予定よりはやい決戦
家に帰ってきた俺は、ぐったりとしたエリーナの身体をそっとベッドに寝かせた。
その顔はまるで眠っているだけのように穏やかだったが、俺には分かっていた。
これはただの眠りじゃない。魔王の洗脳によって、彼女の意識は深い闇の奥底に囚われている——。
目覚める気配はない。
まるで心だけが抜け落ちた人形のように、彼女は何の反応も示さなかった。
「……くそっ」
声にならない声を噛み殺して、俺は拳を握りしめた。
エリーナが意識を失ってからの1週間、僕たちは不安と焦燥の中で、何度も作戦会議を重ねた。
夜の静けさに包まれたリビング。
机の上には開きっぱなしの地図、乱雑に置かれたメモ、いくつものコーヒーカップが並んでいる。
それらは、俺たちがどれほど必死だったかを物語っていた。
「魔王がもう動き出すのは…正直、予想外だったな。このままじゃ、次は誰がやられてもおかしくない」
誰も否定しなかった。
エリーナの安らかな寝顔が、皮肉にもその事実を突きつけてくる。
「……予定より早いが、魔王を討伐しに行く」
そう口にした瞬間、空気が変わったのを感じた。仲間たちは一様に顔を強ばらせ、沈黙の中に不安の色がにじむ。当然だ。あの魔王は、これまで幾人もの人間を返り討ちにしてきた。僕らもまだ全ての準備を終えていたわけじゃない。
「勝機はあるの?」
「僕の指示通りに動いてくれればな……僕は奴の行動パターンを熟知している」
それは事実だ。何度も、何十回も、僕はあの魔王と対峙してきた。奴の癖、思考、攻撃のリズムは頭の中にある。
仲間たちはまだ不安げだった。彼らの気持ちはわかる。僕だって怖くないわけじゃない。だけど——
「ミスっても僕が何とかする」
そう言い切った自分の声に、ほんの少しの震えがあったことを、誰も気づかなかったと思いたい。
それでも、あの目を見れば、信じてくれていることがわかる。仲間たちの視線が、少しずつ迷いを手放し、覚悟に変わっていくのがわかった。
「ほんと、俺たちってさ。知り合ってまだ間もないってのに、ずっと一緒に戦ってきた感じするわ。俺は、アルセイドの言うことを信じるぜ」
その一言に、思わず目を伏せた。
「ありがとう」
「でも、エリーナさんは置いていった方がいいのでは。いつ魔王に狙われるか分からないですし…強くなったとはいえ……まだ子供です。それに、いつ目覚めるか……」
「奴がエリーナを狙って王都に来る可能性も否定できない。だから僕は連れていくべきだと考えているんだが…」
「私も行きます!」
意見の対立をしていると、勢いよく扉が開いた。
振り返った先に立っていたのは、確かにエリーナだった。白い毛布がはだけ、細い腕で身体を支えるようにして、立ち上がっていた。ふらつきながらも、目は確かに、強い意志を宿していた。
「エリーナ……もう動けるの!?」
一週間、まったく目を覚まさなかった。何をしても、どんな魔法をかけても反応がなかった彼女が、今、まるで何かに導かれるように、自らの意志で立っている。
ふらつきながらも、エリーナは一歩ずつこちらへ歩み寄ってくる。頬はまだ少し痩せているし、肌も青白い。けれど、彼女の言葉は、どこまでもはっきりとしていた。
「私……ただ守られるだけの子供じゃありません。アルセイドの隣に、私も立ちたいんです」
「危険すぎます」
「ここで寝ていても危険です。アルセイド様の言う通り、ここに来る可能性もあります」
エリーナの中に燃えていたのは、恐怖でも無謀でもない。覚悟だった。自分が狙われる存在だと分かっているのに、それでも、戦うことを選ぶという覚悟。
僕が黙り込んだのを見て、エリーナは一歩、よろけながらも僕の方へ足を踏み出した。
「アルセイド様。私は……あなたのことを信じてます。あなたも、私の意志を信じてくれませんか?」
その言葉が何度も頭の中で反響していた。守られるだけの子供じゃない。自分の意志で、隣に立ちたいと。
