3 出かける
ちょうどその頃、王都の一角の巨大な屋敷で、長い授業がようやく終わりを告げた。
「はあ~、やれやれ、やっと終わった! 勉強ってほんと嫌い!」
「俺も頭が破裂しそうっす!」
「カノン、わからないところはどこだ? 俺が教えてやる」
「えっ、やだよ。今脳みそ疲れてんだけど」
「わからないところをわからないままにするつもりか。却下だ」
「ちょっと、まだ勉強する気? 私はやらないわよ!」
「貴方には聞いてません」
「何ですって!」
フレア、カノン、ルベル、ルカの四人は仲良く家庭教師の授業を受け終えたところだった。
カノンが学んでいる間は仕事をすると言っていたルベルだが、その間の家事やらなんやらはカイデンとライアが協力してやっているため、結局一緒に授業を受けるという流れに落ち着いている。家を捨ててカノンを選んだルベルのために、カイデン夫婦がそうなることを望んだ、というのもある。
ルカは屋敷の修繕がまだ完了していないというのと、本人の希望もあって一緒に授業を受けている。
イグニス公爵としては、今もルカを跡継ぎにという気持ちは変わらないらしく、ソフィアがこの屋敷に引っ越すとなった時などは相当困惑し反対したようだが、やがて諦め、カイデンたちのことも黙認しているらしい。よく子どもたちの顔を見に来ているようだが、フレアは出くわしたことがない。できることならこの先も永久に見ないでいられたらと思っている。
さて、話は家庭教師に戻る。
一人だけ十歳のフレアが、二つ上の三人と同じ授業を受けるというのは普通に考えればなかなか難しそうなものだが、そこは特に不都合は生じなかった。
フレアは、勉強は大層嫌いであるもののそこは腐っても本家の娘。他の三人より勉強の始まった時期が早かったため、むしろこの中で一番遅れていたのはカノンであった。そこでカノンの勉強に合わせて家庭教師もカリキュラムを組むようになり、フレアからすれば最近の授業は全て一度は通った道である。
彼女としては、その方が楽だから構わない。勉強も本に向かうのも退屈だし、元来あまり好きではない。
そんなことより、今日は彼女にとってとても大切な日だった。
「とにかく勉強は終わり! 今からお茶の時間よ! いいわね!」
朝夕は肌寒くなってきたが、まだまだ温かく過ごしやすい昼下がり。美味しいケーキとお茶を楽しむ絶好のぽかぽか日和である。
立ち上がったフレアに、「あ、あの!」とルカが声を掛ける。
振り返ると、彼は白い頬をぱっと赤らめて、ごにょごにょと恥ずかしそうに口を動かした。
「そ、その、えっと……」
「何? 何か不満?」
「いや、そうじゃないんだけど、あの……市場で、催し物をやっているらしくて」
「え?」
それは思いも寄らない提案だった。
「大道芸とか、輸入品の展示とか、えっと、いろいろ面白いことをやってるらしいんだ。お祭りみたいな。だからあの、フレアさえ良ければ、見に行ってみない?」
「…………」
「お茶にぴったりの美味しいお菓子もあるかもしれないな、って」
フレアは咄嗟に返事ができなかった。何か裏があるのではないか、と勘ぐったためである。なんせ、ルカにこんな提案をされたことは今までない。
だが、彼が思わずこんな提案をしたくなる程面白そうな祭りをやっているとなると興味も湧く。お茶菓子も買いたい。
今日は、特別な日なのだから。
「まあ、貴方がそこまで言うのなら」
頷くと、ルカはほっとしたように頬を緩めた。
「良かった。じゃ、カノンとルベルも――」
「俺はいい」
ルベルは素っ気なくそう言った後、「帰ってきたら補習だからな」と先生のようなことを言って部屋を出て行った。
賑やかなお祭りだった。大勢の行商人、物珍しい物品の数々、華やかな大道芸に、そこら中で上がる歓声と拍手。
いつもより活気のある市場の様子に、フレアも胸をときめかせた。
こういう賑やかなのも普段見られないような物珍しい品々を見るのも、嫌いではない。ごった返す人々の声で自分たちの声が掻き消されそうになるのも、いかにも祭りという感じがしていい。
「おっ、あれとかすげえ美味そうじゃねえっすか!?」
カノンが指差したのは、ふわふわ膨らんだ白い綿のようなお菓子。子どもたちが群がって、我先にと手を伸ばしている。大人の顔くらいのサイズはあるだろうか。味がわからないから茶菓子として適切かどうかは何とも言えないが、一度は口にしてみたい。
「ええ、お願い。三人分買って来て頂戴」
