28 振り返る
女の名は、バーバラと言う。
彼女は、至って平凡な、商人の娘として生まれた。父親が金貸しの男に騙され、若い頃に一家離散の憂き目に遭い、神殿に身を寄せる。信仰心があった訳ではないだろう。神殿に足繁く通っていた記録は、一切ない。
では、なぜ下級神官となったのか。
『のし上がるためですって。下級神官になるのに、金もコネも必要ない。誰にでも開かれた就職先よ。当然、修行みたいな生活はしなきゃならないけれど、衣食住、それに社会的にも一目置かれるとなれば、一文無しのバーバラが、一発逆転するには、神官になるしかなかった』
下級神官として、着実に、強かに、彼女は有益な人脈を築いていった。
神官としては大したものにはならなかったが、貴族金持ち連中に取り入ることに関しては、非常に優れていた。
孤児院の院長に抜擢されたのは、嬉しい誤算だっただろう。
子どもの世話など嫌いだろうが、子ども好きの有力者ならば、彼女は大勢知っている。
人身売買がどれだけ重い罪となるか、知らなかった訳ではないはずだ。
けれど、それが些末なものだと思える程度には、彼女は腐りきっていた――――。
フレアは、バーバラ院長に関する身辺報告書を静かに閉じた。
先日の裁判で提出され、衆目の前で読み上げられたものである。フレアは、裁判は見に行っていないが、院長自らが大勢の孤児を国内外に売り払っていたという大事件は、一時世間を大いに騒がせた。
事の発端は、郊外で起きた発砲事件。
当初、バーバラ院長は発砲事件の被害者とみられていた。廃墟の柱に括り付けられて発見された上、彼女自身ペラペラと「自分は被害者である」旨を必死で訴えていたのだから、怪しむ者は誰もいない。
それが覆ったのは、本当の被害者であるカノンと、ステラの証言だった。
「発砲事件を起こしたのは院長であり、彼女は人身売買に手を染めている」
ステラだけの証言であれば、封じられていた可能性は高い。頭のおかしくなった、身寄りのない子どもの戯れ言だと。
バーバラは有力な顧客を大勢抱えており、彼らにとっても、今までの取引について明るみに出るのは、何としても避けたい事態だ。裏で手を回して、ステラの証言をなかったことにするのは簡単だろう。
だが、カノンはそうもいかなかった。
彼は元々、四大公爵家の一つ、イグニス家の出身である上、現在は聖騎士であるフレアと生活を共にしている。
世間的には、イグニス家とは何の関わりもあってはならない身のはずだが、当のイグニス公爵が黙認しているのだから、彼は許されたのだろうとみている者もいる。
その彼が、「バーバラ院長が発砲した」と、はっきり証言したのである。
ステラの寄付金を着服し、孤児院の子どもたちを売り払い、さらにはカノンを殺害しようとした。
さすがにここまでの悪事となると、現実的でもなく、院長の無実を訴える者もいたが、やがてタイミングを見計らったように、人身売買の顧客リストが発見された。
バーバラが有力者を黙らせるために作成していた、秘密のリスト。
誰にも在処を教えていなかったであろうそのリストは、国の人間が孤児院やバーバラの屋敷を調べ尽くした後に、ひょっこりと書斎から出てきた。
恐らく、乱蔵が見つけたのだろう。
どうやったか知らないが、彼ならうまくやったはずだ。
リストの信憑性について、すぐに詳しい調査がなされた。
その結果、院長含む大勢が、処分されることとなった。有力者だけではない。あの孤児院の関係者も、取り調べの結果、ほぼ全員が関わっていたとわかった。あれだけ大規模な所業なのだから、当然と言えば当然である。
関わっていない者も中にはいたが、全く勘づいていなかった訳ではないだろう。
結局、職員全員が孤児院を去り、新しい院長と職員たちが、すぐに孤児院に配属されることとなった。
院長は遂に錯乱し、「シリウスという子どもが化け物になった」「殺すべきだ、あれが全部悪い」と、牢屋で妄言を吐いていると言う。
フレアは、看守に報告書を返し、牢屋を後にした。
