世界の終わり
王都には、平和が戻っていた。
かつて魔物が跋扈し、黒炎の魔王に怯えていたこの地は…今では子供の笑い声と、鐘の音に包まれている。
英雄アルセイド・グランフェル、僕はその名で称えられた。
幾度もの戦いを越え、世界を救った存在として。
広場に集まった民衆は、僕が語る「未来への希望」を聞きに来た。
いつものように演説を。安堵と祝福を。
僕は一歩、演説台の端に出て、群衆を見渡す。
「アルセイド様だ!」
「英雄様が来たぞ!」
誰もが穏やかな顔で笑っている。祭りのように、未来の話をしながら。
本当に腹が立つほど、幸せそうだ。
「皆さん、お集まりいただき感謝します」
声は澄んでいた。英雄としての声。
言葉一つで千を導き、万を救ってきた口が、今日もまた民衆を魅了する。
「長きに渡る戦いは、終わった。魔王は討たれ、世界は救われた。皆の努力と祈りが、平和を呼び寄せた」
歓声が広場を包む。
花びらが舞い、楽団が音を奏で、人々は涙を浮かべながら笑っていた。
英雄の言葉を待ち望んでいた。世界の象徴として、僕がその場に立っていた。
「ありがとう。今日という日を迎えられたのは、皆さんのおかげです」
人々がさらに盛り上がる。拍手。歓声。祝福の歌。
その光景を見つめながら、僕は微笑みを浮かべた。
そして、その笑みのまま、言葉を吐き出す。
「でも、祭りを楽しむ皆さんの顔を見て…僕は本当に吐き気がしました!このクソ野郎どもが!」
くだらないざわつきが走るが、僕は構わず続ける。
「僕がどれだけの命を賭けてこの国を守ったか、そんなことはもうどうでもいい。問題は、その結果手にした平和とやらの中で、お前たちは何をしたかだ。そう、僕の妻、エリーナを暗殺した」
演説が始まる前まで、祭りのように浮かれていた群衆。
その一人ひとりが、今は何も知らない被害者面をしている。
「僕は全てが上手くいって油断していた。外の空気でも吸ってこいなんて言ってしまった。その結果背中から刃を突き立てられて息を引き取った。誰かが見ていたはずだ。なのに……何もしなかった!英雄の妻が、道のど真ん中でだぞ!?白昼堂々!それを、誰が助けた?何かしてくれたか?」
声を荒げる。怒りで喉が焼ける。
「放浪の女が英雄の妻とはおこがましいだって!?聖職者じゃないから?貴族じゃないから?ふざけるなよ。じゃあ、お前たちの中に、僕の隣に立てる人間がいたか!?」
誰も答えない。誰も声を上げない。
「都合のいい時だけ僕を称えて、彼女を貶めたお前たちが、どの口で平和なんて語るんだ!!」
「アルセイド様落ち着いてください!民は混乱しています。演説は、これ以上…」
兵士が演説台に上がり、僕の肩に手を置いた。
「見世物にはちょうどいいか。よろこべ最初の死者だ」
僕は何のためらいもなく、掌を思いきり振るった。
轟音とともに、兵士の体が弾けるように吹き飛ぶ。
何十メートルも宙を舞い、壁を三枚貫き、地面に叩きつけられ動かなくなった。
「というわけで!この国は今日で終わりです。皆さん、お疲れさまでした!」
ざわめきが起こる。何人かは笑った。冗談だと思ったのだろう。
けれど、僕の声には一片の揺らぎもなかった。
「今さら顔を青くするな。これはお前たちが積み重ねてきた日常の結果だろ」
足元に刻まれた魔法陣が、音もなく輝きを放ち始める。
王都の空が、ゆっくりと赤黒く染まり始めた。
「ここに宣言する。英雄アルセイド・グランフェルの名において、ここに王都を、国家を、断罪する!」
マントをはためかせ、前へ出る。魔法陣がさらに強く輝き、空気が軋みはじめる。
瞬間、演説台の下に刻まれた魔法陣が激しく輝いた。
王宮の尖塔が揺れ、地の底から呻き声のような振動が響く。
僕は手を挙げた瞬間、空が裂けた。
