第2話 旅立ちの英雄
STFに戻って、二週間の夜が明けた。
アレスの眠りは、いつだって悪夢だった。燃え盛る炎の中、ただ一人、石になったように動けない自分。心臓は、あの日の炎に焼かれたかのように狂った鼓動を刻んでいた。足は地面から数センチ浮いているようで、一歩も前に踏み出せなかった。夜明けは、吐き気を伴ってやってきた。
彼は、その心の闇を追い払うように、訓練場でただひたすらに剣を振り続けた。けれど、痛むのは腕ではなく、心だった。あの時、動けなかった後悔が、クロとの圧倒的な力の差が、どす黒い芋虫のように思考を這いずり回る。
疲れ果てて壁に背を預け、目を閉じる。部屋にあった、授業に来いという手紙は、もう遠い世界の出来事のようだ。そんな光は、今の彼には届かなかった。
ふと、クロの姿が胸をよぎる。彼はいつも、訓練場で眠ったふりをしていた。もしかして、彼も僕と同じだったのだろうか。彼も眠れなかったのだろうか。もしそうなら、どうして彼はあんなにも、光のように動けたんだ。
夜遅くまで特訓していたクロの姿が蘇る。もしかしたら、僕も少しは彼に近づけたのかもしれない。その微かな希望が胸に灯る一方で、闇の囁きが容赦なく押し付けてくる。「お前には、無理だ」と。
ある日の夕暮れ時、アレスはいつものように訓練場にいた。そこに、ダミアがそっと歩み寄ってくる。彼女の手には、温かいスープが入ったカップがあった。
「アレス君、これ…よかったら飲んで」
ダミアの優しい声が、アレスには重く響いた。その温かさに触れる資格なんて、僕にはない。弱い自分を、誰にも見せたくなかった。
「…いらない」
アレスは、顔を背けながら冷たく言い放つ。
「もういいの? 温かいうちに飲まないと…」
その一言が、アレスの中の張り詰めた糸をぷつりと切った。
「…もう、俺に構わないでくれ!」
アレスは叫び、彼女の手からカップを叩き落とした。地面に広がるスープは、静かな悲しみを放つ湯気となって消えていく。
「英雄に憧れるだけの、弱い俺を見られるのが嫌なんだ!」
ダミアは、その言葉に耐えきれず、震える声で絞り出した。
「英雄になりたいんじゃないの…?」
その一言が、アレスを真っ白にした。心臓が握りつぶされるような痛みを感じ、怒りが全身を駆け巡った。
「英雄になんてなれるわけないだろ! 俺は…俺はただ見てることしかできなかった! 先生を助けることも、王を倒すこともできなかったんだ!」
アレスは、その場に崩れ落ちた。叫びは、もはや怒りではなく、悲鳴に近かった。ダミアにぶつけた怒りは、すべて自分自身に向けられたものだった。
床に広がるスープのしみ。その隣で、割れたカップの破片が鈍い光を放っている。ダミアは何も言わずにその場に立ち尽くしていた。彼女の優しさを、最も卑劣な形で拒絶した。
僕は、なんて卑怯なんだ。先生が目の前で燃え尽きていく時も、僕は動けなかった。クロが戦っている時も、僕はただ怯えていただけだった。そして今、心配してくれるダミアの優しさすら、僕は受け止められない。
英雄になんて、なれるはずがない。僕はただの臆病者だ。誰かに寄りかからないと、何もできない。そう、誰かに寄りかかって、その人を傷つけるだけだ。
激しい自己嫌悪に襲われたアレスは、一人になることを決意した。
その夜、アレスは自分の部屋に戻った。誰もいない部屋は、まるで彼の心のように、ひどく冷たく、静まり返っていた。彼は古びたリュックを広げ、中に荷物を詰め始める。着替えを数枚、わずかな食料、そして両親が冒険者だった頃に使っていた古いコンパスを詰めた。そのコンパスに触れると、胸が締め付けられる。かつては英雄への夢を指し示していたはずの羅針盤は、今、行くべき場所が分からず、ただぐるぐると回り続けているようだった。
窓から見える月は、まるで僕の心のように、ひどく冷たく、そして孤独に見えた。
「大丈夫だよ」
幼い頃、両親がいつも言ってくれた言葉だ。どんなに辛い時でも、その言葉が僕を支えてくれた。でも、今はその言葉すら、僕の心に届かない。両親はもういない。ブラッド先生もいない。頼るべき光は、すべて消えてしまった。
このままでは、僕はきっと、大切な人を傷つけるだけだ。誰にも頼らず、一人で強くなるしかない。そうしなければ、また同じことを繰り返してしまう。誰かの死を、ただ見ているだけの傍観者で終わってしまう。
僕はもう、あの日の自分には戻りたくない。この吐き気を催すほどの後悔から逃れるためには、ただひたすら、前に進むしかない。
アレスは、固く決意を固めた。
彼はリュックを背負い、部屋のドアノブに手をかける。ドアを開けると、冷たい夜の空気が頬を撫でた。STFの長い廊下は、月明かりに照らされ、どこまでも孤独に続いていた。彼は振り返らず、ただ前だけを見て歩き出す。
この旅が、どこへ続くのか、彼には分からなかった。だが、もう、立ち止まることは許されない。彼は、英雄になる夢を一度は捨てた。しかし、その夢の残骸が、彼を新たな旅へと駆り立てていた。彼の背後には、凍りついた孤独な月が、ただ静かに輝いていた。
STFの門をくぐり、僕は暗闇の中へと足を踏み出した。アスファルトの道は、まるで僕の心のように、ひび割れ、冷えきっていた。遠くから、街のざわめきが微かに聞こえてくる。賑やかなその音は、僕の孤独を際立たせるだけだった。
僕は立ち止まり、空を見上げた。かつては満天の星空が僕の夢を映し出していた。両親と一緒に見た、あの星空を。ブラッド先生と語り合った、未来の自分を。けれど今、僕の目に映るのは、ぼんやりと霞んだ星と、ひどく孤独な月だけだった。
ポケットに入っていた、小さな石を握りしめる。それは、訓練場でクロと初めて戦った時に、彼が僕にくれたものだった。「弱いままだと、いつか死ぬぞ」と言って、僕に投げつけた石。その言葉が、今も耳に残っている。クロの言う通りだ。僕は弱い。弱すぎて、大切な人を守れなかった。
旅は、僕に何をもたらすのだろうか。強くなること? 誰かを守れるようになること? それとも、ただ虚しく彷徨うだけなのだろうか。わからない。それでも、このままここにいたら、僕は壊れてしまう。もう、これ以上、誰かの優しさに甘えることはできない。
僕は再び歩き出した。一歩、また一歩。足を踏み出すたびに、心の奥底で眠っていた何かが、ゆっくりと目覚めていくのを感じた。それは、英雄になりたいと願った、幼い僕の魂の残骸かもしれない。いや、英雄にはなれない。それでも、僕は、あの日の自分とは違う、新しい自分になるために、この旅を続けるのだ。
遠くに見える街の明かりが、少しずつ小さくなっていく。僕は、その光に背を向け、闇の中へ、ただひたすらに進んでいった。この旅が、英雄への道を再び指し示すのか。それとも、ただ虚無へと続くのか。アレスは、ただひたすらに、孤独な闇の中を歩き続けた。
今回も読んで頂きありがとうございます。
今回はアレスの絶望感を引き立たせるためにポエムっぽく書いて見ました。
心情を描くの難しいですよね。