに差し込んでいる。心なしか空気はあたたかく、ベッドに染み付いた香りも、どこか懐かしい。
「戻ってきたか」
ゆっくりと体を起こす。長い夢から目覚めたような、けれど全身にわずかに残る焦げた空気の感触が、あれが夢などではなかったことを静かに物語っていた。
ここは王都。
しかも、王都で最も裕福とされる第一地区。特に高台に建つ僕の屋敷。かつて何度も出入りを繰り返し、セラに追い回され、書類に埋もれて死にかけた、あの家だ。
「本当に戻ってる…何回使っても奇跡の力だな」
呆れたようにそうつぶやいてから、ゆっくりと窓へ歩み寄る。
カーテンを開けた瞬間、目に飛び込んできたのはまだ何も壊れていない、美しい王都の姿だった。
整った石畳の通りに、人々が行き交い、商人たちの威勢のいい声が朝の空気を彩る。白い塔の尖端は朝日を浴びて輝き、街には活気と平和が満ちていた。数時間前に、僕自身の手で焼き尽くしたはずの都市が、何事もなかったようにそこにある。
手元の懐中時計が、わずかに音を立てた。次の起動までしばらくは動かない。
「エリーナを、放浪者にするわけにはいかない」
窓の外に広がる王都の景色を見下ろしながら、僕は小さくつぶやいた。
放浪者。本来、彼女がその名で呼ばれることになるのはもっとずっと先の未来。
希望を捨て、誰の言葉にも心を閉ざし、ただ生きるため魔物を狩るためだけに剣を振るう存在へと変わっていった。人々に畏れられ、奇異の目で見られ、どこから来たのかわからない者として、その名を「放浪者」と変えられていく。
そんな未来を、僕はもう繰り返したくない。
村が滅びる原因は、今から2週間後の魔族の襲撃だ。
今なら、間に合う。村が滅ぶまで、あと……二週間。
「急がなきゃな……セラに書類押しつけられる前に」
家族を失い、村が焼かれ、誰も助けに来なかった話。
そして、自分一人だけが生き残ったという、呪いのような事実。
その記憶を語る彼女の声は震えていた。でも最後に、かすかに笑って言ったのだ。
「だからもう、どこにも帰る場所なんてないの」
その笑顔が、今も焼き付いて離れない。だったら、今回こそ。その村が滅ぼされる前に、彼女を連れ出す。放浪者にならずに済むように。
村の滅びが確定しているのが、あと2週間ならば、それよりも早く戻って、自然な形で村から連れ出せれば、失敗のリスクは減る。頭では、それが理にかなっていることはわかっているけれど、できない理由が、ちゃんとある。
この地位を失うわけにはいかない。
今の僕は英雄として、王都に地位を築いている。
上位貴族と対等に言葉を交わし、王族にすら干渉できるほどの影響力を持っている。
だからこそ、王都の資源を動かし、馬車を手配し、村の防衛すら独断で動ける。
だが、この英雄という肩書きが得られたのは、前回の戦争で功を挙げたからだ。それがつい先日というわけだ。つまり2週間以上は伸ばせない。
もし、その戦争に参戦せずに、ただ東の小さな村へ向かっただけだったら、その未来の僕は、ただの「有能な兵士止まり」で終わっていたはずだ。
王都に無視され、誰の助けも得られず、今のような機動力も情報も失われる。
いくら知識と経験があっても、それを実行できる力を持たなければ、意味はない。
世界を救って、エリーナも救って、セラも救って……あわよくば、他の仲間たちも。誰一人、失わずに済む未来を手に入れたい。
エリーナ一人を助けるためだけなら、もっと早くに動いていればよかったかもしれない。けれど、彼女だけを助けることが僕のゴールじゃない。
「……なーに難しいこと考えてんだか」
自分で言って、ふっと笑った。
ずっと頭の中でこねくり回していた理想と現実の天秤。
英雄の座、王都の支配力、戦力の確保、誰を守るか、どこまで救えるか。
ぐるぐると、考えて、悩んで、結局この結論に至る。
「要は、今から一日か二日で行けばいいだけだろ!」