そう言って硬貨を渡そうとしたのだが、カノンは「わかりました!」と元気よく返事をしてすぐ、あっという間に店まで走ってしまった。フレアは出しかけた財布を仕方なく仕舞い、後で渡すことにした。
ルカとフレアの隣を、小さな子どもたちが駆けていく。楽しそうに笑いながら。
兄弟だろうか? その後ろ姿をぼんやり眺めた後視線を戻すと、ふとルカのポケットから金色の鎖が垂れていることに気がついた。鎖の先のロケットペンダントが、今にも落ちそうになっている。
「ちょっと、こんなところで不用心よ。盗られたらどうするの?」
「え? あっ、ありがとう!」
ルカは慌ててポケットの奥深くに突っ込み、ちらちらと辺りを警戒した。
「……誕生日に貰ったんだっけ?」
「え?」
「それ」
「あ、うん、母上から。赤い薔薇は、イグニス家の証だよって」
今も覚えている。金色の、丸いペンダント。表面に赤い薔薇の文様が刻まれていて、チャームを開けると中に絵や写真を入れられるようになっている。
ソフィア襲撃事件の直前、川辺で偶然拾ったあのペンダントである。
イグニス公爵に拾ったのだと訴えたら、お前が盗んだのだろうとあらぬ疑いをかけられたのは記憶に新しい。
「僕に、もし大切な人ができたら、ここに写真を入れるといいよって。その人を、ずっと傍に感じられるし、それに、どんな邪悪なものからも守ってくれるから、って」
「……ふうん」
フレアは興味なさそうに相づちを打ったが、本当のところは(なんてロマンチックなのかしら)と心の中でうっとりしていた。
好きな人の写真を入れて持ち歩くなんて、もの凄く素敵だ。もの凄くやってみたい。
但し自分の場合、好きな相手の顔すらわからないし、両思いでない場合にこれをやるのは非常にリスクがあるような気もするが。
青蓮の君は一体どこにいるのだろう。と言うかどういう顔なのだろう。
王都に来てから忙しい時間の合間を縫って彼女なりに探してはいるものの、顔も名前もわからないのではなかなか探すのも難しい。話をしたのはあれっきり。声さえほとんど覚えていない。
手掛かりとなるのは、あの日あの時処刑場にいた、という事実だけ。
普通は諦めるしかないような状況のように思えるが、これはこれでますます燃え上がり恋い焦がれているフレア。
会えない間に妄想ばかり逞しくしてはすっかり拗れてしまった彼女の頭の中で、青蓮の君は『今は身を落としているものの王国再建を誓う格好良くて気品に溢れて顔の良いどこかの亡国の王子で間違いなくフレアに一目惚れ』ということになっている。
そんなフレアの恥ずかしい妄想を見抜きでもしたのか、目が合った途端ルカの顔がパッと赤らんだ。
「な、何よ!!」
「へ!? なな、何でもないよ!」
素っ頓狂な声だった。まさか本当に自分の頭の中でも見られたのかと焦っていると、ルカは視線を逸らして茹で蛸のように真っ赤になってしまった。
フレアはますます動揺した。
「ちょちょちょちょっと、別に私、ロマンチックだなんて欠片も思ってないからね? 私もやってみたいなんて全ッ然これっぽっちも思ってないからね!?」
「わ、わかってる! わかってるよ!」
「ほんとにわかってるんでしょうね!?」
「ぼぼ、僕だって、フレアの写真をとか全然これっぽっちもほんの欠片も思ってないよ!?」
「当然よ私だって写真なんて大っ嫌いだもの! 写真機って怖いし映りも微妙だしあんな詐欺みたいな魔道具にお金をつぎ込むなんてばっかみたいよね!」
「どうしたんすか? 写真?」
お互い顔真っ赤になって頭真っ白になりながら必死で言い合っていると、両手に例の菓子を抱えたカノンが不思議そうな顔で戻って来た。
フレアは「何でもないわよ!」と乱暴にふわふわのお菓子を奪い取り思いきり齧りつき「何これ口がべったべた! 甘くていいじゃない!」と率直な感想を口にした。
食べながら人気のない方へ歩こうとした。
ここは人が多すぎて、こんな大きくてべたべたするお菓子を食べながらでは、誰かにぶつかってしまった時大変なことになる。
(て言うか買い食いなんて下品過ぎるわよね。普通に頼んじゃったけど。ここに来てから庶民の生活に慣れすぎてるような)
まあ、お忍びだからいいかと自分に言い聞かせながら、角を曲がろうとしたその時、背後で「おい!」と荒々しい声が響いた。
「何やってんだよ!!」
怒鳴り声を上げたのは、カノンだった。驚いて振り返ると、彼が見知らぬ女の子の腕を掴んで、睨み付けている。近くにいたルカも驚き、呆気にとられているようだった。
手にしていたふわふわのお菓子は、地面に落ちて崩れていた。