その姿を見ていたら、もう拒めなかった。
「はぁ…分かりました。ただし条件がございます」
セラ一歩、彼女のそばに近づき、目線を合わせた。迷いは、もうない。
「絶対に……アルセイド様の傍を離れないでください。いいですね?」
エリーナは少しの間、僕の目をまっすぐに見つめたあとこくり、と力強く頷いた。
「はい、絶対に……アルセイドの傍を離れません」
その声には、もう迷いなんてなかった。少女は、守られる者から、共に戦う者へと変わったのだ。
「決行は来週だ。現場では僕が指示を出す。でも……それだけじゃ不十分だ。みんなにも、魔王の行動パターンを把握しておいてほしい。油断は命取りになる。どんな小さな兆候も見逃さないように。まとめたものを明日持ってくる」
「今日の所は解散ってことでいい?」
そう告げると、全員の表情にうなずきのような反応が見えた。誰も軽くは受け取っていない。わかってる。あいつと戦うということが、どういう意味を持つのか。
少し気の抜けたような口調に、ほんのわずか場が和らぐ。緊張しっぱなしじゃ、誰だって潰れてしまう。彼女なりの気遣いだったのだろう。
「ああ。好きにしてくれ」
仲間たちはそれぞれ腰を上げ、机の周りから散っていった。剣の手入れを始める者、静かに祈りを捧げる者、ただ星空を見上げる者。
明日は、さらに準備が進む。そして来週、すべてが決まる。
だから今夜くらいは、それぞれの時間を過ごしてくれていい。僕自身もまた、これから眠る間際まで、資料を見直すことになるのだろうけれど。
ペンの先が、紙の上を走っていた。
自分の記憶を辿るように、ひとつひとつ――魔王の行動パターンを、脳内から紙へと引きずり出していく。初手の構え、魔力の集中癖、特定の言葉のあとに高確率で来る範囲攻撃……。
机の上は、すでに何枚もの紙で埋まっていた。乱雑に見えるかもしれないが、すべてが意味のある断片だ。あとはこれらを整理して、明日、仲間たちに渡せるようまとめあげるだけ。
思考が深く潜ったそのとき、ノックの音が、静かな部屋の空気を割った。
手が止まり、少しだけ視線を扉へ向ける。こんな時間に誰だろうか。
ペンを置き、軽く背もたれに体を預けた。
「どうぞー」
返事をすると、ゆっくりと扉が開く。
姿を見せたのは、エリーナだった。
「アルセイド様……忙しいのにごめんなさい」
おずおずとした声。だけど、その瞳には揺るがない意志が宿っていた。眠る前に、何かを伝えたくて来たのだろう。あるいは――ただ、心がざわめいていたのかもしれない。
「いいよいいよ。何か用?」
「……ただ、傍にいたいだけです」
その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。そう言われて、悪い気がするはずもない。むしろこんな時だからこそ、誰かがそばにいるだけで救われる瞬間がある。
「……僕の上、座る?」
軽く冗談めかして言ったつもりだった。けれど、その瞬間。
「えぇ……!?申し訳ないです!」
エリーナは顔を真っ赤にして後ずさり、手をぶんぶんと振り回しながら声を上ずらせた。
思わず吹き出しそうになるのをこらえて、僕は肩をすくめる。
「冗談だよ。椅子、もう一つ持ってこようか?」
「……はい……お願いします……」
僕は立ち上がり、部屋の端に寄せてあった折り畳みの椅子を引っ張り出す。少しだけぎしりと音を立てながら開いて、机のすぐ横にそっと置いた。
「ほら、ここ」
「……ありがとうございます」
エリーナはおそるおそる腰を下ろし、僕のすぐ隣で小さく背筋を伸ばした。無言のまま、紙に並ぶ走り書きの戦術メモをじっと見つめていたけれど、やがてぽつりと口を開く。
「やっぱり……怖いです」
その声には、作戦会議のときの毅然とした表情はなかった。どこか、眠る前の少女のような、素直で脆い響きが混じっていた。
「自分で大口叩いといて、いざ寝ようとしたら、怖くて」
僕はペンを止めた。