声に出すと、不思議なほどスッキリした。
やることはシンプルだ。村に行く。守る。彼女を生かす。
たったそれだけ。ゴチャゴチャ悩むより、まずは動けって話だ。
「僕一人で村を守ることになるけど……」
馬車で地道に行く暇はないので、サクッと全速力で空を飛んでいくつもりだ。デメリットは僕一人しか行けないことだ。
ずっと孤独な戦いだったし、慣れてる。それに、過去のループで手に入れた魔法、戦術、罠の知識、全部使えば、一人でもやれない相手じゃない。
机の上に置かれた地図に目を走らせる。ルートは完璧に頭に入っている。
「よし、いくか」
玄関を開けると、そこにはセラがいた。
いつものように清楚な制服姿で、手にはスケジュール帳。朝露をまとった白い髪が風に揺れ、彼女は変わらぬ落ち着いた声で言った。
「おはようございます。本日の予定は、午前中に報告会、午後は貴族議会との面談…」
「ごめん!」
僕は一歩踏み出し、両肩をガシッと掴んだ。セラの瞳が、わずかに見開かれる。
「今日は本当に!付き合ってる暇はないんだ!ほんとに!世界の存続がかかってるんだ」
自分でもちょっと情けないと思うくらい必死な声だった。でも冗談を言っている場合じゃなかった。あと二週間で村が滅ぶ。間に合わなければ、エリーナはまた…。
「……また、未来予知ですか?」
「時間がない。だから、僕一人で行く。悪いけど、今回は付き合わせられない」
ほんの一瞬、セラの瞳に揺らぎが走った。
だが、すぐにそれを押し込めて、静かに頷いた。
「貴方がそういうなら、相当な用事なんですね。王都のことは、お任せを」
「……ありがとう、セラ」
「帰ってきたら、仕事山積みにしておきますから。逃げるなんて許しませんよ?」
「やめて、それだけは回避したい」
「なら、生きて帰ってきてください。確実に間に合わせて」
肩を掴む手をそっと外される。セラの声は穏やかで、けれど芯のあるものだった。信じてくれている。何も聞かずに。
コートを翻し、魔法具に魔力を流し込む。
瞬間、足元の空間がゆがむ。空間転移と高速移動を組み合わせた加速式飛行陣。
その身を風に乗せ、王都の高塔を一気に飛び越えた。
目的地は、例の村。あの子が、まだ何も知らずに笑っていられる、最後の猶予時間。
英雄としての地位は大事だが、パレードも式典も演説に関してはどうでもいいと思っている。セラがまた影武者で対応してくれるだろう。
とはいっても、この飛行魔法は長くはもたない。
高性能の術式とはいえ、維持できるのはせいぜい一日、無理に出力したらオーバーヒートしてしばらくは使えなくなるが、壊れるまで使い倒すつもりだ。
「……やっぱり、速度だけは完璧なんだよな。おえっ…」
いくら最速を誇る飛行魔法でも、距離を移動するには限界がある。
ましてや連発すれば、転移酔いみたいな症状が出る。吐き気と頭痛のコンボ。実際きつい。
「本格的に、具合悪すぎて死にそう……」
額に冷や汗がにじむ。
風圧に揺れる体勢、上下左右に微妙にブレる高度、目の前の景色がぐんぐん流れていく。とにかく、酔う。
空を飛ぶこと自体はできる。魔力量も制御も問題ない。
問題なのは、三半規管と胃袋の弱さだった。
一瞬でも気を抜けば、落ちる。かといって視線を固定してても、酔う。高速で移動する景色が、頭にクラクラくる。
「……エリーナのため……エリーナのため……」
マントがバサバサと鳴り、空を切る音が耳に響く。
空気が冷たくなり、雲が近づいてくる。
「誰か代わってくれ……いや、無理だ、僕しかいない……ぐぅ」
もはや何と戦っているのかわからないが、とにかく前進あるのみ。
でも、今日だけは最短で向かう。
確かに見える街道沿いにちらほら見える困った顔、倒れた荷馬車、襲われた旅商人…普段なら全部止まって助けてた。名乗らずに片づけるのがらしいって評判だったしね。
