オムレツの断章 (ゴダール風)
画面は黒。
ただ、一振りのナイフの音。
時折、遠くで鳴る犬の吠え声。
「味覚は政治だ」と、女の声が言う。
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厨房。
銀色のステンレスが冷たい光を反射している。
そこに立つふたりの料理人。
エミリオ、48歳。顔には幾つもの敗北の皺。
クロエ、26歳。唇に火を灯したようなルージュ。手には生卵。
「料理とは、時間と肉体の政治だと思わないか?」
エミリオが突然カメラの方を向いて言う。観客の誰かに、ではなく、世界そのものに語るように。
クロエは卵を落とす。割れた音が、まるで銃声のようだ。
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映像:ベトナム戦争のニュースフィルム、続いてポンポン菓子を食べる子供たち。
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クロエ:
「味なんて嘘よ。人間が感じてるのは、愛か不安のどちらかだけ。」
サウンドトラックに急にジャズ。チャーリー・パーカーのアルトサックスが割り込む。
エミリオはまな板の上で玉ねぎを切る。涙が一筋、顔を滑る。
「玉ねぎは、人間の構造だ。層があり、中心は空洞。そこに涙を仕込むんだ。」
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画面に文字が現れる:
「UNE CUISINE N’EST PAS UNE CUISINE, MAIS UN LANGAGE DE LA CHAIR.(料理は料理ではない。肉体の言語である)」
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火が揺れる。フライパンが跳ねる。
クロエが静かに呟く。「私は彼を殺すつもりで、トマトを煮る。」
エミリオは笑う。「なら、俺はお前に恋をして、米を炊こう。」
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映像が途切れ、5秒間の黒。
その後、審査員の顔のアップ。無言。
次に、地球儀の回転映像。誰かが言う。「世界は炒められている。」
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料理が完成する。
ひと皿は黒々としたリゾット、炭のように。もうひと皿は白い泡に包まれたカルパッチョ。
味見の瞬間、音は消える。
ただ、観客席にいる一人の子供が立ち上がり、こう言う。
「僕、どっちも好きじゃない。でも、なぜか涙が出るんだ。」
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画面に最後の字幕:
「Fin du goût, début du souvenir.(味の終わり、記憶の始まり)」