炎と雷が降り注ぎ、王都は音を立てて崩れ始める。
僕は、国を救った。そして今、僕は国を滅ぼす者となった。
「やめろ!何考えてんだ、アルセイド!!」
広場の端。瓦礫と煙をかき分けて走ってきたのは、かつて肩を並べて戦った仲間、金の短髪をなびかせた、剣士のライガ・エンブレイス。
そしてその隣には、ローブを羽織った魔導士、氷の瞳を持つ セシリア・ノルン。
「アルセイド!あなたの怒りはわかる。私もあの子が殺されて、あいつらを未だに許したこともない!どうして、なぜこんな……!」
僕は少しだけ、懐かしい気持ちになった。
そう、かつては僕も正義を信じ、仲間を信じていた。でも今は違う。
「あのエリーナが、そんなこと望むと思うのかよ!!」
「はぁ、ライガ、君のことは、友として好きだったよが…そういう低能なところは、昔から心底嫌いだった」
「なっ…」
「望むと思うかって?そんなの、本人じゃない君に、どうしてわかる?」
僕の言葉に、ライガが一歩踏み出そうとしたその瞬間、セシリアがすっと手を伸ばし、彼の胸を押さえた。
「アルセイド確かにこいつは馬鹿よ。それに、人の気持ちをわかりきったように話す癖もある。何も知らないのに、正論をぶつけてくる」
「おい、セシリア!?」
「それでも、ライガは、誰かのために本気で怒れる奴よ。口が軽くて、考えが足りなくて、時々ムカつくけど……あなたのことを今でも大事に思ってる。エリーナのことも、心から悔やんでるの。私たちは、無力だった」
セシリアの瞳が揺れていた。けれど、その一言一言には芯があった。
「だから、お願いアルセイド。これ以上、自分を壊さないで。怒りで世界を焼いても、あなたの心はきっと救われない……!」
僕は無言で、セシリアの顔を見つめた。懐かしい顔だ。
一緒に旅をして、魔物に囲まれた夜に背中を預け合い、笑い合った仲間の顔……だけど、それはもう過去のことだ。
「君たちを……殺したくはない。大事な仲間だ。誰よりも信じていた。だから、お願いだ。そこで大人しくしていてくれ」
聞こえてきたのは音もなく地を蹴った気配。空気を切り裂く殺気。
「……っ!」
無言で斬りかかってきたのは、ライガだった。
目に涙を浮かべながら、迷いのない剣筋を僕に向けてくる。
「容赦がないな」
「お前が、変わっちまったからだよッ!!」
怒号とともに2撃目、3撃目。
そこへ続くように、セシリアの魔法陣が空中に浮かび上がる。
「ごめんなさい、アルセイド……っ!」
氷の槍が無数に空を貫き、僕へと向かってくる。僕はそれを見上げ、わずかに息を吐いた。
「無駄だよ、セシリア」
掌から放たれた魔力が氷を弾き飛ばし、砕けた氷片が地に降り注ぐ。
二人とも本気だ。殺意すら感じるほどに。
「なら、少し黙らせるしかないか」
僕はそっと剣を構える。殺意は込めない。ただ、叩き伏せるだけ。
風が裂けるような音と共に、僕は一気に間合いを詰めた。
「っ……!?速ッ!?」
ライガの目が見開かれる。反応は早いけれど、僕の方が速い。
彼の斬撃をいなし、胴を狙った剣を空振らせ、空いた腹部に肘打ち。
「ぐっ……は……っ!」
「ライガ!!」
セシリアの叫びと同時に、無数の魔法陣が空中に展開された。氷、雷、炎、風、全属性同時詠唱。彼女の十八番だ。
だが僕は、ただ一言を呟くだけ。
「アンチ・マギア」
詠唱なしの打ち消し魔法。術式ごと空間がねじれ、セシリアの魔法が一瞬でかき消された。
「う、嘘……!? そんなの、ありえ……っ!」
手刀が彼女の腹にめり込み、セシリアが崩れ落ちた。意識はあるが、動けない。
僕は彼女の頬に手を添えて言った。
「命を奪う気はない。ただ、僕の邪魔をするなら、これ以上は容赦しない」
僕はただ、静かに空に手を掲げる。
