第3話 水の記憶に触れるとき
夢の逆月が揺らめいた瞬間、世界はまた静かに反転した。
ユイは知らぬ間に、白い霧の中を漂っていた。
足元も空も曖昧で、歩いているのか浮かんでいるのかさえわからない。
けれど、不思議と不安はない。ただ、何かに引かれるように進んでいた。
――ちゃぽん。
水の音がした。誰もいないはずのこの霧の世界に、確かに響いた。
その音に導かれるように、ユイは霧をかき分けて進む。
すると目の前に、小さな泉があった。
水面は鏡のように静まり返り、そこにはユイの姿ではなく、知らない誰かの記憶が映っていた。
古い家。やさしい声。幼い誰かが泣いている。
ユイは息をのんだ。
それは自分のものではない。
それでも――なぜか、知っている気がする。
「これは……“水の記憶”?」
背後で、またあの黒い影が現れた。
「それは、“思想の供水”へと繋がる泉。この泉を通して、他者の思波に触れることができる。」
「思波……?」
「意識は、思考の水脈で繋がっている。ただし、誰もがその流れに触れられるわけではない。
それには“水のパスワード”が必要だ。」
「パスワード……?」
影は手を差し出した。掌には、小さな雫のような結晶が浮かんでいる。
「お前がもし、これを解読できれば――未生の深層へ踏み込める。
そこで待っているのは、別の時空。別の“お前”だ。」
ユイの胸に、何かが走った。
別の時空。
別の自分。
そうだ――私は思っていた。飛びたい。
夢の奥を超えて、光の外側まで。
言葉の届かぬところまで――“想い”で飛べるなら。
彼女の足元が淡く光り、泉の水面に波紋が広がった。
水のパスワードが、記憶と共鳴を始めていた。
――それは、最初の「瞬間移動」への、目覚めの鼓動だった。