5 【シリウス】雷に打たれる
気づいたら、フレアとジーク、エイトの姿がなくなっていた。
シリウスはきょろきょろと辺りを見回し、それからルベルの眼鏡選びをしているルカの袖をつんつんと引っ張った。
「なあ、お嬢様たちは?」
「フレアならジーク様と外に出たよ」
「えッ」
「どうかした?」
驚き過ぎたかもしれない。不思議そうに尋ねられ、シリウスは慌てて首を横に振った。
「い、いや、別に、何でもないんだ。ただちょっと気になっただけ」
「?そっか」
「あのジーク様って言う人って…お嬢様の、婚約者ってやつなんだよな…?」
「うん、そうだよ。…お似合いだよね」
「…うん。…あー、俺もちょっと外に出ようかな。ここは高いものばっかりで、何か疲れちゃうから」
下手な作り笑いを浮かべて、シリウスはそそくさと店の外に出た。高くて今にも壊れそうなものに囲まれるのは、実際かなり気が疲れる。
「はあ……」
小さくため息を吐いて、空を見上げた。
最近、どうも胸の辺りが変だ。フレアのことを考えただけでドキドキする。
初めて会った時は最低最悪なお嬢様としか思わなかった。でもよく見ると意外に顔が可愛いと思うようになり、混じり気のない金髪も綺麗だなと思うようになり、甲高い声を聞いても不快に思うどころか、女の子らしいと感じるようになった。
孤児院の子どもたちにも平等に接してくれているようだし、たまにお茶やお菓子の差し入れもしてくれる。あれ?普通に良い人じゃんと認識を改めてからは、何となく姿を見かける度に気になるようになって…
一番のきっかけは、カノンたちのお疲れ様パーティーでのことだった。
『上手ね。なかなかすごいじゃない。お菓子作りが得意なんて知らなかった』
手作りのカヌレを、褒めてくれた。
あんなに美味しそうに、頬を緩めて。普段つんとすました顔のフレアからは、なかなか想像のできない、甘く蕩けきった、可愛い笑顔だった。
あの瞬間、心臓を何かに射貫かれたような錯覚を覚えた。狂ったように鼓動が止まらなくて、顔が熱くて、体がおかしくなってしまったんじゃないかと不安にも襲われた。自分が怪物になってしまうんじゃないかと、本気で心配だった。
特別、嬉しかった。お菓子作りについて誰かに褒められたことは何度かあったけれど、フレアに褒められるのは、他の人よりずっとずっと嬉しいことに気がついた。
(変だ、こんなの。これじゃまるで…)
頭に浮かんだ言葉を、シリウスはぶんぶんと首を振って打ち消す。
相手は公爵家の令嬢で聖騎士で、婚約者までいる。
どうあがいても、手の届かない雲の上の存在相手に、今自分は何を考えた?どうかしている。
気を紛らわせようととぼとぼ歩いていると、高い声が耳に届いた。
「そろそろ1人ででお店を見て回りたいので、ついてこないでくれません?眼鏡屋さんに戻ったらいいでしょう」
フレアだ。機嫌が悪いのか、声だけでツンツンしているのが伝わる。
姿は見えない。声が聞こえた方角からして、恐らく路地の向こう側辺りにいるのだろう。
「僕がいたらそんなに邪魔か?あの従者とは楽しそうにしていたじゃないか」
ジークの声。シリウスはぞくりと背筋を震わせた。
一目見た時から、何となく苦手だった。高圧的で、何を考えているかわからなくて、笑っているのに笑っていない。虚ろ、というのが一番ぴったりくる。そういう人だった。
「ルベルのことでしたら、彼は私のことをよく思っていないのでお気になさらず」
「そうは見えなかったがな」
確かにそうは見えなかった。シリウスから見ても、二人はとても楽しそうに見えた。
「ルカ・ローズ・イグニスにも随分心を開いているように見えるが?」
「はい?そんな訳がないでしょう。ルカは私のことを嫌っていますし、私もルカのことは好きじゃありません。たまたま家が隣になった所為で、関わらざるを得ないだけです」
「ほお?」
「とにかく、一人でお店を見て回るのでもういいですか?2年後にはデビュタントを控えているんです。とびっきりのドレスを作って貰わないといけないので、相応しい仕立て屋を探しているところですから!」
「そういうことなら、尚更僕が見繕った方がいいだろう」
「結構です!」
(フレアは、ルカが嫌い……?)