魔力が集い、空に巨大な魔法陣が浮かび上がる。かつて魔王にすら恐れられた、破壊の禁呪。それを、いま王都の中心に落とす。
「さて……再開しようか」
演説台の上から見下ろす王都は、すでに瓦礫と炎に包まれていた。
まだ足りない。この国は、もっと焼かれなければ。僕は静かに手を掲げ、魔力を解き放った。
空が赤く染まり、雷が地を裂く。
塔が崩れ、悲鳴が響き、地面が割れて人々が逃げ惑う。
「うん、我ながらあっぱれ」
視線の先にあった、炎と煙を突き抜けて、セシリアが飛び込んできた。
「やめてええええええええええッ!!」
炎と煙を突き抜けて、セシリアが飛び込んできた。
その身体は傷だらけで、杖も片腕も血に濡れていた。
「もうやめて……お願いだから……!アルセイド、あなた本気で……!」
「邪魔だなぁ。君の魔法は、僕には効かないよ」
セシリアの詠唱は、過去の訓練でも、何度も僕の力にかき消されている。だから僕は、彼女の声を完全に無視した。
そして、右手を振り下ろした。
轟音と共に、王都の中央区画、城、議会、聖堂すべてが、炎に呑まれた。
「や……やめて……!!」
セシリアの悲鳴も、もう届かない。僕は彼女の存在を、ただ騒音として処理した。
「そういえば……ライガはどうしたのかな。先に逃げたのかな。あの男らしくもない」
「アンタの、せいだよ……アンタのせいで……ライガが死んだ!!救助活動してたらアンタの魔法が直撃して、死んだ!」
「そうか。じゃあ、ライガの死は君の責任だね」
「……っ!」
「君が僕を止めに来ないで、おとなしく逃げていればライガは死なずに済んだ。君がクズどもを助けようとしたから、偶然にも僕の魔法が落ちて、偶然にもライガを殺した。結果、死んだ」
淡々と告げる声。情はない。ただ、理屈だけが並べられていく。
「君が殺したんだ。君の正義のせいで」
僕は喋りながらも淡々と魔法の数を増やしていく。
手から、詠唱なしで無数の魔法式が放たれる。
炎、氷、雷、風、光、闇、重力…とにかくこの世にあるすべての魔法を凝縮した。
赤、青、水色、黄色、紫、白、カラフルな輝きが空を裂いた。
まるで絵画の具をぶちまけたような、破滅の虹。
「……おお、絶景だな」
王都の上空に浮かぶ、その混沌の光景に、思わず僕自身が見惚れていた。
この世の終わりが、こんなにも美しいなんて、誰が想像できただろう。
だがそのとき、不意に魔力の気配が走った。
「……ん?」
反射的に、癖で魔力を弾く。
何度も繰り返した動作。もはや条件反射だった。その先に、セシリアがいた。
「……あ、やっちまった」
一拍遅れて、僕は理解する。
セシリアが、自分の腹を見つめていた。ローブの前が、赤く染まり、そこにはぽっかりと穴が空いている。
セシリアの目が僕を見つめていた。絶望と、疑問の入り混じった表情。
「邪魔するからだ。僕は悪くない」
倒れゆくセシリアを、僕は受け止めもしない。彼女の体はそのまま崩れ落ち、地に横たわった。
「……ライガの次は、君か」
僕はただ、ぼんやりと空を見上げていた。
そこには、さっき放った融合魔法全ての魔力を混濁させた、破滅の彩光が、なおもゆっくりと脈動していた。絵具をぶちまけたような、狂った虹が空を染めている。
王都を照らす、最後の光。
崩れ落ちた塔。焼け焦げた石畳。血に濡れた、仲間の体。
「これで終わりだ」
空から一直線に地上へ突き刺さる。
雷鳴と爆音。空気が砕け、重力がねじれ、王都の中心が爆ぜる。
視界を焼く閃光。耳を裂く衝撃音。
風が、瓦礫が、悲鳴が、全てを呑み込んでいく。
世界が、文字通り断罪された瞬間だった。
「ふぅ…疲れた疲れた。最後の仕上げといこうか」
ここまでかかった時間は、五分もなかった。
たったそれだけで、一国を焼き尽くせるようになったのか、と自分でも驚いていた。