彼女は自分の拳を両膝の上でぎゅっと握りしめていた。指先が白くなるほどに力がこもっていて、その姿はまるで、何かにすがるように見えた。
僕は無理に言葉をかけなかった。ただ、「そうか」とだけ、静かにうなずく。
怖いのは当然だ。魔王と戦うなんて、誰だって震える。けれど、それを「怖い」と言えることは、決して弱さじゃない。むしろ、それを隠さずに話せる強さを、彼女は持っている。
「……ま、君を巻き込んだのは僕だしな。急に村に現れてさ。急に強くなれって言って……本当に、勝手だったと思うよ」
でも――彼女は、期待以上の強さで応えてくれた。剣の腕も、精神も。彼女はもう、ただの少女じゃない。
「その責任は……ちゃんととるつもりだよ」
僕の言葉を受けて、何かをゆっくりと心の中で噛みしめるように。手の震えはもう止まっていて、代わりにその瞳に灯っていたのは――優しくて、でもどこか覚悟のにじむ光だった。
やがて、エリーナは小さく笑って言った。
「……確かにそうですね。私の人生を、良い意味でめちゃくちゃにした責任……ちゃんと取ってくださいね」
めちゃくちゃにしたなんて言われるのは、普通なら少し傷つく言葉かもしれない。でも、その言葉には恨みも皮肉もなかった。
「任せとけ」
ふと気づけば、時計の針は日付をとっくに回っていた。
エリーナは隣で静かに座ったまま、もう何も言わず、僕の資料をぼんやりと眺めている。けれど、まぶたは時おりゆっくりと落ちかけ、肩もわずかに揺れていた。
さすがに、眠気には勝てないか。
僕はペンを机に置いて、軽く声をかけた。
「エリーナも、もう自分の部屋に行って寝な?明日はこの膨大な資料を読むことになるんだからさ。寝不足じゃ集中力持たないよ」
苦笑交じりに言うと、エリーナは小さく目をこすりながら、恥ずかしそうにうなずいた。
「はい。でも、なんか……ちょっとだけ落ち着いて、安心できました」
「そりゃよかった。僕はまだこの地獄の整理作業が残ってるけどね」
「ふふっ……お疲れ様です」
エリーナは椅子からそっと立ち上がり、眠たげな足取りで扉へ向かう。けれど、出る直前、ふと振り返って目を細めて、優しく微笑んだ。
「おやすみなさい、アルセイド様」
「おやすみ。ちゃんと寝ろよ」
扉が静かに閉まったあと、僕はふぅと息を吐いて、目の前の紙の山に視線を戻す。
さて。あと十枚、いや二十枚……本当に、誰がこんなに書き散らしたんだよ……僕だ。
頭をかきながら、またペンを取った。夜は、まだ長い。
朝の光がカーテン越しに差し込みはじめた頃、ようやく僕はペンを置いた。
頭がぼんやりしていて、目の奥がじんじんと痛む。けれど、資料は完成した。眠気も疲労も、その達成感の前ではかすれて感じた。
ふらつく足取りで自室を出て、リビングに向かう。廊下を歩くたびに、体が重力に逆らって軋むようだった。
扉を開けると、真っ先にライガの声が飛んできた。
「うわ……死にそうな顔してるけど、大丈夫か?」
冗談めかして言いながらも、彼の眉には少し心配がにじんでいた。
僕は何も言わず、手に持っていた分厚い黒表紙のファイルを、リビングのテーブルの上にそっと置く。
「そこに全部書いてある」
その一言に込めたのは、徹夜の努力だけじゃない。僕が今まで見てきた地獄と、それをどう乗り越えるかの道筋全部だ。
書いている最中、何度も手が止まりそうになった。でも、そのたびに思い出した。誰のために、何のために自分が動いているのかを。
ライガが興味津々な顔で身を乗り出し、勢いよくページをめくる。パラパラという紙の音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
「わー……すっげ。めっちゃ細かく書いてあるじゃねえか」
彼の声には驚きと、少しの尊敬が混じっていた。
僕はソファに沈み込むように座り、目を閉じる。ようやく、準備は整った。
あとはこれを、どう使うかだ。