「ごめん、今日は無視。お休みです」
そのまま加速陣のエネルギーを最大まで高め、一気に高度を上げる。
向かう先は、あの村。
今回は、英雄として村に遊びに来たという設定でいこう。お忍びでもない、任務でもない。ただの顔出し、視察ついでの立ち寄りってことにする。
あの子が、少しでも不審に思わずに話してくれるように。強引に連れ出すようなマネは、なるべくしたくない。
そして地平線の向こうに、懐かしい村が見えるはずだ。
「さて……英雄様が村に視察に来ましたって顔、用意しないと」
地上に降り立ち、まずは体にたまったものをすべて吐き出した。
そしてコートの裾を整え、深呼吸を一つ。
次の一歩が、全てを変えるかもしれないと知りながら、僕は歩き出した。
「演技をするのは、得意だからね」
誰も聞いていないのに、僕はぽつりと呟いた。自嘲でもなく、誇らしげでもない。ただの事実として。王国のため、民のため、仲間のため。英雄として、何百回と理想の自分を演じてきた。笑顔も、決めゼリフも、感動的な演説も全部、台本通り。
……だからこそ、今回も上手くやってみせる。
何も知らない彼女の前で、ただの「気さくな英雄」として振る舞うくらい、朝飯前だ。
「……さりげなく迷い込んだという設定で村に入っていく。完璧だ」
村の入り口に立つ前に、服の乱れを増やし、マントの泥を軽く払い、わざと少し髪を乱す。移動中に少し道を間違えましたくらいのリアル感を演出しないと。
英雄様が地図を読めずに迷う。ちょっとした伝説になるだろうが、それもまたよし。
「さて……自然体で、気取らず、やさしい英雄の再現っと」
一歩、村に足を踏み入れた。
土の匂い。干した麦わら。風に乗って聞こえる鶏の鳴き声。変わらない、温かい音と空気。数人の子どもたちがこちらを見て目を丸くする。
「あっ、あれ……あの人……」
「えっ!? かっこいい……え、ねえ、あれ、英雄様じゃない!?」
騒ぎになる前に、僕はすっと人差し指を立てて口元に当て、片目を閉じる。
「ちょっと道に迷っちゃってね。少し休ませてもらえるかな?」
名乗らず、騒がせず、印象は強く。
英雄としての威厳は保ちつつ、謙虚さを忘れない。それが演技のコツ。
わざとらしく首をかしげて地図を広げながら、僕はわざと子どもたちの前で呟いた。
「このあたりで、いちばん地理に詳しい子っているかな?」
すると、待ってましたとばかりに、すぐそばにいた小さな男の子が手を挙げた。
「エリーナ!」
その声が空に抜けていくのと同時、少し離れた家の戸口から、小走りに少女が現れる。
軽く結んだ髪、動きやすそうなチュニック。少し汗ばんだ額を手の甲で拭いながら、彼女は駆け寄ってきた。
「はいはい、どうしたの?また畑に何か虫でも出た…」
そこで、僕と目が合う。
ぴたり、と足が止まった。
彼女の瞳が、わずかに見開かれる。
僕はというと、地図を軽く畳みながら、あくまで自然体の笑みを浮かべた。
「えぇ……ど、どうしよう……!こんな質素な村に、英雄様!?なにか、なにかおもてなししないと……!」
顔を真っ赤にして、周囲をきょろきょろと見回す。
突然現れた英雄に、素朴な村娘として当然の反応。
困ったように手を握りしめ、立ち尽くすその姿は、どこか昔と変わっていなくて僕の胸が少しだけ痛んだ。
「……あはは、大丈夫だよ。良いって、良いって。ただ、ちょっと休める場所があれば、それだけで充分さ。ね?」
その一言で、彼女の表情がぱっと少し緩む。
けれどまだどこか落ち着かない様子で、口元を指でいじりながら、
「え、えっと、じゃあ、家に……案内、します……。座布団とか、干してたけど、まだ乾いてないかも……!」
そう言いながらも、歩き出すその背中には、ちゃんと歓迎の気持ちが滲んでいた。
僕は静かに、そのあとをついていく。
この空気。何も知らない彼女と、秘密を抱えて笑う僕。演技は、完璧に進んでいる。
