1 引き止めようとする
1862年、高松某所にて。
ほむら(推定22歳)
義勝、刀士郎(24歳)
星明かりを頼りに、ほむらは家路を急いでいた。阿波に素晴らしい医者がいると聞いて行ってみたはいいものの、とんだ無駄足であった。
医者を志して早十二年。未だ医者だと胸を張って言えるような自信はないが、それでも自分なりに必死で医学書を読み込み、評判の医者に師事し、簡単な治療や診察ならば少しずつ経験を積めるようになっていた。
医者というのは、名乗れば誰でもなることができる。故に名医かヤブ医者か見極めるのは大変難しく、ある程度の知識がなければ簡単に騙され、安くない金をドブに捨てることになってしまう。
(心桜、どうしてるかな。また熱がぶり返してたら……)
心桜は、14歳になった。
しょっちゅう風邪を引いて寝込むために、寒い時期は外に出ることもできない。温かい季節ならば、庭に出たり、屋敷の周りをゆっくり散歩したりといったことはできるようになったが。
幼い頃に比べれば、まだできることが増えている気はする。だが、ひとたび風邪を引いた時の症状の方は、以前より重くなっているのは気のせいではないだろう。やつれて、どんどん痩せては、何とか持ちこたえて――……そういうことを繰り返している。
このままでは、何かの拍子に、心桜の心までぽっきりと折れてしまう。
そんな気がして、怖かった。
「ほむら」
「……え?」
聞き覚えのある声に、ほむらは足を止めた。
振り返ると、旅装束姿の男が、じっとこちらを見ている。すぐには誰かわからず戸惑っていたが、笠をついと上げて暗闇にぼんやりと浮かんだ白い顔を見て、ほむらはようやくほっと息を吐いた。
「刀士郎! どうしたんだ? こんな夜中に」
駆け寄ると、刀士郎はいつもの柔和な笑みではなく、強張った顔を向けた。
ただならない様子に、ほむらはどきりと緊張した。
「どう、したんだ? 何か、様子が……」
「出て行くことにしたんだ。だから、しばらく会えない」
何のことかわからず首を傾げると、「遠いところに行くんだ。同志が待っている」と、暗い声で続けた。
「やるべきことが見つかった」
「やるべきこと……?」
「俺は、この国を守りたい。変えていきたいんだ。幕府に任せずに、俺たちの手で」
今の幕府がいかに無能か、外敵がいかに恐ろしいか、あの清国でさえ、欧米に侵略されつつあること、それがどんなに悍ましいことか、刀士郎は蕩々と話した。
穏やかで優しい目の中に、今までになかった燃え滾るような熱いものを感じて、ほむらは何と言ってよいのかわからなかった。
ほむらには、政治のことはわからない。異国の船が来て開国を迫られたとか、幕府に対する不信感が強まっているとか、野蛮な異人は打ち払うべきだとか、物騒な噂ならよく耳にしていたが、ほむらには正直何が何やらよくわからなかった。
ただ、知りたいという気持ちも、それほど強くはなかった。
ほむらは物騒なことが嫌いだ。政治は頭の良い、武士だとかお偉いさんたちがやるもので、自分には関係のない話である。
ここ最近、刀士郎はあまり道場に来なかった。こんな熱に浮かされたような話し方、以前はしていなかったはずだ。
「刀士郎、何か、変だよ。いつものお前らしくない。落ち着けよ。な? 何か茶でも飲んでさ――あ、俺団子食べたいな。最近良い団子屋を見つけてさ――」
ふ、と刀士郎の手のひらが、ほむらの頬に触れた。
彼は柔らかな笑みを浮かべ、静かに首を振った。それはできない、というように。
「もう行くよ。俺と話したことは、黙っていた方がいい」
ほむらは、咄嗟に刀士郎の手を掴んだ。
行かせてはならない気がした。何が何だかわからないが、このまま刀士郎を行かせては、もう二度と会えない、そんな暗い予感がした。
ぶんぶんと首を横に振るほむらに、刀士郎は困ったような笑みを浮かべた。