本当はこんなところ来たくもないが、何となく、自分は知っておくべきかもしれないと思って、足を運んだのだ。
あの女は、間違いなく極刑に処されるだろう。
遅かれ早かれ、そうなる運命だったかもしれない。
だが、フレアが関わらなければ、彼女はまだもう少し長生きしたはずだ。
外に出たところで、フレアは意外な人物に出くわした。
「フレア・ローズ・イグニス」
「……ジーク、様」
背後には、いつも通りエイトも控えている。
ジークは、お忍びらしい簡素な出で立ちで、大神殿の外で彼を見るのは、これが二度目だ。
「私の言った通りになりましたね」
「レインという医者については、白だったがな」
「大体合っていたでしょう。それにあの医者だって、今回は白でも今後どうなるかはわからない。そういう感じでしたよ」
フレアは、ふんと鼻を鳴らして視線を逸らした。
ジークは、そんな彼女をじっと見つめている。何か心の中を見透かそうとしているかのように。
「少女の手術費を肩代わりしたそうだな」
「……ええ、まあ」
イグニス家からの寄付という名目で、フレアはステラの手術費を、代理の者を通じてレインに払っていた。
世間的には、イグニス公爵の寄付だと思われているだろうが、ジークはどこから情報を得たのか、フレアが工面したものだと知ったらしい。
「君にそんな一面があったなんてな。どういう風の吹き回しだ?」
「大した額じゃありませんでしたから」
「そうでもないだろう。金を集めるのは苦労したんじゃないか? 難しい病気だったと聞いている。それを長く放置したのだから、助けられる可能性はかなり低くなっていたはずだ。……それが、たった一晩で治ったというのには驚きだが」
「結局、大した病気じゃなかったんですよ。でなければ、一晩で治る訳がないでしょう。寄付はどこの貴族もやってるわ。別に珍しいことじゃない。庶民へのパフォーマンスね」
フレアはすまし顔で淡々と返した。
実のところ、手術費を集めるのは本当に大変だった。もう諦めて無視しようかと、そんな考えが一瞬頭を掠めるくらいには、大変だった。
何着もドレスを売り、わずかな宝石を売り、変装して近所の大工仕事を請け負い、それで何とか掻き集めた大金である。
倍にして返してもらいたいくらいだが、あれはもう一切返ってこないものと思って諦めている。
自分の命に比べれば安いものだ。
これだけ恩を売っておけば、シリウスがフレアに牙を剥くことは、さすがにもうあり得ないだろう。
ジークはまだ何か怪しんでいる様子だったが、やがて興味を失ったのか、「帰りに孤児院を見ていくといい」と言って、去って行った。
彼の姿が完全に見えなくなってから、フレアは「ふう」と息を吐いた。
ジークと話をすると、肩が凝る。
(今のは誰だ? 随分綺麗な顔の若人だったな)
『あれがジークよ』
(ジーク? はて?)
『ほら、小説に出てくるでしょ。私を断罪しようとするやつ』
(ああ、はいはい)
『あと、おばあちゃんはさっさと言葉を覚えてね。いちいち説明するのも面倒だし』
(うむ、異国の言葉を覚えるのは好きだ。任せてくれ)
内なるほむらと話をするのも、だんだん慣れてきた。
一体いつまでこの状態が続くのかはわからないが、慣れてしまえばどうでもよくなる。
さっさと帰ろうと、フレアは歩き始めた。
孤児院は通らなかった。その必要はどこにもない。
フレアが今回のことにどれだけ関わったか、知る者はいない。
時折、ほむらは乱蔵に会いたそうにしているが、それだけは絶対に御免である。
これ以上は関わりたくない。第一、またほむらに意識を奪われたら面倒だ。
シリウスとも、もう二度と会う必要はないし、会うこともないだろう。彼が処刑人となる未来は、無事回避できた。
これでようやく、平穏な日常が戻って来た。
――――――――――そう、思っていたのだが。
「……ねえ、これは、どういうこと?」
屋敷に戻ったフレアを待ち構えていたのは、もう二度と会うことはないと思っていた、シリウスと姉のステラが、カノンたちと楽しそうに談笑している光景だった。