それほどまでに、僕は強くなってしまったのだろう。
残るは、最後の一画。王都の外縁に残された避難民の集団。
そこに歩を進めたときだった。
「何をしているんですか!?」
怒声が背後から響いた。懐かしい声。
振り返らなくても分かる。そこにいたのはセラだった。
「……見ての通り、世界を滅ぼしてる最中だよ」
瓦礫と黒煙が立ち込める中で、僕は振り返ることもなく答えた。
彼女の名は、セラ・エスティマ。彼女との付き合いはエリーナよりもずっと長い。物心ついた頃から、常に僕の隣にいた僕の心を守り続けてくれた存在だ。
「君とは本当に戦いたくない…だから手を…」
「別に何もしませんよ」
「え?」
「貴方がこの世界の滅びを望みなら。最後まで付き合います。地獄の果てまでも」
「そうかい?優しいな君ってやつは」
セラと協力のもと、僕たちは王都を完全に燃やし尽くした。
業火が空を染め、神殿の尖塔は音を立てて崩れ、石畳は赤く熔けてうねっている。人の営みが築き上げたすべてが、ただの灰となって風に散っていく。
「この国を滅ぼした理由、その気持ちが私には分かります。世界を救った英雄様の、愛する人を殺した街ですから。存在する価値なんて、もう残っていない……気分はすっきりしましたか?」
「んー……まあまあ、かな?でも、なんだろうな。こうして滅ぼし尽くしてみるとさ、もう一回、世界救ってやるかぁって、そんな気にもなったよ」
「自分で滅ぼしといて、今さらそれ言います?もう後戻りはできませんよ」
「だって、ほら。滅ぼしたぶん、今度はちゃんと綺麗に作り直してやりたいっていうか。この真っさら感。やる気出ない?」
「その感想は正直狂っていると思います」
「そっかぁ…」
僕は身体を抱え上げ、空へと舞い上がった。浮遊の魔法に身を任せ、炎に包まれた都の真上まで昇る。
そこに広がっていたのは地獄だった。
赤黒く染まった街。燃え続ける城壁。いくつもの叫びと祈りが、空へと昇っては闇に吸われていく。けれどその光景は、どこか静かで、美しかった。
「こう見ると、圧巻ですね。というか……流石すぎます。たった10分でここまでとは」
「だろ。もっと褒めて」
「調子に乗るので却下で」
ふっと、笑った。
この子は、焼け落ちる王都を見下ろしながらなお、僕の隣で、平然と冗談を言っている。正気なのか、壊れているのか。
「でも、こんな地獄の上でも、まだ隣にいてくれるんだな」
「地獄の果てまでも、付き合うって言ったでしょう?」
セラはそう言って、僕の胸に額を預けた。彼女の白い髪が、遠くの炎に照らされて金色に揺れる。
王座にたどり着いたが、黒く焦げもはや形も残っていない。
その瓦礫の上に、僕は静かに降り立った。
足元にひび割れた大理石。火の粉がまだ空中を舞っている。
「降ろすよ」
腕に抱えていたセラをそっと下ろす。彼女は無言で着地し、僕の横に並ぶ。
少しの間、僕たちは何も言わず、焼け落ちた王座の先にあった空虚を見つめていた。そこにはもう、支配も栄光もなかった。ただ、終わりの静けさだけが広がっていた。
「この後はどうするんですか?別の国でも滅ぼしに行きますか?」
「随分乗り気だな。それで、今後の予定だっけ?聞いて驚かなれ…僕は過去に行くから」
「はい?」
「僕は100回までならループができるんだ。今、これで96回目。焦りすぎて無駄使いしすぎたけどね」
セラはしばらく黙り込み、やがて何かを理解したように小さく息を呑んだ。
「なるほど。そういうことでしたか。つながりました。アルセイド様が未来を知っているかのように動いていたのは、実際に世界を何度もやり直していたからなんですね。この国を滅ぼしたのも……どうせループでやり直せるから」
「流石の着眼点!」