「俺は、君を守りたいんだ。この国を、君を守りたい。だから、行かないと」
「でも…………」
「ほむら、もし、もし俺が、ここに戻ってこられたら、その時は……」
白い頬が、淡く染まる。しばらく沈黙が流れた後「……いや、何でもないよ」刀士郎は諦めたように微笑み、ほむらの手をそっと離した。
刀士郎は真っ直ぐに歩き始めた。ほむらは、それ以上彼を引き止めることはできなかった。暗闇の中に溶けていく刀士郎を、ただ見送ることしかできなかった。
その後、刀士郎を高松で見かけることはなくなった。家族と縁を切ってまで、京へ向かったらしい。
刀士郎の家族とは、何度か会ったことがある。優しくて素敵な家族だった。お父さんは、少し怖かった。
あんな温かなものを捨ててまで何を守ろうとしているのか、ほむらには理解できなかった。
「―――――――刀士郎様は、幕府を倒してしまおう、とお考えなのかもしれませんね」
「幕府を、倒す? そ、そんなこと可能なのか?」
刀士郎と話したことは、心桜にだけ話していた。
心桜は、青ざめた顔で小さく頷いた。部屋には他に誰もいないのに、怯えたように、より声を落として先を続けた。
「二年前、桜田門で大老、井伊直弼公が暗殺されたのは、ほむらさんもご存じでしょう?」
「えっと、え? さくらだ、なおすけ? 誰だっけ?」
「幕府の大変お偉い方です。高松のお殿様の、奥方様のお父上に当たります」
「えーっと、つまり、お殿様の義理の父親?」
「そうです。異国との条約の締結や将軍家の跡取り問題で、反対する者へ厳しい処罰を行い、反感を買っておられました。ですがまさか、暗殺されるなんて……。あれからというもの、幕府を非難する声は日に日に高まっていると聞いています」
「幕府が、非難されるの? 殺されたのに?被害者じゃん」
「大老を暗殺され、幕府の権威は失墜しました。人々は恐れなくなったのでしょう。公然と非難しても、幕府など恐るるに足らず、最早かつてのような力はない、と」
ほむらにはやはり難しい話だったが、何かとても大変なことが起きていることだけは、はっきりとわかった。
刀士郎は、きっと歴史を動かそうとしている。社会の成り立ちそのものを、変えようとしているのだ。
それが良いことか悪いことなのかは、ほむらにはわからない。
先生にも話しを聞きたかったが、最近は殿様に呼ばれて忙しく、ほとんど顔を合わせない。たまに会えたと思っても、いつも疲れた顔をしている。あんなに変な発明が好きな変人だったのに、何も作る様子がないのは、見ていて気の毒な程だった。
義勝も、一体どうしているだろうか。もう随分長い間会っていない。
婚姻してからは、道場に来ることも一切なくなった。たった一度、町に出かけた時に遠くから見かけたことがあったが、まるで違う世界の住人のように感じられて、見なかった振りをした。奥さんと思われる綺麗な女性と、仲睦まじそうにしている彼は、今まで見たことがないような柔らかな表情を浮かべていた。
少しずつ、社会の空気が悪くなっていく。日が経つにつれ、事態はどんどん悪化しているような気がした。
京の都では暗殺が多発している。新選組というのが厳しく目を光らせるようになり、大勢が捕縛された。
まさかあの優しい刀士郎が、暗殺やら焼き討ちやらに手を染めている訳がない。けれど、その同志とやらがどういう連中かはわからない。
もし、刀士郎が誤って捕縛されてしまったら? 冷たい牢の中に入れられたら? ――――かつての自分のように。
(やっぱり、あの時何が何でも引き止めるべきだったんだ)
顔くらいは知っていた知り合いが、謀反の疑いで拷問され処刑された。そんな噂を耳にしたほむらは、もういても立ってもいられなくなった。
1864年某日
ほむらは先生に、懇願した。
京の都へ、刀士郎を捜しに行きたい、と。