フレアの「ルカが嫌い」宣言は、シリウスに少なからぬ衝撃を与えた。
(ルカとフレアって、すっごく仲が良さそうだけどな。嫌いって……絶対、嘘だよな?よくわかんないけど……いろいろあるのかな、貴族って)
きっと、嫌いと言わなければいけない事情みたいなものがあるのだろう。
このまま盗み聞きのようなことをしているのはよくない気がした。踵を返して立ち去ろうとした時だった。
「君がドレスに金をかけられるのか?今来ているそれも、仕立て屋に頼まず、自分で布から作ったものだろう?公爵からの援助は思っている以上に少ないらしい。毎月のやりくりにも困っているんじゃないのか?」
その言葉に、シリウスは思わず足を止めた。
「可哀想に。国を代表する公爵家の聖騎士が、金に苦労するなどあってはならないというのに。イグニス公爵には僕からも一言、言っておいた方がいいかもしれないな」
「余計なことしないでください。私が責められるだけですから。て言うか、このドレスが私の手作りだって何で知って――」
「自分の婚約者のことくらい大体のことは知っているさ。あの孤児の娘に、どうしてあんなに肩入れしたのかは未だによくわからないがね」
孤児の娘――――間違いない、ステラのことだ。
シリウスの心臓が、早鐘を打ったようにどくどくと脈打ち始めた。
「彼女は確かに難しい病気を抱えていた。あれにかかる手術費用は、あの娘が一生かけても到底返せない莫大な額だろう?」
「それは……」
「君だって相当苦しかったはずだ。どう工面したのかと思っていたが、ドレスを何着も売り払ったらしいな?宝石も、貯金も使い果たしたはずだ」
「だからどうやって調べたのよこの変態…」
「今の言葉は聞かなかったことにしようか。金を空っぽにしてまであの娘を助けた見返りに、君は何を得たんだ?屋敷への出入りも許し、孤児院にもなんだかんだと支援しているようだが、そうまでする理由は何だ?」
(金を…使い果たした?ドレスを売った?姉貴のために?いや、でも、そんな…だって、お嬢様は、お嬢様で、そこまでしなくても…え?)
混乱して、うまく考えがまとまらない。
大金持ちのお嬢様だと思っていた。いや実際そうなのだろうが、いくら父親と不仲とは言え、金は湯水のように使えるのだろうと。
手術費がどれだけかかったのかも、シリウスは具体的な金額すら知らない。ステラがちまちま返しているのは知っているが、それでステラが困窮する様子も、フレアが催促する様子もなく、シリウスは軽く考えていた。
大金持ちだから、大丈夫なのだと。
彼女にとっては、大した額ではないのだろうと。
(違うんだ。違ったんだ。姉貴のために…俺たちのために…)
大切だっただろうドレスを売り飛ばし、欲しいものも我慢し、貴族社会では随分苦労しただろうに、それを一切おくびにも出さずに、この2年、孤児院の子どもたちにまで、食べ物や服を支援してくれた。
何一つ、見返りを求めずに。
ここまでできる人間が、他にいるだろうか。
「寄付の好きな人間でもここまではできまい。何か弱みでも握られているのか?」
ジークの問いは当然のものだった。
しばらくの沈黙の後、フレアはさらりと告げた。
「深い意味なんてありません。私はただ、自分がそうしたいと思ってそうしただけです」
言葉にならない感情がぶわっと込み上げて、シリウスはへなへなとその場に座り込んだ。
彼はこの国の人間のように神を信じたことはなかったが、今なら心から神の存在を信じられそうだった。
本当に神というものがあるのなら、それはきっとフレアのような聖人に違いない。
ここまでしてもらった恩を、何としても返したい。
手術費はもちろん、それだけではまだ足りない。自分の一生をかけて尽くすのだ。心清らかな彼女のため、その幸せのためなら、自分はきっとなんでもできる。
涙を拭い、シリウスは立ち上がった。
フレアたちがまだ何か会話している気配はあったが、耳をそばたてる真似はせず、静かにその場を去った。