良かった。昔軽々しく話した時は、教信者みたいに狂って収拾がつかなかったからな。
「ちなみに、どこからやり直すんですか?」
「かなり前かな。セラにスパルタ教育されてた頃」
「溜まった書類を片付けるまで、部屋に監禁されてた時期。三食干しパンと水道水のときの」
「どっちが牢獄かわからないっての」
焼け落ちた王都の中で、ふたりの笑い声だけが静かに響く。
「そんなところからやり直すなんて……奇特な方ですね。エリーナさんが殺される前日には戻れないんですか?」
僕は、その質問にうっすらと微笑んだ。
その笑みは、もはや笑顔と呼べるものではなかったかもしれない。
「ううん。戻れるよ。何度も戻った。3日前、2週間前、1ヶ月前……だけどね、必ず死ぬんだ」
「エリーナさんの事を許せなかったんですね。王都の人たちは」
「そう。僕のお嫁さんだってことが、気に食わなかったんだよ。貴族の娘でも、聖女でもない女の子が…僕と一緒に功績を残して、英雄の妻になった。それが、どうしても許せなかったみたいだ」
セラは何も言わなかった。ただ、黙って僕の言葉を受け止めていた。
「どれだけ頑丈に警備を固めても、王都を出て暮らしても……彼女は、死ぬ。例えば、衛兵の中に内通者がいた…毒を盛られた日もあった…屋敷に仕込んでいた魔術回路を狂わせて、爆発させた奴もいた。死に方だけが、毎回違う。死ぬという事実だけは変わらなかった」
言葉の一つ一つが、喉に引っかかるように重い。
「今回も僕が必死にエリーナをアピールして…認められたと思ってしまった。もちろん、表面上だったわけだが」
「それで、やけになって滅ぼしたんですね」
「そんなとこ…もう一度、僕が世界を滅ぼしたいと思わないように…世界の根本から変える。エリーナを正式に、僕の仲間として迎える。得体のしれない女じゃなくて、戦う者として、選ばれた者としてこの世界に認めさせる。傷だらけでも、みすぼらしくても、誰よりも優しくて、強い人だった……あの子が誰よりも世界に必要な存在だったって、僕が証明する」
「いい決意ですね」
「またスパルタで書類から始まるんだろうなぁ…」
「戻った先でも、私を苦労させないでくださいね」
「努力はするよ。たぶん」
「たぶんじゃないです」
微笑み合う僕たちの頭上で、夜空に星が瞬いていた。炎に染まった王都が、ようやく静寂に包まれていく。
僕は懐から、古びた懐中時計のような装置を取り出した。
漆黒の金属に包まれたその機械は、まるで時代を拒絶するかのように静かに、しかし重々しく存在感を放っている。
盤面には、針がない。ただ、中央に刻まれた円環の紋章だけが、淡く脈を打つように光を放っていた。
「変わらないな、こいつは」
幾度も握り、幾度も発動し、そのたびに誰かを救い、誰かを失ってきたこの鍵。
壊れもしないし、老いもしない。ただ確実に、時を巻き戻す。それだけのために存在する、呪われた奇跡。
「これが世界の時間を巻き戻す魔導具ですか。こんなのどこから拾ったんですか?」
「100歳までかけて作った伝説の魔導具だよ。そこから、英雄の軌跡通りさ」
「今何歳なんですか?」
「200歳は軽く超えてる。中身はもう、干からびたじじいだ」
そう言いながら、僕は時計の裏側に指をかけた。指を当てると歯車がかすかに脈打つように動き始めた。
針のないはずの盤面が、淡い閃光に包まれ、空間がわずかに歪む。世界がゆっくりと、その輪郭を失い始めた。
「行ってらっしゃいませ。昔の私に記憶はありませんが、書類を山積みにして待ってます」
「じゃあ、過去で」
セラの声が、どこか遠くなる。最後に目を開けると、彼女が微笑んでいた。
火に照らされて揺れるその笑顔は、やけに切なく、そして美しかった。
もう一度、物語を始めよう。