でも、どこかでほんの少し、こういう日常に本当を混ぜられたらなんて、ふと思ってしまう。
湯気の立つお茶を一口すすったあと、彼女はふと首をかしげるように聞いてきた。
「それで……何でこの村に来たんですか?こっちは、至って平和な地域ですよ?」
たしかにそうだ。少なくとも表面上は。
のどかな風景、穏やかな住人、何の変哲もない小さな村。
だからこそこの村が狙われる理由なんて、誰も思いもしない。
僕は一度だけ、カップを置き、彼女の瞳をまっすぐ見た。
「いや、そうでもないんだ。偵察兵の情報によれば、すでにこの村の北西、深い森のあたりに、大量の魔物が集結している。種類はバラバラ。でも、異様に統率が取れているらしい」
「っ……それ、本当……?」
「残念ながら。本部からの増援を待っていると確実にここは滅びる。ま、安心してよ!そのために僕がいるんだから」
言葉は軽い。でも、その裏にある覚悟を僕自身はよく知っている。
けれど彼女は、ふと真顔になって、少し考え込むように俯いた。
「それは、ありがたいんですけど」
言葉を選ぶように、ゆっくりと視線を上げる。
「英雄様が、わざわざこんな辺鄙な村まで出向いて、命を懸けて救う……そのメリットって、あるんですか?」
その言葉の裏には、彼女なりの理性と現実感がある。
善意だけでは動かないことも知っている。
人を助ける理由の中に、時に打算があることを、彼女は理解している。
「す、すみませんっ! 不敬でした! そんなつもりじゃ!」
顔を真っ赤にして、彼女は慌てて頭を下げた。
礼儀正しく、そしてどこか気を使いすぎるその姿に、僕は思わず苦笑する。
「ううん、大丈夫。むしろ、よくぞ聞いてくれたって感じ。メリットね……そうだな、ないよ」
「え?」
「僕がここに来る理由に、得なんてない。誰に命令されたわけでもないし、報酬があるわけでもない。むしろ、僕がいない間に他の地域が襲われるリスクすらある」
「じゃあ……なんで?」
「誰か一人を救いたいって思ったとき、それが世界を救うよりも、大事になることだってある……それだけだよ」
「この村に誰か知り合いでもいるんですか?」
「うん、昔その人に助けられてね。僕の命にかけても守りたい人がいるんだ」
視線をゆっくりと横に向ける。そこにいるエリーナの姿を、僕はまっすぐに見つめた。
彼女は驚いたように瞬きをして、ほんの一瞬だけ、頬を赤く染めた気がした。
「そんなすごい人がこの村に……?誰だろう。村長? いや……まさか、鍛冶屋のおじさん……?」
小さく首を振りながら次々に候補を挙げていく彼女の様子に、僕は思わず笑ってしまいそうになった。
けれど、今はまだ言えない。ただ、胸の奥にあるこの想いを、そっと握りしめるように、僕は目を閉じた。
「言いにくいんですけど、さっきから死にそうなというか…大丈夫ですか?」
「あはは、そんなにヤバい顔してた?」
「はい、正直、ちょっと幽霊に片足つっこんでます」
「それは手遅れじゃない?」
自分でもふらついてるのがわかる。限界はとうに超えていた。
タイムリープした直後に超高速飛行して、盛大に酔って三半規管も死亡。この村に入ってからは気の抜けない演技の連続。
誰にも悟らせないように振る舞いながら、内心ではずっと神経を張り詰めていた。
「布団をご用意しますね」
「助かるよ。ちょっとだけ……目を閉じさせてもらうね」
案内されたのは、客間代わりの小さな部屋だった。
畳の香りが落ち着く。窓から差し込む夕方の光が、静かに床を照らしていた。
その隅に、まだ少し日が残る布団が丁寧に敷かれている。
清潔な布団って、こんなにありがたかったっけ。
「……ああ……」
柔らかな感触に、体がゆるむ。
全身の力が抜けていき、瞼が勝手に重くなる。
仮眠と自分に言い聞かせながら、意識はあっという間に沈んでいった。




